追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第38話 失ってから気づくもの【王太子視点】

 机の上に積み上げられた書類の山を前に、私は額を押さえた。
 夜半をとうに過ぎているというのに、燭台の火はまだ消せない。
 税収報告、地方貴族からの抗議文、商人ギルドの嘆願書、いずれも不穏な文字ばかりが並んでいる。数ヶ月前までは、ここまで滞ることはなかったはずだ。
 私が目を通す前に整理され、優先順位が付けられ、必要な箇所には簡潔な注釈が添えられていた。
 私はただ最終判断を下せばよかった。

 ――だが今は違う。

 全てを一から読み、迷い、決断しなければならない。
 判断が遅れれば遅れるほど、下の者たちは疲弊して国は軋む。
 その重みが、じわじわと肩に食い込んでいた。

「……なぜ、こんなにも噛み合わない」

 思わず独り言が漏れてしまった。
 以前なら、季節ごとの物資流通量まで計算に入れた上で税率の微調整案が上がってきた。
 市場価格が跳ね上がる前に抑制策が打たれており、そして地方との軋轢も、事前の書簡一本で和らいでいた――あれは誰がやっていたのか。答えは、考えるまでもない。

 彼女だ。(セレスティア)

 彼女はいつも一歩先を見ていた。
 私がまだ問題を問題と認識する前に、既に対処の道筋を整えていた。私はそれを当然のように受け取り、己の才覚だと錯覚していたのかもしれない。
 いや、違う――私は王太子だ。最終的な責任を負うのは私だ。
 だからこそ支えがあったとしても、それは補佐に過ぎない――そう思っていた。

「……補佐、か」

 苦い笑いが漏れる。補佐などという軽い言葉で片付けられる存在だったのか?
 彼女は、王国を支える【盾】だったのではないか?
 私が前に立てたのは、背後にあの冷静な視線があったからではなかったのか?
 記憶がやけに鮮明に蘇る。夜更けの執務室の静かな、セレスティアの声が聞こえる。

『こちらは三ヶ月後に不足が出ます。今のうちに倉庫を開放すべきです』
『この貴族は虚偽報告の可能性があります。証拠はこちらに』

 淡々と、感情を交えず、しかし揺るがずに国を見ていた。
 私はあの横顔を、どれほど真剣に見たことがあっただろう。

「……なぜ、あの時」

 言葉が、喉に引っかかる。

「なぜ、私はセレスティアを庇わなかった……?」

 反逆の疑い、証拠、そして周囲の進言に母の冷ややかな視線。
 あの場で彼女を庇えば、私の立場は揺らいだかもしれない。
 王太子としての威信が傷ついたかもしれない。
 だから私は、合理的な判断をした――そう、思っていた。

「……違うな」

 合理的などと、言い訳だ。
 私は傷ついたのだ。
 彼女が私に反論したから。
 私の決断に、理で返したから。
 王太子である私の前で、臆せずに正論を述べたあの姿が、癪に障ったのだ。
 だから切り捨てたのだ。国のためなどと、美しい理由を掲げて。
 その時、扉がノックもなく開くと同時に甘い香水の匂いが流れ込む。

「レオン様?まだお仕事ですか?そんなに根を詰めなくてもよろしいのに……」

 現れたのがエリスだ。
 華やかなドレスに身を包み、宝石を揺らしている。私は顔を上げたが、言葉が出ない。

「ねえ、今夜は少しお話しません?退屈なの。政務なんて難しい事で、考えても仕方ないでしょう?」

 その声が、やけに軽く響いてきた。
 机の上の書類と、彼女の煌びやかな装いがあまりにも不釣り合いで、胸の奥に苛立ちが湧いた。

「……政務は仕方のないものではない……国の根幹だぞ?」
「あら、でも私は未来の王妃なんですよ?細かい数字なんて、専門家に任せればいいじゃない」

 未来の王妃――その言葉に、嘗て別の姿が重なる。
 数字を読み、帳簿を整え、私より先に問題点を指摘していた少女の姿。

「……もういい」

 私は低く言った。

「頼むエリス、今は一人にしてくれ」

 エリスが目を瞬かせる。

「どうして?私、何か悪いことを言った?」
「そういうことではない」
「じゃあ、なんですか?」

 問い詰める声が少し甲高くなる。
 だが、私は答えられなかった。何をどう言えばいいのか自分でもわからない。
 ただ、今この場に彼女がいることが、ひどく鬱陶しかった。

「……頼む。出て行ってくれ」

 はっきりと言うと、エリスの顔が歪んだ。

「レオン様、最近冷たいですわ……もしかして、あの女(セレスティア)の事、まだ引きずっているの?」

 その一言で、胸が強く打つ。

あの女(セレスティア)、だと?」
「だってそうでしょう? セレスティアは堅物で、可愛げがなくて、皆に嫌われて――」
「やめろ」

 思わず声が荒くなる。エリスが一歩引いた。

「彼女を、そんな風に言うな」

 言ってから、自分でも驚く。
 私は何を庇っている? 
 追放したのは私だ、切り捨てたのは私だ、それなのに。

「……レオン様?」

 戸惑う声を無視し、私は視線を落とす。

「彼女は……」

 言葉が続かない。だが、胸の奥から確かに湧き上がる感情がある。

「彼女は、この国に必要だった」

 静まり返る室内。エリスの顔が強張る。

「なに、それ……」
「出て行け」

 今度こそ、冷たく告げる。
 エリスは唇を噛み、何か言いかけたが、やがて踵を返した。
 扉が強く閉まる音が響く。
 一人になった室内で私は深く息を吐く。
 机の上の書類が、やけに重く見えた。

「……セレスティア」

 名を、口にする。
 嘗て当然のように呼んでいた名――今は、やけに遠い。

「もし、お前がここにいたなら」

 こんな混乱は起きなかったのか。
 私の隣で、冷静に助言を与え、私を叱り、時に諫めていたのだろうか。

「……戻ってきてくれ」

 思わず零れた言葉に、自分で愕然とする。

「いや、違う」

 違うのか? 
 本当に? 
 私は拳を握る。

「私は、王太子だ」

 国を支えるのは、私の役目だ。
 他者に依存してはならない。だが、それでも。

「……それでも、君がいなければ」

 最後まで言えなかった言葉が、胸に重く沈んだ。
 燭台の火が、静かに揺れている。
 私は書類に視線を戻すが、文字が霞んで見えた。
 失ってから気づくなど、あまりにも愚かだ。それでも、今さらながら思う。
 私は、セレスティアを手放すべきではなかったのではないか、と。
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