光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第48話 藤崎家へ

藤崎家へ伺う日、美月は怜子に選んでもらった服を着た。

淡いグレージュのワンピース。

深いネイビーのジャケット。

派手ではない。

けれど、鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びる。

左手には、理久から贈られた指輪をつけた。

仕事の日には外しているその指輪も、今日は外さなかった。

服は、相手に勝つために着るものではない。

自分がその場で呼吸をするために着るもの。

怜子の言葉を思い出し、美月はそっと息を吸った。

手土産も、怜子が教えてくれた店で選んだ。

季節の和菓子。

高すぎず、けれど丁寧に作られたもの。

手土産は、値段ではなく、その家を訪ねる時の挨拶。

その言葉も、美月の中に残っている。

玄関で理久が美月を見た。

「大丈夫?」

「……大丈夫に見えますか」

「見える」

「本当ですか」

「うん」

理久は少しだけ目元を緩めた。

「その服、似合ってる」

美月は視線を落とす。

「怜子さんが選んでくださったので」

「姉さん、喜ぶだろうね」

「もうお礼は伝えました」

「直接会った時も言うと思う」

「何をですか」

「美月がちゃんと着てくれたって」

美月は少しだけ笑った。

その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。

* * *

藤崎家は、都内の静かな住宅街にあった。

大きな通りから少し入っただけで、街の音が遠くなる。

門構えは立派だった。

けれど、誇示するような派手さはない。

石畳も、植え込みも、玄関までの道も、隅々まで手入れが行き届いている。

美月は一瞬、言葉を失った。

綾瀬家とは違う。

綾瀬家には、父の気配があった。

強さ。

緊張。

医師としての矜持。

家の中にいても、どこか父の存在が濃かった。

けれど藤崎家は、違った。

静かなのに、圧倒される。

余計なものがないのに、すべてが満たされている。

そういう場所だった。

玄関の扉が開く。

先に出てきたのは、怜子だった。

今日も美しかった。

けれど、前回のサロンで見た時より少しだけ柔らかい。

「いらっしゃい、美月さん」

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

美月は深く頭を下げた。

怜子は、美月の服を見ると満足そうに微笑んだ。

「とても似合っているわ」

「怜子さんのおかげです」

「選んだのは私だけれど、着ると決めたのは美月さんでしょう」

その言い方が、自然だった。

美月は少しだけ胸が温かくなる。

怜子は理久を見る。

「理久、ちゃんとエスコートしてきた?」

「してきたよ」

「本当に?」

「疑うところ?」

「あなたは整えすぎることがあるから」

理久は小さく息を吐いた。

「今日まで言う?」

「必要ならいつでも言うわ」

美月は思わず口元を緩めそうになった。

怜子は、それに気づいて少しだけ笑う。

「少し笑えるなら大丈夫ね」

そう言って、二人を中へ招いた。

玄関に入ると、空気がさらに静かになった。

磨かれた床。

控えめに飾られた花。

壁に掛けられた絵。

どれも主張しすぎない。

でも、ひとつひとつが確かだった。

迎えてくれたのは、理久の母だった。

藤崎佳乃。

姿を見た瞬間、理久の母だと分かった。

静かな目元。

柔らかな微笑み。

相手を包むような空気。

理久や怜子の持つ洗練は、この人からも来ているのだと思った。

「美月さんね」

声は穏やかだった。

「お会いできて嬉しいわ」

美月はすぐに頭を下げた。

「はじめまして。綾瀬美月と申します。本日はお招きいただきありがとうございます」

「こちらこそ、いらしてくださってありがとう」

佳乃は、美月を値踏みするようには見なかった。

ただ、そこに立つ美月をそのまま受け止めるように見ていた。

それだけで、美月の胸の奥にあった緊張が、少しほどけた。

「こちら、心ばかりですが」

美月が手土産を差し出すと、佳乃は両手で受け取った。

「まあ、綺麗な包み」

「季節の和菓子です。お口に合えばよいのですが」

「ありがとう。あとで皆でいただきましょう」

その言い方が、あまりに自然だった。

高価かどうかではない。

珍しいかどうかでもない。

美月が選んで持ってきたものとして、丁寧に受け取ってくれる。

今、自分の挨拶は受け取られたのだ。

そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。

奥の部屋へ案内される。

そこには、理久の父がいた。

藤崎圭一郎。

穏やかに立ち上がり、美月に向かって軽く会釈した。

「よく来てくださいました」

声は低く、落ち着いていた。

綾瀬宗一郎とはまったく違う。

父は、場に入った瞬間に空気を動かす人だった。

相手の芯を掴み、正面から見据える。

藤崎圭一郎は違った。

空気を動かさない。

けれど、その場の土台そのもののように静かにいる。

美月は、別の意味で圧倒された。

「はじめまして。綾瀬美月と申します」

「理久から話は聞いています」

圭一郎は静かに言った。

「どうぞ、楽にしてください」

楽に。

そう言われても、簡単に楽にはなれない。

けれど、その言葉には押しつけがなかった。

楽にしなさい、ではない。

楽にしていい。

そう言われているようだった。

席に着くと、佳乃が自然にお茶を勧めた。

美月は一瞬、どのタイミングで手を伸ばすべきか迷った。

その迷いに気づいたのか、佳乃が先に湯呑みに手を添えた。

「どうぞ。冷めないうちに」

「あ、ありがとうございます」

美月は佳乃の動きを見てから、湯呑みに手を添えた。

湯呑みは温かく、指先に少しずつ熱が移る。

理久が隣で小さく言った。

「無理に飲まなくていいよ」

その瞬間、佳乃が理久を見る。

「理久」

「何」

「お茶くらい、美月さんが自分で決められるでしょう」

理久は一瞬黙った。

怜子が横で楽しそうに笑っている。

「姉さん、嬉しそうだね」

「ええ。とても」

美月は思わず湯呑みに目を落とした。

笑ってしまいそうだった。

いつもこちらを先回りして助けてくれる理久が、この家では少しだけ先回りを止められている。

それが不思議で、少し可愛かった。

食事は、驚くほど穏やかに進んだ。

藤崎家の食卓には、声の大きい人はいなかった。

誰かが場を支配するわけでもない。

けれど、話題が途切れることもなく、誰かが置いていかれることもない。

美月が少し迷えば、佳乃が先に箸を置く。

湯呑みに手を伸ばすタイミングに迷えば、怜子が自然に同じ動きをする。

それは教えるというより、そっと道を作ってくれるようだった。

美月は、少しずつ呼吸を取り戻していった。

圭一郎は多くを語る人ではなかった。

けれど、美月が話す時は必ず顔を向ける。

相槌は少ない。

でも、一言一言をきちんと受け取っているようだった。

「看護師を続けてこられたことは、理久から聞いています」

圭一郎が言った。

「はい」

「病院という場所で働くのは、体力だけでなく、気力も要るでしょう」

美月は少し驚いた。

理久の父から、そういう言葉が出ると思っていなかった。

「はい。大変なこともあります」

「でしょうね」

圭一郎は静かに頷いた。

「人の痛みに近い場所にいる仕事ですから」

その言葉に、美月は胸を打たれた。

看護師という仕事を、軽く見ていない。

理久の父は、美月を理久についていく人としてだけ見ているのではない。

美月が立ってきた場所も、ちゃんと見ようとしてくれている。

「留学の話もあると聞いています」

圭一郎は続けた。

美月の背筋が、少し伸びる。

理久が静かに答えた。

「はい。まだ、正式に決まった話ではありません」

「まだ正式に決まっていないなら、なおさら今から話しておくべきだろう」

その声は静かだった。

責めるような響きではない。

けれど、言葉そのものは甘くなかった。

圭一郎は理久を見た。

「理久」

「はい」

「美月さんが考える時間を、急がせるな」

理久は静かに頷いた。

「分かっています」

「お前は整えすぎるところがある」

美月は思わず怜子を見た。

怜子が少しだけ微笑んでいる。

理久は、もう諦めたように小さく息を吐いた。

「家族全員に言われるとは思わなかった」

「言われるだけの自覚があるなら、気をつけなさい」

圭一郎の声は穏やかだった。

けれど、しっかり理久に届いている。

佳乃が柔らかく笑う。

「理久は昔から、先に全部並べてしまうところがあるものね」

「母さんまで」

「だって本当でしょう」

怜子が涼しい顔で頷いた。

「本当ね」

「姉さんは黙ってて」

「無理ね」

美月は、とうとう小さく笑ってしまった。

理久がこちらを見る。

少し困ったような顔。

その表情を見て、美月の胸の奥がふっと緩んだ。

ここでは、理久は完璧な外科医でも、余裕のある恋人でもない。

藤崎家の息子だった。

その姿が、美月には少しだけ愛おしかった。

食事が一段落したころ、圭一郎が静かに湯呑みを置いた。

「美月さん」

「はい」

「うちは、親族の付き合いが少し多い家です」

空気が、少しだけ変わった。

理久が父を見る。

「父さん」

圭一郎は理久を見た。

「先に伝えておく方が誠実だろう」

理久は黙った。

圭一郎は美月へ視線を戻す。

「悪い人間ばかりではありません。ただ、見る人は見る。藤崎の家に関わる人として、あなたを見る人もいるでしょう」

美月は、湯呑みを持つ指に少しだけ力を込めた。

怜子が静かに口を挟む。

「怖がらせる言い方ね」

「事実を言った」

「事実でも、順番というものがあるわ」

理久が小さく息を吐いた。

「それ、姉さんが言う?」

「私は予習をしたでしょう」

「圧強めの予習だったけどね」

「効果はあったはずよ」

佳乃が、ふふ、と小さく笑った。

一気に張りつめかけた空気が、少しだけ緩む。

圭一郎も、ほんのわずかに口元を動かした。

「脅しているわけではありません」

圭一郎は改めて言った。

「ただ、知らないまま疲れるより、知っていた方がいい」

その言葉は、怜子の言葉と似ていた。

美月はゆっくり頷いた。

「はい」

声が少し緊張していた。

でも、逃げてはいなかった。

「分からないことは、きちんと聞きます」

圭一郎は美月を見た。

「それでいいと思います」

短い言葉だった。

けれど、美月には十分だった。

佳乃が、そこで穏やかに言った。

「最初から慣れる必要はないわ」

美月は佳乃を見る。

「分からないことがあれば、その都度知っていけばいいの」

その言葉が、胸の中に静かに落ちた。

知っていけばいい。

知らないことを責められるのではなく。

知らないから入れないのでもなく。

これから知っていくことを許されている。

それが分かっただけで、美月は少しだけ息がしやすくなった。

「ありがとうございます」

美月は、静かに頭を下げた。

「私、知らないことが多いと思います」

「誰でもそうよ」

佳乃は穏やかに頷いた。

美月は少しだけ息を吸った。

「でも、知りたいです」

理久が、美月を見る。

怜子も、黙って美月を見ていた。

美月は、もう一度言った。

「理久の隣に立つなら、知らないまま怖がるのではなく、ちゃんと知っていきたいです」

佳乃の目元が、ほんの少し柔らかくなった。

「その気持ちがあれば十分よ」

圭一郎も、静かに頷いた。

「理久」

「はい」

「聞いたな」

「はい」

「なら、お前も覚えておきなさい」

理久は少しだけ苦笑した。

「分かっています」

怜子がすかさず言う。

「本当に?」

「姉さん」

「大事なことだから」

「分かってるよ」

美月はまた少し笑ってしまった。

その笑いに気づいて、怜子が満足そうに目を細める。

「ね、大丈夫でしょう」

「何がですか」

「この家、怖いだけではなかったでしょう」

美月は一瞬、言葉に詰まった。

怜子の言葉は、やっぱり強い。

でも、今日その強さに何度も助けられた。

「はい」

美月は素直に頷いた。

「少し、分かりました」

怜子は嬉しそうに微笑んだ。

食事を終え、玄関へ向かう。

来た時には遠く感じた廊下が、帰りには少しだけ違って見えた。

磨かれた床。

静かな花。

壁に掛けられた絵。

どれもまだ慣れない。

でも、もうただ圧倒されるだけではなかった。

この家は、美月を追い出そうとしていない。

理久の隣に立つ人として、静かに迎えようとしてくれている。

車に乗る前、佳乃が美月に言った。

「またいらしてね」

「はい」

「今度は、お茶だけでも」

その言葉に、美月は一瞬驚いた。

社交辞令ではないと分かったからだ。

「よろしいんですか」

佳乃は少しだけ笑った。

「もちろん。いろいろお話ししましょう」

怜子が横から言う。

「母は教えるのが上手よ。私より優しいし」

「怜子」

佳乃がたしなめるように言う。

怜子は涼しい顔で微笑んだ。

「本当のことでしょう」

理久は隣で小さく息を吐いた。

「姉さんは最後まで姉さんだね」

「あなたの姉だから」

「そこは否定できない」

そのやり取りに、美月はまた少し笑った。

* * *

帰りの車の中、美月はしばらく黙っていた。

理久は急かさなかった。

窓の外を流れる街灯を見ながら、美月はゆっくり言った。

「理久」

「うん」

「今日、少し分かった気がします」

「何を?」

「私が怖かったのは、知らない世界に入ることだけじゃなくて、知らないまま置いていかれることだったんだと思います」

理久は黙って聞いていた。

「でも、理久のお母様も、怜子さんも、知らないことを責める人ではありませんでした」

「うん」

「だから、知っていきたいと思いました」

美月は左手の指輪に触れた。

「看護師を続けることも、もし一緒に向こうへ行くことになった時のことも、まだ簡単には決められません」

「うん」

「でも、どちらを選ぶとしても、それは逃げるためではなく、自分で選ぶためにしたい」

理久の表情が、少し変わった。

「美月」

「今すぐ答えを出すわけではありません」

美月は理久を見る。

「でも、ちゃんと考えます。理久の隣に立つ未来を、怖がるだけではなくて、知ってから選びたいです」

理久は、静かに美月の手を取った。

「ありがとう」

それだけだった。

でも、美月には十分だった。

藤崎家という場所は、まだ遠い。

けれど、もうただ怖いだけの場所ではなかった。

知っていけばいい。

その言葉が、胸の中で静かに灯っていた。
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