光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第59話 ただの王子じゃない

相手の名前を、ようやく言えた。

その安心は、美月が思っていたよりもずっと大きかった。

玲奈と香澄が受け止めてくれた。

及川にも招待状を渡せた。

父のことも、少しだけ話せた。

全部を話したわけではない。

それでも、ずっと胸の奥で固く結んでいたものが、少しほどけた気がした。

美月はグラスを置き、ふわっと笑った。

その顔を見た瞬間、及川が眉を寄せる。

「待て待て」

「何?」

玲奈が首を傾げると、及川は美月を指さしそうになって、途中でやめた。

「この流れ、前回見たぞ」

香澄が笑う。

「大丈夫。今日はそんなに飲ませてない」

「前回よりはね」

玲奈が付け足す。

「前回よりは、って何だよ」

及川は額に手を当てた。

美月は、にこにこしている。

「綾瀬、酔ってるだろ」

「酔ってないよ」

「その返事も前回聞いた」

玲奈が楽しそうに美月を見る。

「安心すると、美月って昔からこうなるんだよね」

「ねぇ」

香澄も頷く。

「ねぇ、じゃない」

及川はため息をついた。

この二人は分かっているようで、分かっていない。

いや、分かっているからこそ、危機感がないのかもしれない。

玲奈がふと思いついたように顔を上げた。

「あ、及川先生」

「何」

「藤崎先生を見たい」

及川は一瞬で嫌な顔をした。

「正直すぎるだろ」

「だって、美月の婚約者が藤崎先生なんだよ」

香澄まで少し身を乗り出す。

「一回だけでいいから」

「二人とも、藤崎先生を何だと思ってるんだよ」

「王子」

玲奈は即答した。

「やめろ」

「院内の王子が、美月の婚約者なんだよ。見たいに決まってるじゃん」

「見世物じゃないんだぞ」

「分かってる。分かってるけど、見たい」

香澄も真顔で頷く。

及川は、もう一度ため息をついた。

その横で、美月はグラスを持ったまま、ふわっと笑っていた。

「りく、忙しいと思う」

あまりにも素直な声だった。

及川は黙った。

これは、まずい。

やっぱり前回と同じ流れになりかけている。

「……呼ぶんじゃなくて、報告だけな」

玲奈と香澄が、同時に頷いた。

「うん」

「報告だけ」

「絶対、来いとか書かないからな」

「分かってるって」

「分かってなさそうなんだよ」

及川はスマートフォンを取り出し、理久のトーク画面を開いた。

少し考えてから、短く打つ。

『招待状いただきました。
ありがとうございます。

三人でかなり楽しそうです。
ただ、綾瀬は少し酔っています。

一応報告です。』

送信。

しばらくして、既読がついた。

続けて、短い返信が来る。

『場所は?』

及川は店の名前を送った。

返事は、すぐだった。

『行く。』

及川は画面を見つめた。

「……来るって」

玲奈と香澄の顔色が、一瞬で変わった。

「え、本当に?」

「来るの?」

「二人が見たいって言ったんだろ」

及川が言うと、玲奈は慌ててグラスを置いた。

「いや、見たいとは言ったけど、本当に来ると緊張するでしょ」

香澄も急に髪を整え始める。

「待って。私、普通に飲んでる」

「今さら?」

「だって、まさか本当に来るとは思わないでしょ」

「呼んだくせに」

「呼べるなら見たい、って話だったの」

玲奈が真顔で言う。

及川は呆れたように二人を見た。

「勝手だな」

「だって藤崎先生だよ」

「さっきまで王子って言ってただろ」

「本人を前にして言えるわけないでしょ」

「俺には散々言わせたくせに」

「及川先生は及川先生だから」

「どういう意味だよ」

そんなやり取りをしている横で、美月はふわっと笑っていた。

「りく、来るの?」

「来る」

「よかった」

その顔があまりにも幸せそうで、及川は少しだけ視線を逸らした。

これは、たぶん来た方がいい。

この顔を見せていい相手は、あの人だけだ。

しばらくして、店の入口に長身の男が現れた。

落ち着いた色のコート。

白いシャツ。

仕事帰りのはずなのに、少しも乱れていない。

藤崎理久。

店内のざわめきの中でも、その姿はすぐに分かった。

玲奈が小さく息を呑む。

香澄も、いつものサバサバした表情を少しだけ改めた。

「……本当に来た」

及川は立ち上がった。

「先生、お疲れ様です」

玲奈と香澄も慌てて姿勢を正す。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

さっきまで好き勝手に言っていた二人が、急にきちんとした声を出す。

及川は呆れた。

「おい、態度違くない?」

「当たり前」

玲奈が小声で即答する。

香澄も小さく言う。

「職場で必要なことしか話さない先生だよ」

「俺には散々好き勝手言ってたくせに」

「及川先生は及川先生だから」

「またそれかよ」

理久は、そのやり取りを聞いて少しだけ笑った。

「こんばんは。遅くに失礼します」

声は穏やかだった。

職場で聞く、必要事項だけを伝える冷静な声とは少し違う。

けれど、砕けすぎてもいない。

理久は、まず玲奈と香澄へ丁寧に頭を下げた。

「藤崎理久です。今日はありがとうございます」

玲奈と香澄も慌てて頭を下げる。

「三浦玲奈です。オペ室でお世話になっています」

「柏木香澄です。救急部でお世話になっています」

「こちらこそ。仕事では私の方がお世話になっています」

理久は静かにそう言ってから、二人を見た。

「招待状を受け取ってくださって、ありがとうございます」

玲奈は少し慌てたように首を振った。

「いえ、こちらこそ。本当におめでとうございます」

「今日、美月から聞きました」

香澄が続ける。

理久は軽く頭を下げた。

「ここまで名前を伏せる形になってしまって、すみません」

「それは分かります」

香澄はすぐに言った。

「院内だと、たぶん一気に広がるので」

玲奈も頷いた。

「むしろ、美月が慎重にしていた理由が分かりました」

「ありがとうございます」

そこで、美月が少しだけ顔を上げた。

「りく」

声が柔らかい。

理久の目元が、ほんの少しだけ緩む。

「うん」

「来た」

「来たよ」

「お仕事は?」

「終わらせてきた」

「お疲れ様」

「ありがとう」

そのやり取りを聞いて、及川は顔を覆いそうになった。

玲奈と香澄は、完全に目を輝かせている。

職場では絶対に見られない光景だった。

玲奈が、少し迷ってから空いている席を示した。

「あの、よろしければ少しだけ……」

言ってから、自分で慌てたように首を振る。

「すみません。呼び出したみたいになってしまって」

理久は美月の様子を一度見た。

美月は、理久を見上げてふわっと笑っている。

それだけで、理久の表情が少し和らいだ。

「では、一杯だけ失礼します」

その言い方が自然すぎて、玲奈と香澄は一瞬固まった。

及川は心の中で呟いた。

出た。

こういうところだ。

呼び出された形になっても、相手にそれを感じさせない。

困らせない。

美月の大切な人たちの前で、ちゃんと婚約者としてそこに座る。

それがまた、腹立つくらい藤崎先生だった。

店員が椅子を一つ足してくれた。

理久は、美月の隣に腰を下ろす。

店員に飲み物を尋ねられ、静かに生ビールを頼んだ。

玲奈と香澄は、まだ少し緊張している。

さっきまで見たいと言っていた相手が、本当に目の前に座っている。

しかも、美月の隣に。

その現実に、二人ともまだ追いついていないようだった。

ビールが運ばれてくると、玲奈がグラスを持ち上げた。

「では、改めて」

香澄が続ける。

「美月と藤崎先生のご結婚に」

及川もグラスを持つ。

「あと、俺が正式に招待状を受け取った記念に」

「そこは小さめで」

玲奈がすぐに言う。

「入れてくれるだけありがたいけどさ」

理久が小さく笑った。

美月も笑う。

四つだったグラスに、理久のグラスが加わる。

軽く触れた音が、静かに重なった。

「おめでとうございます」

玲奈と香澄が、少し照れたように言った。

理久は穏やかに頷く。

「ありがとうございます」

理久はビールを一口飲んだ。

何も特別なことではないはずなのに、妙に絵になる。

玲奈が、小さく呟いた。

「王子だ……」

香澄が即座に玲奈の腕をつつく。

「聞こえる」

理久は聞こえていたのかいないのか、穏やかな顔のままだった。

及川は小さく肩を震わせる。

「今の、アウトじゃない?」

「心の声が漏れただけ」

「漏らすな」

美月は顔を赤くして俯いた。

理久はその顔を見て、少しだけ笑う。

「どのくらい飲んだ?」

「少し」

及川がすかさず言う。

「本人申告は少しですけど、表情はかなり仕上がってます」

「及川くん」

美月が少し不満そうに見る。

「ここは正直に報告するところ」

玲奈が笑った。

「量はそこまでじゃないです」

香澄も頷く。

「でも、安心して気が緩んでます」

理久は小さく笑った。

「分かりました。ありがとうございます」

その一言に、及川は少しだけ黙った。

また、そういうことをさらっと言う。

藤崎先生は、本当にずるい。

理久はそれ以上、場を改めすぎなかった。

ただ、玲奈と香澄へ向き直る。

「六月の式、ぜひ来てください」

「もちろんです」

玲奈の表情が明るくなる。

香澄も頷いた。

「行きます。美月のドレス、絶対見たいので」

「香澄」

美月は顔を赤くする。

玲奈が笑った。

「私も絶対行きます」

「ありがとうございます」

その短いやり取りだけで、十分だった。

理久は、ただ迎えに来たのではなかった。

「藤崎先生」

玲奈が、少しだけ真面目な顔になった。

「美月のこと、よろしくお願いします」

香澄も続ける。

「美月、頑張りすぎるところがあるので」

理久は静かに頷いた。

「分かっています」

香澄が、少しだけ笑う。

「本当に分かってそうですね」

「努力します」

その返しに、玲奈と香澄はまた顔を見合わせた。

どこまでも丁寧で。

どこまでも穏やかで。

それでいて、美月を見る時だけ、少しだけ目元が違う。

玲奈が小声で言った。

「美月、すごい人捕まえたね」

美月はふわっと笑う。

「うん」

その素直な返事に、全員が一瞬黙った。

それから、笑った。

「認めた」

「美月、酔ってる」

及川が即座に言う。

「酔ってる」

「酔ってません」

美月が言うと、理久も少し笑った。

そのあとも、時間は静かに流れた。

理久は多くを話さない。

けれど、美月が笑うたびに、ほんの少し目元が柔らかくなる。

そのたびに、玲奈と香澄が目を合わせる。

美月は、それに気づいて少し俯いた。

ビールのグラスが半分ほど空いた頃、理久が美月の顔を見た。

表情は柔らかい。

けれど、もう十分に気が緩んでいる。

「今日はもう帰ろうか」

「うん」

美月は素直に頷いた。

理久が美月のバッグを持つ。

その動作があまりに自然で、玲奈と香澄はまた少し目を丸くした。

「及川」

理久が声をかける。

「はい」

「連絡、ありがとう」

「報告しただけです」

「それでも助かった」

及川は少しだけ口元を緩めた。

それ以上、何も言わなかった。

理久は、玲奈と香澄に向き直る。

「では、先に失礼します」

美月も少し照れながら二人を見る。

「玲奈、香澄、今日はありがとう」

「こちらこそ」

「招待状、ありがとう」

「絶対行くからね」

「ドレス楽しみにしてる」

美月は頷いた。

「うん」

理久は美月の背にそっと手を添え、店の出口へ向かった。

三人は席を立ち、入口近くまで見送った。

ガラス扉の向こうは、夜風が少し冷たそうだった。

理久が美月のコートの前を整える。

美月は素直に頷き、理久の袖を少しだけ掴んだ。

その様子を、玲奈と香澄は扉の内側から見ていた。

「……あれ、明日の朝には見られないね」

玲奈が小さく言った。

香澄も頷く。

「今だけだね」

及川は、二人の横で深く息を吐いた。

「だから、外で見せちゃ駄目なやつなんだよ」

タクシーが到着すると、理久は美月を先に乗せた。

窓越しに、美月が小さく手を振る。

玲奈と香澄も手を振り返した。

及川も軽く手を上げる。

ドアが閉まり、タクシーはゆっくり走り出した。

車内で、美月が理久の肩に少し寄りかかる。

理久は当然のように、その重みを受け止めていた。

二人の姿は、夜の灯りの中へ静かに遠ざかっていく。

三人は、しばらくその場に立っていた。

やがて玲奈が、小さく息を吐く。

「……王子だったね」

香澄も、まだ扉の向こうを見ている。

「王子だった」

及川は少しだけ笑った。

「まあな」

玲奈が及川を見る。

「何、その分かってる感」

「分かってるから」

「腹立つ」

「またかよ」

及川は、タクシーが消えていった方へ一度だけ視線を向けた。

「でも、ただの王子じゃないんだよ」

香澄が首を傾げる。

「何、それ」

及川は少しだけ誇らしげに言う。

「綾瀬のこと、ちゃんと分かってる王子」

玲奈と香澄は、少し黙った。

それから、静かに笑う。

「それなら安心だね」

「うん」

及川は頷いた。

藤崎理久。

その名前はもう、美月だけが抱える秘密ではない。

玲奈と香澄が笑い、及川が少し誇らしげに頷く夜。

祝福の中で、その名前はようやく外へ出ていく。

扉の向こうから入る夜風に、少しだけ春の匂いが混じっていた。
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