光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第61話 噂の向こう側

美月が10Aを去ってから、数日が経った。

病棟の空気は、表面上はすぐに日常へ戻った。

ナースコールは鳴る。

検査は組まれる。

退院調整は進む。

医師は指示を出し、看護師はそれを確認する。

誰かがいなくなっても、病院は止まらない。

それは当たり前のことで、美月自身もよく分かっていたはずだった。

けれど、いなくなった人の名前は、しばらくそこに残る。

「綾瀬さんだったら、ここ先に確認してましたよね」

「この申し送り、綾瀬さんの引き継ぎ表に書いてあった」

「やっぱり細かいなあ」

そんな声が、10Aの中で何度か聞こえた。

そして、もう一つ。

美月の結婚相手が藤崎理久だということも、院内に少しずつ広がっていった。

10Aのスタッフが軽く話を広げたわけではない。

招待状。

挨拶。

必要な報告。

そういうものを通して、話は自然に人の耳へ届いていく。

大学病院に、完全な秘密はない。

外科。

オペ室。

医局。

関係する場所へ、話は静かに、けれど確実に流れていった。

「藤崎先生、綾瀬さんと結婚するんだって」

「10Aにいた綾瀬さん?」

「そう。しかも、関西の大学病院の有名教授の娘さんらしいよ」

「え、そうなの?」

「だからあんなに品があったのか」

「いや、でも藤崎先生もすごいところ行くね」

「留学もあるし、将来安泰じゃん」

廊下の角を曲がったところで、その声が耳に入った。

藤崎先生は足を止めなかった。

隣を歩いていた及川の方が、わずかに反応する。

視線だけが、声のした方へ動いた。

藤崎先生は前を向いたまま歩いている。

白衣の裾が静かに揺れた。

「先生」

及川が、小さく呼んだ。

「うん」

藤崎先生は普段と変わらない声で返す。

「今の」

「聞こえた」

「……ですよね」

及川は少しだけ眉を寄せた。

藤崎先生は特に表情を変えない。

「想定内だから」

「想定内って」

「招待状を出せば、いずれ広がる。美月が綾瀬教授の娘だということも含めて」

「でも、今の言い方は」

及川はそこで言葉を切った。

直接悪意があったわけではない。

けれど、軽かった。

藤崎先生。

関西の大学病院の有名教授の娘。

留学。

将来。

その単語が、まるで計算された経歴のように並べられていることが、及川には少し引っかかった。

藤崎先生はエレベーターの前で足を止めた。

ボタンを押す。

「及川」

「はい」

「今、美月がここにいなくてよかったと思ってる」

及川は藤崎先生を見た。

藤崎先生は前を向いたままだった。

「こういう視線に、美月を晒さずに済む」

その声は静かだった。

怒りも苛立ちも、表には出ていない。

けれど、及川には分かった。

何も感じていないわけではない。

ただ、表に出さないだけだ。

「先生だけが、そういう目で見られることになりますよ」

及川は思わず言った。

藤崎先生は少しだけ口元を緩めた。

「俺だけで十分」

その言い方があまりに当然で、及川は一瞬黙った。

エレベーターの扉が開く。

二人は乗り込んだ。

中には他に誰もいない。

扉が閉まり、小さな機械音が響く。

及川は、まだ納得いかない顔をしていた。

「俺は」

言いかけて、一度だけ口を閉じる。

それから、少し声を落とした。

「俺は、先生の味方なんで」

藤崎先生は前を向いたまま、ほんの少しだけ目を細めた。

「ありがとう」

その一言は、短かった。

けれど、及川には十分だった。

「……はい」

及川は、少しだけ背筋を伸ばした。

エレベーターが目的階に着く。

扉が開いた。

二人は並んで歩き出す。

今までより、ほんの少しだけ近い距離で。

* * *

医局でも、話は広がっていた。

藤崎先生が部屋に入ると、いくつかの視線が向けられる。

祝福もあった。

「藤崎、おめでとう」

「式は六月だったな」

「留学前で忙しいだろうけど、身体壊すなよ」

そう声をかけてくれる先輩もいた。

藤崎先生は一つひとつ丁寧に礼を言う。

「ありがとうございます」

「はい。準備は少しずつ進めています」

「気をつけます」

その応対は、いつも通りだった。

落ち着いていて、無駄がない。

けれど、祝福だけではないことも、藤崎先生は分かっていた。

「綾瀬教授の娘さんか」

「藤崎も、すごいところに行くな」

「家同士のつながりもあるのかね」

聞こえるか聞こえないかの声。

冗談に混ぜた皮肉。

それもまた、想定内だった。

藤崎先生はデスクに資料を置いた。

白衣を脱ぐ。

淡々と、次のカンファレンスの準備を始める。

及川は少し離れた場所から、その背中を見ていた。

気にしていないように見える。

本当にそうなのかもしれない。

あるいは、気にしていても、それを仕事に持ち込まないだけなのかもしれない。

どちらにせよ、藤崎先生は揺らがなかった。

昼過ぎ、手術室へ向かう途中で、及川はもう一度、藤崎先生の隣についた。

「先生」

「うん」

「本当に、気にならないんですか」

藤崎先生は少しだけ考えた。

「気にならないわけじゃないよ」

その答えは、及川の予想より正直だった。

「でも、恥じることは何もないからね」

藤崎先生は前を向いたまま言った。

「美月を選んだことも、綾瀬教授の娘だと知った上で結婚することも」

及川は黙った。

「どう見られるかは、最初から分かってた」

「……」

「だから、仕事で返すだけ」

それだけだった。

大きなことは言わない。

言い訳もしない。

ただ、当然のようにそう言う。

及川は、何も言えなくなった。

藤崎先生は少しだけ目元を緩める。

「美月が選んだ相手として、恥をかかせるわけにはいかないし」

その一言で、及川の中にあった苛立ちの熱が、別のものに変わった。

ああ。

この人は、全部分かっている。

分かった上で、立っている。

好奇の視線も、皮肉も、噂も、最初から覚悟に入れている。

それでも、美月を選んだ。

逃げる気も、言い訳する気もない。

及川は、少しだけ息を吐いた。

悔しいくらい、格好いいと思った。

「先生」

「うん」

「さっき、味方って言いましたけど」

「うん」

及川は、一度だけ言葉を探した。

「……今の、普通に格好いいと思いました」

藤崎先生が少しだけ及川を見る。

「今の?」

「綾瀬をそういう目に晒さないために、自分で受けるってところです」

言ってから、及川はすぐに顔をしかめた。

「いや、今のなしで」

藤崎先生は小さく笑った。

「なしにはならないよ」

「恥ずかしくなったんで、忘れてください」

「無理だね」

「最悪だ」

「ありがとう。受け取っておく」

その言い方が、また困る。

軽く流すようでいて、ちゃんと受け取っている。

及川は、白衣のポケットに手を入れた。

「本当に、そういうところですよ」

「何が?」

及川は少しだけ視線を逸らした。

「……王子なところです」

藤崎先生は、少しだけ眉を上げた。

「それは、どう受け取ればいいのかな」

「一応、良い意味です」

「一応なんだ」

「面と向かって格好いいって言うの、嫌なんで」

藤崎先生は小さく笑った。

「言ってたけどね」

「だから、なしって言ったじゃないですか」

藤崎先生は答えず、手術室へ向かって歩いた。

その背中を見ながら、及川は思った。

綾瀬を守るために、この人を見ていたつもりだった。

けれど、いつの間にか。

藤崎先生という人そのものを、見ていたのかもしれない。

* * *

その日の夕方、医局の一角では、若手たちが進路の話をしていた。

消化器外科の中でも、どこに軸を置くか。

上部。

下部。

肝胆膵。

同じ消化器外科でも、見える景色は違う。

レジデントは十人ほどいる。

その中でも、及川がよくつるむのは、中川、佐伯、相澤の三人だった。

「お前、どこで希望出すの?」

中川が椅子を少し引きながら聞いた。

相澤が先に答える。

「俺は下部かな」

「下部?」

「症例も多いし。若いうちに経験積むなら、やっぱり強いだろ」

「分かる」

中川が頷く。

「数があるのは大事だよな」

佐伯は資料を見ながら、少し考えるように言った。

「俺は上部も気になる」

「上部?」

「王道って感じはある。胃も食道もあるし」

相澤が少し笑う。

「食道とか、かなり大変そうだけどな」

「だからこそじゃない?」

佐伯は静かに言った。

「難しいものをちゃんとできるようになりたいっていうのはある」

「真面目か」

中川が茶化す。

佐伯は顔を上げないまま答えた。

「真面目な話だろ」

「まあな」

三人の会話は軽い。

けれど、その奥には、それぞれの迷いや本気が少しだけ見えていた。

「最近は、手術のやり方もどんどん変わってるしな」

中川が何気なく言った。

「どこに行っても、ちゃんとできる先生の近くで経験積みたいよな」

「それはある」

相澤が頷く。

「技術だけじゃなくて、判断も見たい」

佐伯も静かに続けた。

「誰の背中を見るかは、大きいと思う」

その言葉に、及川は少しだけ黙った。

誰の背中を見るか。

その答えは、もう自分の中に出ている気がしていた。

中川が及川を見る。

「で、及川は?」

「俺?」

「そう。お前、まだふらふらしてるだろ」

「失礼だな」

相澤が笑う。

「で、どこ」

及川は、ペットボトルの水を飲んだ。

いつもの調子なら、適当に茶化して流していた。

けれど、その日は違った。

「肝胆膵」

三人が、ほとんど同時に及川を見る。

「お前、肝胆膵?」

中川が目を丸くする。

相澤がにやっとした。

「藤崎先生の影響?」

及川は一瞬だけ言葉を止めた。

否定しようと思えば、できた。

けれど、できなかった。

「まあ、ある」

「あるんだ」

「そりゃあるだろ」

佐伯が静かに言う。

及川は佐伯を見る。

「何だよ」

「最近、藤崎先生のオペ入ったあと、顔変わる」

「変わってねぇよ」

「変わるよ」

中川も頷く。

「なんか悔しそうな顔してる」

「それは元からだろ」

相澤が笑う。

及川は少しだけ眉を寄せた。

「お前ら、言いたい放題だな」

「で、実際どうなの」

中川が聞く。

及川はペットボトルを置いた。

「難しいけど、面白いんだよ。肝胆膵」

珍しく、茶化さなかった。

「症例も重いし、判断も厳しいし、簡単じゃない。でも、あの領域で勝負してみたいと思った」

三人は、少しだけ黙った。

及川が真面目な声を出すと、場の空気が少し変わる。

「藤崎先生は、八月には留学だろ?」

佐伯が言った。

「直接教わる時間、そんなに長くないんじゃないか」

「分かってる」

及川は短く答えた。

「でも、同じ領域にいれば、見るものは残るだろ。オペ記録も、論文も、カンファも、学会も」

言いながら、自分でも少し驚いた。

こんなに真面目に話すつもりはなかった。

「それに、あの人は戻ってくる」

中川が少しだけ目を丸くした。

「言い切るな」

「戻ってくるだろ。あの人は」

及川は、そう言ってから少しだけ視線を逸らした。

「その時に、同じ領域にいなかったら、追いかけることもできない」

相澤が口笛を吹く真似をした。

「及川が真面目だ」

中川も笑う。

「珍しい」

及川は顔をしかめた。

「うるさい」

佐伯が、静かに言った。

「まあ、肝胆膵なら綾瀬教授もいるしな」

その名前が出て、及川は少しだけ黙った。

綾瀬教授。

美月の父。

藤崎先生が向き合う相手でもあり、この領域で大きな名前でもある人。

「それも、ある」

及川は認めた。

「でも、それだけで選ぶわけじゃない」

中川が首を傾げる。

「じゃあ?」

及川は少しだけ笑った。

「王子とか、そういうの抜きでさ」

三人が黙る。

「あの人のオペ見てると、腹立つくらい格好いいんだよ」

三人が一瞬黙った。

それから、中川がにやっとする。

「今の、本人に言えよ」

「絶対言わない」

「言ったら喜ぶんじゃない?」

「喜ばせたくない」

相澤が笑った。

「めんどくさい後輩だな」

「うるさい」

笑いが起きた。

及川も笑った。

でも、自分の中ではもう決まっていた。

肝胆膵。

簡単な領域ではない。

忙しいし、症例は重い。

手術も複雑で、判断も厳しい。

それでも、あの領域で勝負してみたいと思った。

藤崎先生を見て、少しずつそう思うようになっていた。

悔しいけれど。

かなり腹立つけれど。

認めるしかなかった。

* * *

その夜、及川は医局を出る前に、ふと廊下の先を見た。

藤崎先生が、少し離れたところでスタッフと話している。

いつものように落ち着いた声。

無駄のない受け答え。

少しも派手ではないのに、目が離せない。

好奇の視線を受けても、揺らがない。

噂に言い訳せず、仕事で返す。

綾瀬を矢面に立たせない。

王子、なんて呼び方だけでは足りない。

及川は小さく息を吐いた。

八月になれば、藤崎先生は日本を離れる。

直接その下で学べる時間は、長くない。

けれど、同じ領域にいれば、見続けることはできる。

論文で。

カンファレンスで。

学会で。

そして、いつか藤崎先生が戻ってきた時に。

その背中を追える場所に、自分も立っていたい。

悔しいけれど。

そう思ってしまった。

廊下の向こうで、藤崎先生がこちらに気づいた。

「及川」

「はい」

「明日のカンファ、準備できてる?」

「できます」

「まだなんだ」

「今からやります」

藤崎先生は少しだけ笑った。

「じゃあ、遅れないように」

「はい」

及川は返事をして、背筋を伸ばした。

藤崎先生はそれ以上何も言わず、歩いていった。

及川はしばらく、その後ろ姿を見ていた。

憧れ、という言葉を使うのは悔しい。

でも、認めるしかない。

藤崎先生の背中を見て、及川は自分の進む先を決めた。

その場所で、いつかもう一度、同じ景色を見るために。
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