光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第63話 チェックメイト

「覚悟はあるの?」

理久の声は、静かだった。

美月は、盤面から目を逸らさなかった。

白と黒の駒が、テーブルの上で向かい合っている。

まだ、美月の王には逃げ道がある。

けれど、目の前の理久は、もう逃がすつもりがない顔をしていた。

それでも、美月は頷いた。

「あります」

理久は、美月を見た。

「そう」

その声は、ひどく静かだった。

次の瞬間、理久の指が黒の駒に触れた。

音もなく滑った駒が、一気に盤上の空気を変える。

美月は、反応が遅れた。

「……」

「気づいた?」

理久の声は変わらない。

けれど、さっきまでの盤面とは違っていた。

防いでいたはずの駒が、もう美月の王を狙っている。

守りではない。

攻撃だった。

美月は慌てて駒を動かした。

理久がすぐに塞ぐ。

美月が逃げ道を探す。

理久が先回りする。

さっきまで自分が攻めていたはずなのに、気づけば息が浅くなっていた。

駒を置く音だけが、夜のリビングに響く。

「美月」

理久は盤面を見たまま言った。

「俺が平気な顔をしていると、本当に平気だと思う?」

美月は答えられなかった。

理久がもう一手置く。

逃げ道が一つ消える。

「俺が言わないのは、平気だからじゃない」

また、一手。

「見せたら、止まらなくなるからだよ」

美月の胸が鳴った。

理久は、駒から指を離した。

「美月を守りたい。傷つけたくない。退職したばかりの美月に、余計なものを背負わせたくなかった」

「でも」

美月は、かすかに声を出した。

「でも?」

理久が顔を上げる。

「美月は、俺が何を飲み込んでいるのか知りたいと言ったよね」

「……はい」

「じゃあ、言うよ」

その声は低かった。

怒鳴るわけではない。

責めるわけでもない。

けれど、美月は動けなかった。

「慣れてるんだよ」

理久は盤面へ視線を戻した。

「勝手に見られることには」

駒が動く。

「藤崎の家だから」

一手。

「医者だから」

もう一手。

「親族がそうだから」

また一手。

「成績を出しても、選んでも、捨てても、誰かが勝手に意味をつける」

駒の音が、やけに大きく響いた。

美月は何も言えなかった。

「だから、流せばいいと思ってた。飲み込めばいいと思ってた。今さらなんだよ」

その言葉は、怒っているようには聞こえなかった。

むしろ、あまりに静かだった。

静かすぎて、胸が痛くなる。

「でも」

理久はそこで、初めて盤面から視線を外した。

「美月が関わると、今さらじゃなくなる」

美月の胸が、強く鳴った。

理久の目は静かだった。

けれど、その奥にあるものは、もう穏やかではなかった。

「美月が勝手に切り取られるのが嫌だ」

美月は息を止めた。

「俺の隣に置かれて、都合よく意味をつけられるのが嫌だ」

理久の声は低い。

抑えているのが分かる声だった。

「美月が傷つくかもしれないと思うだけで、面倒になる。腹も立つ。冷静じゃなくなる」

「……それを、言ってほしかったんです」

美月は小さく言った。

理久は少しだけ目を伏せる。

「言ったら、美月は自分のせいだと思うでしょ」

「思うかもしれません」

「ほら」

「でも、それでも、知らないままよりいいです」

理久はしばらく黙っていた。

その間にも、盤上では美月の逃げ道が狭くなっていく。

美月は必死に駒を動かした。

まだ一つだけ、逃げられる場所がある。

そう思った。

そこへ王を逃がそうとした瞬間、理久の指が別の駒に触れた。

黒の駒が、静かに滑る。

美月の手が止まった。

「あ……」

理久は、盤面を見たまま言った。

「チェックメイト」

美月は盤面を見下ろした。

あれだけ攻めたはずだった。

守りを捨てて、駒を前に出して、逃げずにぶつかったつもりだった。

それなのに、気づけば王の逃げ道はすべて塞がれている。

盤上のどこにも、もう行ける場所がない。

理久は、ようやく美月を見た。

「本当に勝てると思ったの? 美月」

その声は静かだった。

けれど、少し意地悪だった。

美月は唇を結ぶ。

言い返せない。

悔しい。

悔しいのに、胸が鳴っている。

理久は、ふっと息を吐くように笑った。

「守りたいって言ってたよね」

美月は一瞬、言葉に詰まる。

「……言いました」

「俺を?」

「はい」

「じゃあ、守って」

理久の声は穏やかだった。

けれど、美月は嫌な予感がした。

「美月の方から、キスしてよ」

美月は完全に固まった。

「……え?」

理久は、少しだけ意地悪く笑う。

「心の中を見せてと言ったのは美月だよ」

「……!」

一気に顔が熱くなった。

理久は逃がさない。

盤上でも。

対面でも。

「俺だって、綺麗な感情だけで美月を見てるわけじゃない」

美月は動けなかった。

「守りたい。傷つけたくない。だけど、触れたいし、確かめたいし、美月の方から来てほしい時もある」

「そんなこと」

「美月から来てくれたら、明日もちゃんと立っていられる」

美月は息を呑んだ。

「……何ですか、それ」

「本音」

「そんな本音、急に出さないでください」

「見せていいって聞いたよ」

「覚悟はあるって言いましたけど」

「うん。だから」

理久は少しだけ身を乗り出した。

「美月から」

美月は、何も言えなくなった。

ずるい。

本当に、ずるい。

自分が心の中を見せてほしいと言った。

守られるだけでは嫌だと言った。

だから理久は、見せた。

怒りも。

弱さも。

甘えも。

欲も。

美月は俯いた。

「……ずるいです」

「知ってる」

「絶対、守らせる気ないですよね」

「あるよ」

「どこが」

理久の表情が、少しだけ和らいだ。

「俺を、一人で強いままにしないで」

美月は顔を上げた。

その言葉は、どの言葉よりも静かに届いた。

理久を守るというのは、噂に反論することではない。

理久の代わりに怒ることでもない。

理久が一人で飲み込もうとした時に、隣にいること。

強いままでいようとする理久を、そのまま一人にしないこと。

美月は、ゆっくり立ち上がった。

理久の隣へ回る。

理久は椅子に座ったまま、美月を見上げた。

その目は、いつものように穏やかで、少しだけ意地悪で、それでもどこか不安そうだった。

美月は、小さく息を吸った。

そして、理久に口づけた。

短くて、ぎこちないキスだった。

それでも、美月からだった。

離れると、理久はしばらく美月を見ていた。

「……もう少し、守って」

低い声だった。

美月の心臓が跳ねる。

「え」

理久は少しだけ目を細める。

「心の中を見せてと言ったのも、美月だよね」

さっきと同じ言葉。

けれど、今度は少し違って聞こえた。

責める声ではなかった。

甘えるようで、試すようで、それでも逃がさない声だった。

美月は、顔が熱くなるのを感じた。

「……りくは、ずるいです」

「知ってる」

理久は静かに答えた。

「でも、今日は美月が先に仕掛けた」

盤上でも。

言葉でも。

そして今も。

美月は、テーブルの上のチェス盤を見た。

自分の王は、もう動けない。

けれど、不思議と負けた気はしなかった。

美月はもう一度、理久に近づいた。

今度は、さっきより少しだけ長く。

理久の手が、美月の指先に触れる。

触れただけなのに、胸の奥に残っていた怒りも、悔しさも、少しずつほどけていく。

けれど、熱だけは残った。

理久の指が、美月の指先をそっと捕まえる。

離れようとした美月の手を、逃がさないみたいに。

「……これで、少しは守れていますか」

美月が小さく聞くと、理久は答えなかった。

その代わりに、美月の手を取る。

ゆっくりと引き寄せられ、距離が近づく。

「まだ」

囁くような声だった。

美月は息を呑んだ。

理久の表情は、もういつもの余裕だけではなかった。

静かで、熱があって、少しだけわがままだった。

美月は、その顔から目を逸らせなかった。

いつもの優しさも、穏やかさも、そこにはある。

けれど、それだけではない。

欲しい、と言われている。

言葉ではなく、視線で。

触れる指先で。

逃がさない距離で。

美月の胸の奥が、ゆっくり熱を持つ。

逃げたいとは思わなかった。

逃げたくなかった。

理久の手が、美月の髪に触れる。

その指先は、いつものように優しい。

けれど今夜だけは、少しだけ余裕がなかった。

「……逃げませんか」

美月は小さく聞いた。

理久は、美月の髪に触れたまま、少しだけ目を伏せる。

「逃げないよ」

その声は、さっきよりもずっと近かった。

美月は、静かに目を閉じた。

三月の夜は、静かに深まっていく。

盤上に残された駒だけが、二人の喧嘩の終わりを知っていた。

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