昨日、僕を殺したのは誰ですか

第八章 死亡記録

第八章 死亡記録

 『あなたの母親は、十七年前に死亡しています』

 スマートフォンの画面に表示されたその一文を、蓮は意味が変わってくれることを期待するように何度も読み返した。しかし、何度目を通してもそこに記されている事実は変わらない。

 母――神谷香織。

 十七年前に死亡。

「……嘘だろ」

 思わず声に出して否定してみても文字が消えることはなく、隣から画面を覗き込んだ悠真も、さすがにいつものような軽口を口にすることはできなかった。

「蓮、大丈夫か」

「大丈夫なわけないだろ。母さんが十七年前に死んでるって書いてあるんだぞ」

 けれど香織は今夜も家にいた。

 美月を抱きしめ、蓮とも話し、確かに触れることのできる生きた人間としてそこに存在していた。

「だったら、今まで俺を育ててきた母さんは誰なんだよ」

 蓮は暗い校舎を見上げる。

 校長室の窓の向こうには、まだ黒いファイルが見えていた。表紙には大きく、**『死亡記録』**とだけ書かれている。

 三上がゆっくり息を吐いた。

「行こう。今は、あれを確認するしかない」

「罠かもしれないよ」

 栞の言葉に、蓮は短く頷いた。

「それでも見る。ここまで来て、見ない方が怖い」



 屋上から校舎へ戻ると、深夜の廊下は不自然なほど静まり返っていた。

 二年一組、二年二組、二年三組。

 すべての教室の扉が開いたままになっており、黒板には同じ言葉が書かれている。

 『欠席者 一名』

「誰のことだ」

 悠真が呟くと、栞は少し迷ってから自分を指した。

「たぶん私」

 しかし、二年三組だけは違った。

 黒板に書かれていたのは一人の名前。

 神谷香織

 蓮は足を止めた。

「母さん……」

 三上は教室へ一歩入り、窓側の席を見つめる。

「香織はこのクラスだった」

「思い出したんですか」

「ああ。十七年前、俺と同じ二年三組だった。前から三番目、あそこが香織の席だった」

 三上が指した場所には、今は机すら置かれていない。

 最初から誰も座っていなかったように、床だけが不自然に空いている。

 栞はその場所を見ながら小さく言った。

「私が消えた時と同じだ」



 校長室の扉には鍵がかかっていた。

 三上の職員用キーでは開かない。

「これ、試してみるか」

 悠真がポケットからB2・0の鍵を取り出す。

「形、全然違うけど」

 しかし鍵は当然のように鍵穴へ入り、軽い音とともに扉が開いた。

「もう鍵っていうより何でも開けるカードじゃん」

 三上は冗談に反応せず、鍵を見つめた。

「たぶん本当に近い。この鍵は物理的な扉を開けるためのものじゃない。0組に関係する場所へアクセスするための許可証なんだ」

 校長室には誰もいなかった。

 中央の机。

 その上に置かれた黒いファイル。

 そして、その横には一枚の写真が置かれている。

「待って」

 栞が先に気づいた。

「これ、今の私たちだよ」

 写真には校長室に立つ蓮、悠真、栞、三上が写っていた。

 撮影者の姿はない。

 それでも確かに、今この瞬間が撮影されている。

「また見られてる」

 蓮は写真から目を離した。

「写真はあとだ。先にこっちを見る」

 黒いファイルへ手を伸ばし、ゆっくり表紙を開いた。



 最初のページ。

 死亡記録 No.0001

 氏名――神谷香織。

 死亡日――十七年前、九月三日。

 死亡時刻――23時47分。

 死亡場所――学校屋上。

「本当に……」

 栞の声が震える。

 三上はさらに下へ目を走らせた。

 死亡確認者――桐島修司

 そして、その次の欄。

 記録作成者――神谷香織

 悠真が顔を上げる。

「自分で自分の死亡記録を書いたってことか?」

 蓮は作成時刻を見る。

 九月四日 00時18分

「00時18分……」

 昨日、防犯カメラに映っていた神谷蓮が学校を出た時刻と同じだった。

 23時47分。

 00時18分。

 この事件では、何度も同じ時刻が繰り返されている。

「まだある」

 栞が備考欄を読む。

 そこには、今まで蓮たちが想像していた“死亡”という言葉そのものを覆す説明が残されていた。

 『死亡は身体状態を示すものではない』

 さらに。

 『本記録における死亡とは、社会的存在の終了を意味する』

「社会的存在?」

 悠真が眉をひそめる。

 三上がゆっくり答えた。

「誰からも認識されなくなることだ。記録から消され、家族から忘れられ、学校からも存在しなかったことになる。それを、この記録では死亡と呼んでる」

 つまり十七年前、神谷香織は身体的に亡くなったわけではない。

 社会の中からだけ消された。

 蓮は次の行を読む。

 肉体状態――生存

「生きてた」

 栞が小さく息を吐いた。

 しかし安心するにはまだ早かった。

 その下には、

 社会記録――削除

 家族記憶――削除

 学校記録――削除

 本人自己認識――不安定

 と続き、最後に。

 代替人格移行――承認

 移行先。

 K-04

「代替人格って何だよ」

 悠真が嫌そうに呟いた。



 後ろのページには、K SERIESと書かれた一覧があった。

 K-00。

 K-01。

 K-02。

 K-03。

 K-04。

 蓮が最初の項目を開く。

 K-00。

 そこに写っていたのは、見覚えのある少年だった。

「原型……」

 SUBJECT 00。

 名前を持たない少年。

 K-01は別の男子。

 K-02は女子。

 K-03は成人男性。

 そしてK-04。

 写真に写っていたのは若い神谷香織だった。

「母さん……」

 説明欄には、

 『Kシリーズ――記憶固定用人格容器』

 とある。

「人格容器……」

 悠真が吐き捨てるように言う。

 さらに続きを読む。

 『PROJECT 33により生成された共有人格を、実在する被験者へ固定するための実験群』

 栞が蓮を見る。

「神谷蓮だけじゃなく、他の人格も誰かに入れてたってこと?」

 三上は黙って頷いた。

 K-04。

 移行人格――神谷香織。

 元人格――削除。

 蓮の喉が急に乾いた。

「じゃあ今の母さんは……神谷香織って人格を入れられた別の人間なのか?」

 三上はすぐには答えなかった。

「少なくとも、この記録だけを見るならそうなる」



 栞がページの隅を指した。

「K-04って、人格を移された時は何歳だったの?」

 被験者年齢――17歳。

 三上が写真を見た瞬間、顔色を変えた。

「この子……知ってる」

「誰ですか」

「同じクラスだった」

「名前は?」

 三上が答えようとする。

 しかし声が出ない。

 元氏名の欄は黒く消されていた。

 それでも名字の最初の一文字だけが残っている。

 雨

 栞の表情が変わった。

「雨宮?」

 さらに復元欄を開く。

 表示されたのは、

 雨宮香――

 そこで途切れていた。

「香……」

 蓮が呟いた瞬間、三上が額を押さえた。

「違う……思い出した」

「先生?」

「十七年前の雨宮栞には、姉がいた」

 栞が息を止める。

「私に姉?」

「今の君じゃない。十七年前の雨宮栞だ。その姉が、このK-04だった可能性がある」

 つまり現在の神谷香織の身体は、十七年前の雨宮栞の姉だった可能性がある。



 K-04の経過記録には、さらに重要なことが残されていた。

 『移行後、被験者は神谷香織として安定』

 『旧人格に関する記憶はほぼ消失』

 しかし、その次の一文。

 『額部の傷跡を刺激として、旧人格記憶が再浮上する傾向あり』

「傷だ」

 蓮はすぐに理解した。

「母さんの額の傷」

 栞も頷く。

「傷が出た時だけ、美月を思い出したり、十七年前の記憶が戻った」

「じゃあ傷のある母さんと、普段の母さんは別人じゃない」

 蓮が言う。

「同じ身体の中で、古い人格が表に出てただけなんだ」

「可能性は高い」

 三上が答えた。

 さらに人格安定条件。

 1 神谷香織として認識する家族を形成

 2 長期間の生活記憶を蓄積

 3 原人格との接触を避ける

 その下には家族構成割当。

 夫――神谷蓮。

 子――神谷蓮。

 子――神谷美月。

 悠真が小さく息を吐く。

「夫も息子も神谷蓮って……」

「時期が違うんだ」

 蓮はようやく理解し始めていた。

「父さんが神谷蓮だった時期があって、その名前が俺に移った。その間も母さんだけは神谷香織として家族の中心に残り続けたんだ」



 次に美月の項目を開いた瞬間、蓮の表情が止まった。

 血縁関係――なし

「……なし?」

 さらに。

 Kシリーズとの血縁関係なし

 そして出自。

 M-01

 三上が別のページを開く。

 M SERIES

 正式名称。

 Memory Anchor Project

 記憶改変の影響を受けにくい観測者を育成する計画。

 M-01。

 そこには乳児の写真があり、その後から与えられた名前として、

 神谷美月

 と記されていた。

「美月が……観測者?」

 蓮の頭に、原型の少年が言っていた言葉が蘇る。

 『この子がいないと全員戻れない』

 M-01の目的。

 『0組による大規模記憶修正時にも、元の記憶を部分的に保持する』

 だから美月は、母が夜勤だった記憶と家にいた記憶、その両方の矛盾に気づいた。

 蓮が夜中に外へ出たことも覚えていた。

 そして一番下。

 三十四番候補として育成

「やっぱり」

 栞が呟く。

「私が消えたら、美月が次の三十四番になるように最初から作られてた」

 蓮は拳を握った。

「人を何だと思ってるんだよ」

 雨宮栞。

 美月。

 父。

 母。

 自分。

 0組にとっては、全員が人間ではなく役割にしか見えていない。



 次のページ。

 死亡記録 No.0002

 氏名は削除。

 年齢17。

 死亡日――十七年前、九月四日。

「香織の翌日」

 三上がページをめくる。

 顔写真。

 一人の男子生徒。

 その瞬間、三上の表情が変わった。

「こいつ……」

「先生?」

「俺の友達だ」

 十七年前。

 三上と0組へ来た男子。

 ずっと名前だけが思い出せなかった人物。

「名前、思い出せませんか」

「もう少し……」

 死亡記録の作成者を見る。

 そこにも、

 神谷香織

 と書かれている。

「母さんが全部の死亡記録を書いてたのか?」

 三上は首を振った。

「正確には、神谷香織という役割を与えられたK-04が記録係だったんだと思う」

 記録係。

 それすら一つの役割だった。

 だから香織は十七年前の出来事を知っている。

 自分で記録したから。

 そして後から、その記憶まで消された。



 No.0002。

 肉体状態――生存。

 人格移行先――K-05。

 K-05の資料を開く。

 成人男性の写真。

 蓮はすぐに気づいた。

「この人、警察が見せた四十六歳の神谷蓮だ」

 三上も固まる。

「俺の友達が、そのあと神谷蓮になった?」

 蓮が先生を見る。

「つまり、父さんは……」

 三上の声が震える。

「俺の友達だった」

 蓮は言葉を失った。

 父と呼んでいた男。

 神谷蓮。

 しかし、その前には別の名前があった。

「先生。本当の名前、思い出せませんか」

 三上は目を閉じた。

 教室。

 放課後。

 笑い声。

 屋上。

 少年。

「さ……」

 以前と同じところで止まる。

「佐……」

 そして。

「佐伯」

 蓮が息を呑む。

 三上の目から涙が落ちた。

「佐伯修一」

 その名前が口にされた瞬間、死亡記録の黒く塗られていた部分がゆっくり消えていく。

 氏名。

 佐伯修一

「戻った」

 栞が呟く。

「先生が思い出したから、記録が名前に合わせて戻った」



 同時に端末へ警告が表示された。

 原氏名復元を検知

 K-05人格固定率低下

 K-05。

 神谷蓮。

 その下に、

 佐伯修一。

 蓮の学生証が床へ落ちた。

 拾い上げると、神谷蓮という文字がわずかに薄くなっている。

「神谷君」

「大丈夫」

 蓮は学生証を握った。

「佐伯修一が父さんの本当の名前なら、忘れちゃダメだ」

「でも、お前の名前が」

 三上が言いかける。

「いいです」

 蓮は先生を見る。

「父さんを思い出してくれて、ありがとうございます」

 三上は何も言えなかった。

 端末には新しい表示。

 記憶保持人数――佐伯修一 1

 現在、その名を知っているのは三上だけ。

「佐伯修一」

 栞が声に出す。

 2。

「俺も覚えた」

 悠真。

 3。

 蓮も続ける。

「佐伯修一」

 4。

「三十三人まで増やせれば」

 栞が言う。

「お父さんを神谷蓮じゃなく、佐伯修一として戻せるかもしれない」

「ああ」

 蓮は頷いた。

「雨宮を戻そうとしてるのと同じ方法だ」



 しかし死亡記録はまだ終わっていなかった。

 十七年前――7件。

 十四年前――3件。

 十二年前――4件。

 九年前――8件。

 そして現在。

 死亡予定――5件

「五人?」

 表示された現在の予定者。

 1 雨宮栞

 2 高城悠真

 3 神谷蓮

 4 神谷美月

 5 神谷香織

 蓮の顔が強張る。

「母さんまで」

 三上は一覧を見ながら言った。

「今回、関係者を全部一度整理するつもりなんだ」

 実行項目。

 一括統合処理

 承認者。

 桐島修司

 そして作成者欄だけが空白。

「誰がこの死亡記録を作ってる」

 蓮の問いに、三上が答える。

「たぶん、それが一番重要だ」



 黒いファイルの最後に、一つの封筒が挟まれていた。

 表には、

 死亡記録作成者へ

 と書かれている。

 中には古い手紙が入っていた。

 『香織へ』

 『君がこの手紙を読んでいるなら、また死亡記録を書かされている』

 『覚えていないと思うが、君は最初の記録係ではない』

 そして次の一文。

 『神谷香織という名前も役割名だ』

 蓮の手が止まる。

「母さんの名前まで……」

 手紙には役割が整理されていた。

 神谷蓮=記憶される存在

 神谷香織=記録する存在

 雨宮栞=覚えておく存在

 高城悠真=分割された記憶を運ぶ存在

 三十四番=すべてを外側から観測する存在

 そして最後。

 『もう一つだけ役割がある』

 『犯人』



「犯人って……」

 悠真が手紙を覗き込む。

 続き。

 『犯人とは事件を起こす者ではない』

 『記憶と記録が矛盾した時、その矛盾を一人で引き受ける役割である』

「身代わり……」

 栞が呟く。

「そういうことだ」

 三上も頷いた。

 『犯人役を一人作れば、他の全員は矛盾を忘れることができる』

 『そのために、この町は犯人を必要とする』

 蓮はゆっくり手紙を握る。

「だから毎回、誰かが犯人にされる」

 さらに。

 『ただし、本当の事件を起こしている者は別にいる』

 その先。

 『本当の実行者は――』

 そこだけが破り取られている。

「またそこだけかよ」

 悠真が苛立つ。

 しかし、その後の文章は残っていた。

 『その人物は、神谷蓮でも神谷香織でも雨宮栞でも高城悠真でもない』

 『最初から一度も0組の名簿に載っていない人間』

 蓮の頭に、これまでの写真が次々と浮かんだ。

 防犯カメラ。

 集合写真。

 窓の反射。

 誰も触れていないカメラ。

「全部同じ人物だ」



 手紙の最後には、こうあった。

 『その人を探したいなら、死亡記録の時刻を見ろ』

 23時47分。

 何度も。

 何度も。

 十七年前も。

 現在も。

 さらに古いPROJECT 33の記録まで確認すると、

 実験開始――11時47分

 異常発生――23時47分

 とある。

「十二時間後」

 三上が眉をひそめる。

 異常内容。

 『観測者一名が名簿外へ移行』

「観測者?」

 栞が読む。

 さらに下。

 『三十四番とは別』

「じゃあ三十四番とも違う、もう一人がいたってことか」

 悠真が呟く。

 氏名――空白。

 所属――空白。

 年齢――空白。

 写真――なし。

 ただし備考には、

 『以後、全記録写真に同一観測者と思われる像を確認』

 とあった。

 添付写真。

 昭和の研究室。

 神谷廉一郎。

 原型。

 研究員たち。

 そのガラスの奥に、一人の少年が立っている。

 手にはカメラ。

「この人……」

 蓮が次の写真を見る。

 十七年前の集合写真。

 水たまりの反射。

 同じ人物。

 九年前の失踪記事。

 背景。

 同じ人物。

 昨日の屋上。

 写真の端。

 また同じ人物。

「ずっと同じ人が写真を撮ってる」

 栞が呟く。

 三上は何枚かを並べ、顔を見比べた。

「しかも年齢が変わってない」

 高校生ほどに見える少年。

 何十年経っても同じ顔。



 その時、校長室の固定電話が鳴った。

 蓮が受話器を取る。

「もしもし」

『死亡記録を読みましたね』

「桐島」

『はい』

「どこにいる」

『校内です』

「出てこい」

『その前に、一つだけ』

「何だ」

『記録を信じすぎないでください』

 蓮は顔をしかめた。

「死亡記録まで嘘なのか」

『一部です』

「どこが」

『神谷香織さんについて』

「母さんは十七年前に社会的に死亡した」

『そこは事実です』

「K-04へ人格が移された」

『それも事実です』

「だったら今の母さんは別人の体なんだろ」

 沈黙。

『そこが違います』

「何?」

『K-04は、あなた方が考えている意味での別人ではありません』

「資料にはそう書いてある」

『資料そのものが書き換えられています』

「誰に」

『本当の記録作成者です』



「母さんじゃない?」

『違います』

「じゃあ誰なんだよ」

 桐島はしばらく黙った。

『私はその人物の名前を、一度だけ思い出したことがあります』

「いつ」

『十七年前』

「誰なんだ」

『言えば、私は桐島修司ではなくなる』

 蓮は黙った。

「お前も役割なんだな」

『はい』

「本当の名前を思い出したら?」

『桐島修司という役割から外れます』

「お前の役割は何だ」

『記録管理者を監視することです』

「だったら本当の記録管理者は、お前じゃない」

『はい』

「誰だ」

『私に桐島修司という名前を与えた人です』

「神谷廉一郎?」

『違います』

「原型?」

『違います』

「じゃあ誰なんだ」

 桐島は静かに答えた。

『写真を撮っている人物です』



「やっぱりそいつが犯人――」

 蓮はそこまで言って止まった。

 犯人という言葉そのものが役割を固定する。

 桐島も気づいたらしい。

『その呼び方はしない方がいいでしょう』

「じゃあ何て呼ぶ」

『観測者』

「それが最初の呼び名?」

『はい』

「観測者が写真を撮り、死亡記録を書いて、0組を動かしてる?」

『0組はもう、誰にも完全には制御できません』

「なら観測者は何をしてる」

『0組が動く原因を作り続けています』

「何のために」

 長い沈黙。

『人を忘れないためです』

 栞が顔を上げた。

「逆じゃない? 結果的に人が消えてる」

『元々、観測者がしたかったことは一つだけでした』

「何」

『たった一人を、絶対に忘れないこと』



「誰を?」

『最初の死亡者です』

「神谷香織?」

『違います』

「じゃあ誰だ」

『PROJECT 33より前です』

「その記録はどこにある」

『旧校舎0階、第33保管室』

「今から入れるのか」

『死亡記録を読んだことで条件を満たしました』

 電話が切れた。

 同時に校長室の本棚がゆっくり横へ動き、その奥に新しい扉が現れる。

 中央には数字。

 33



 扉の向こうには地下へ続く階段があり、それを降りた先は再び旧校舎0階へ繋がっていた。

 以前には壁しかなかった場所に、新しい扉が現れている。

 第33保管室

 悠真がB2・0の鍵を差し込む。

「ほんと何でも開くな、これ」

 扉を開けると、内部には大量の写真、テープ、古い資料が並んでいた。

 そして中央に、一枚の古い写真。

 小学生くらいの少女が笑っている。

 裏面。

 名字だけは読める。

 神谷――

 下の名前だけが消えている。

 資料の表紙。

 神谷記憶研究 原点記録

 研究責任者――神谷廉一郎。

 目的。

 『事故により失われた娘に関する家族記憶の保存』

「娘……」

 栞が呟く。

 三上も息を呑む。

「これが全部の始まりなのか」



 記録によれば、神谷廉一郎の娘は、ある時から少しずつ周囲の記憶から存在が薄れ始めた。

 学校の記録。

 家族写真。

 友人の記憶。

 教師の記憶。

 0組が作られるより前から、その現象は始まっている。

「研究が原因じゃなかった」

 蓮が言う。

「最初から、こういう現象があったんだ」

 神谷廉一郎は娘を忘れないため、家族、友人、教師、近所の人間を合わせて三十三人に娘の情報を繰り返し共有した。

 その結果、娘の存在は一時的に安定した。

 しかし三十三人の記憶には、それぞれ小さな違いがあった。

 髪型。

 声。

 性格。

 年齢。

 好きだったもの。

 嫌いだったもの。

 その矛盾を一つへ統一しようとして始まったのが、PROJECT 33だった。



 次のページ。

 観測者

 神谷廉一郎の助手。

 娘のことを最も強く覚えていた人物。

 氏名。

 雨宮朔

 栞が固まった。

「雨宮……」

 写真には十七歳ほどの少年が写っている。

 手にはカメラ。

 これまで何度も写真の中に現れていた人物。

 年齢――17歳。

 現在年齢――17歳。

「歳を取ってない」

 悠真が呟く。

 さらに。

 『雨宮朔は神谷廉一郎の娘を忘れない唯一の人物だった』

 『長期間の記憶保持実験後、身体的老化の停止を確認』

 栞は写真を見つめる。

「私と同じ名字……」

 関係欄。

 雨宮栞――妹

「……妹?」

 しかし、そこに記録されている雨宮栞は今の栞ではない。

 もっと昔、同じ名前を与えられていた別の人間。

 三上が言った。

「雨宮栞も、何度も引き継がれてきた役割名なんだ」



 そして十七年前、九月三日。

 重大事故。

 23時47分。

 記録。

 『雨宮朔が妹・雨宮栞の社会的死亡を拒否』

 『0組へ介入』

 『死亡記録を書き換え』

 『代替死亡者――神谷香織』

 蓮の目が止まる。

「母さんを代わりにした?」

 栞が続ける。

「本来、十七年前に消えるはずだったのは雨宮栞だった。でも朔が妹を守ろうとして、香織さんを代わりにした」

 三上はその下を見る。

 代替処理失敗

 雨宮栞の社会的死亡も継続

 結果――死亡対象2名

 香織も消えた。

 雨宮栞も消えた。

 朔は妹を救えなかった。



 それ以降、雨宮朔は記録改変を続け、何度も雨宮栞という人格を復元しようとしてきた。

 最新記録。

 CYCLE 18

「十八回目……」

 蓮が呟く。

 栞は自分の手を見る。

「じゃあ私は、十八人目の雨宮栞?」

 最終計画。

 CYCLE 18 最終復元

 必要条件。

 神谷蓮。

 神谷香織。

 高城悠真。

 三上智也。

 雨宮栞。

 三十四番。

 それぞれを一か所へ集める。

 そして死亡記録を五件作成。

 空いた記憶領域を統合し、

 雨宮栞 初期人格を復元

 悠真が顔をしかめた。

「今の俺たち五人を消して、最初の雨宮栞を戻す?」

 栞も青ざめる。

「私まで消して……」

「そんなの絶対させない」

 蓮は即答した。



 カシャ。

 保管室の奥からシャッター音が聞こえた。

 全員が振り返る。

 そこには一人の少年が立っていた。

 制服姿。

 十七歳。

 手にはカメラ。

 何十年経っても変わらない顔。

 雨宮朔

「……」

 栞は一歩後ろへ下がった。

 朔は彼女を見る。

「栞」

「私は、あなたの妹じゃない」

「分かってる」

 全員が止まった。

「分かってる?」

 蓮が尋ねる。

「それならどうして十八回も同じことを」

 朔は目を伏せた。

「分かってる。でも忘れられないんだ」



「十八回、同じ顔、同じ声、同じ癖を見てきた。でも毎回違った」

 朔は静かに話す。

「十七年前、妹が消えていくのを見た。名前を呼んでも、写真を撮っても、記録を残しても、存在だけが薄くなっていった」

「だから他人を消してでも戻そうとした?」

 蓮の問いに、朔はしばらく黙る。

「最初はそうだった」

「今は?」

 朔は現在の栞を見る。

「分からない。ただ今回だけは違った」

「何が」

「栞が、自分は妹じゃないって言った」

 これまでの雨宮栞は、時間が経つほど初期人格へ近づいていった。

 しかし今回は違う。

「神谷蓮と出会って、自分の記憶を守った」

「俺が?」

「君が栞を役割じゃなく、一人の人間として覚えたから」



 栞は朔を見た。

「だったら今の私を残して」

 朔は長い間何も言わなかった。

「同じことを十七年前にも言われた」

「誰に」

「神谷香織」

 蓮が顔を上げる。

 朔は、十七年前の香織の言葉を静かに繰り返した。

 『私を消して栞を戻すな』

 『それは栞じゃない。あなたが作った記憶よ』

「香織はそう言った」

「なのに母さんを代替にした」

「僕がやった」

「それで母さんは、お前を止めようとした?」

「そう」

「どうやって」

「死亡記録で」



 朔は黒いファイルを見た。

「香織は消える直前、僕の名前を死亡記録に残した。でも0組が消した。僕は名簿外の人間だから、通常の記録には残せない」

「だから写真に残った」

「そう。僕は何度も写真を送った」

「自分の存在を忘れさせないために?」

「それもある。でも一番は、今回こそ誰かに僕を止めてほしかった」

 栞が即座に言う。

「なら今やめて」

 朔は首を横に振る。

「僕が止めても、もう0組は止まらない」

「誰にも制御できない?」

「完全には」

 蓮が尋ねる。

「じゃあ何をすれば止められる」

「五人の死亡記録を完成させないこと。ただし、一件はもう完成した」

 全員の表情が変わる。

「誰だ」

 黒いファイルに、新しいページ。

 死亡記録 No.0181

 氏名。

 高城悠真

 悠真が固まる。

「……俺?」

 死亡日――九月四日。

 時刻――23時47分。

 社会的死亡――完了。

「でもお前、ここにいるだろ」

 蓮が言う。

 朔は静かに答えた。

「今はね」



「電話を見て」

 朔に言われ、蓮はスマートフォンを開いた。

 連絡先。

 高城悠真。

 ない。

 メッセージ。

 ない。

 幼稚園の写真。

 そこには蓮一人しか写っていない。

「嘘だろ……」

 三上が学校名簿を確認する。

 二年三組。

 三十二人。

 高城悠真の名前は存在しない。

 栞だけは悠真を見ている。

「私たちは覚えてる」

「地下に入った人間と、三十四番に近い人間だけはまだ覚えられる」

 悠真は少しだけ笑った。

「やっぱ俺、消えたんだ」

「戻す」

 蓮は即答した。

「簡単に言うなよ」

「戻す。雨宮も父さんも母さんも美月も、お前も全部戻す」

 朔が首を振る。

「全部は無理だ」

「決めるのはお前じゃない」



 朔は蓮を見た。

「神谷蓮らしい」

「その呼び方、そろそろ本気で嫌なんだけど」

「なら本当の名前を使えばいい」

 蓮の表情が変わる。

「知ってるのか」

「知ってる」

 全員が静かになる。

「じゃあ言って」

「今なら言える」

 朔が口を開く。

「君の本当の名前は――」

 その瞬間、照明が消えた。

 激しいノイズ。

 声がかき消される。

『死亡記録作成を再開します』

 赤い非常灯が点灯し、黒いファイルのページが勝手にめくれ始める。

 死亡記録 No.0182。

 雨宮栞。

 No.0183。

 神谷香織。

 No.0184。

 神谷美月。

 そしてNo.0185。

 氏名欄は空白。

 文字が何度も現れては消える。

 神谷――。

 消える。

 高城――。

 消える。

 佐伯――。

 また消える。

「名前が決まらない」

 栞が呟く。

「神谷君の元の名前が戻ろうとしてる」

 朔の言葉の直後、新しい文字が浮かんだ。

 雨宮朔

 全員が凍りつく。

「俺が雨宮朔?」

「違う、それは僕だ!」

 しかしファイルには、蓮の顔写真の横に雨宮朔。

 そして朔の写真には、神谷蓮。

「二人の役割が入れ替わってる」

 栞が言う。

 スピーカー。

『観測者の登録を確認』

『役割移行を開始します』

「やめろ!」

 朔が叫ぶ。

 壁には新しい表示。

 雨宮朔

 その下。

 新規対象――神谷蓮(17)

「俺が観測者になる?」

「違う」

「でも名前が」

 朔は保管室の奥を睨んだ。

「これは0組の処理じゃない」

「何で分かる」

「もっと古い。最初の処理だ」

「誰の?」

 朔は答えた。

「神谷廉一郎」



 古い端末が勝手に起動した。

 表示。

 ADMIN ROOT

 KAMIYA RENICHIRO

「桐島より上の権限……」

 三上が呟く。

 自動ログイン。

 CYCLE 18を終了します

 朔の顔色が変わる。

「まずい」

 次。

 全役割を初期化します

 神谷蓮。

 神谷香織。

 雨宮栞。

 高城悠真。

 観測者。

 すべて削除。

「全員消す気か」

 蓮が言う。

 朔は首を振る。

「違う。もっと悪い」

「何が」

「全員を別の人間にする」



 端末にはROOT KEYの場所と時刻が表示された。

 場所――屋上。

 時刻――23時47分。

「また屋上」

「PROJECT 33の最初の記憶装置がある」

「止めればいい」

「壊したら何が起きるか分からない」

「それでも行く」

 栞が黒い死亡記録を見た。

 No.0185。

 氏名――雨宮朔。

 顔写真――蓮。

 死亡予定――九月五日、00時00分。

 時計。

 23時56分。

「あと四分」

 悠真が言った。

「走れ」



 階段を駆け上がり、廊下を抜け、屋上へ到着した時には23時58分を過ぎていた。

 給水塔の下に、古い金属箱がある。

 表面。

 PROJECT 33

 悠真がB2・0の鍵を差し込む。

 扉が開く。

 中には古い機械、テープ、写真。

 そして一枚の生徒証。

 氏名。

 神谷蓮

 発行日。

 四十年以上前。

「最初の神谷蓮?」

 栞が言う。

「違う」

 朔が答える。

「神谷蓮は架空の人格だった」

 生徒証の裏には、小さくこう書かれている。

 『この名前を最初に使った人へ』

 『あなたは存在しない』



 23時59分。

 装置が起動した。

 古い録音が流れる。

『神谷蓮』

『はい』

 子供の声。

『お母さんの名前は?』

『神谷香織』

『妹は?』

『神谷美月』

『親友は?』

『高城悠真』

『あなたを覚えておく人は?』

『雨宮栞』

 全員が言葉を失った。

 四十年以上前から、今の家族構成と人間関係がすでに完成している。

 最後。

『あなたを観測する人は?』

 そこだけノイズで聞こえない。

 そして大人の声。

 神谷廉一郎。

『成功だ』

『これで、失った娘を別の形で残せる』

「娘?」

 録音は続く。

『この人格には、娘が持っていたすべての人間関係を与えた』

『母』

『妹』

『友人』

『観測者』

『そして娘自身の人格を分割して組み込んだ』

 栞が息を呑む。

「神谷蓮の中に、その娘の人格が入ってる?」

 最後に、神谷廉一郎の声。

 『神谷蓮は、私の娘を男の子として再構成した人格である』

「だから本物がいない……」

 三上が呟く。

「最初から神谷蓮は、失った娘を別の形で作り直した存在だった」

 録音。

『娘の本名は――』

 そこだけ激しいノイズに飲まれた。

「何でそこだけ消えるんだよ!」

 時計。

 23時59分59秒。

 そして。

 00時00分。

 端末表示。

 INITIALIZE



 蓮の学生証から名前が消えた。

 三上が蓮を見る。

「君は……誰だ?」

「先生!」

 初期化が始まった。

 装置の中央に、赤いボタン。

 EMERGENCY MEMORY RELEASE

「押すな!」

 朔が叫ぶ。

「押したらどうなる」

「何十年分もの消された記憶が、町全体へ一気に戻る」

「じゃあ初期化を待てって?」

「それも危険だ」

 どちらを選んでも、誰かの人格や記憶が壊れる可能性がある。

 蓮は装置を見つめた。

 そして一つのことを思い出す。

「第三の方法」

 悠真が振り返る。

「また?」

「ある」

 佐伯修一。

 三上がその名前を思い出した瞬間、死亡記録は元の名前へ書き換わった。

「0組は人間の記憶に合わせて記録を変える」

 栞が理解する。

「なら全員の本当の名前を思い出せば」

「役割を一人ずつ終わらせられる」

 朔は少し迷ったあと頷いた。

「理論上は可能だ」

「やる」



 最初は悠真だった。

 蓮は目を閉じ、九年前よりさらに古い記憶を探した。

 公園。

 幼い二人。

 自分と、もう一人。

 遠くから呼ばれる声。

『――き!』

『ゆう――!』

 高城ではない。

「幼稚園写真」

 朔が言う。

 写真の裏。

 現在の蓮の位置には高城悠真。

 しかし端に、ほとんど消えかけた文字。

 旧名 結城――

 蓮の頭に記憶が流れ込む。

 公園を走る少年。

 自分が呼ぶ声。

「結城……」

 悠真が自分を指す。

「俺?」

「違う」

 蓮は記憶の奥を追う。

 そして名前が出る。

「結城湊!」

 悠真の目が見開かれた。

「……湊」

 記憶が戻る。

「俺、結城湊だ」

 装置。

 旧氏名復元

 高城悠真役割解除

 学生証。

 結城湊

「湊」

「呼び慣れねえな」

「俺もだよ」



 次。

 雨宮栞。

「私の本当の名前」

 朔が彼女を見る。

「知ってる」

「教えて」

 長い沈黙のあと。

「君は、水城紗奈」

 栞――いや、紗奈は目を閉じた。

 家。

 両親。

 転校。

 そして0組。

 途中から与えられた雨宮栞という名前。

「思い出した」

 装置。

 雨宮栞役割解除

 水城紗奈 復元

「紗奈」

「神谷君に言われると変な感じ」

「それはこっちも」



 三上。

 表示。

 原氏名一致

 役割解除。

 つまり三上智也という名前だけは本人のものだった。

 次。

 神谷香織。

 K-04。

 元氏名。

 雨宮香――。

 朔が答える。

「雨宮香澄」

 蓮はその名前を繰り返す。

「香澄……今の母さんの、元の名前」

 装置。

 神谷香織役割解除可能

 ただし。

 本人確認が必要

「母さんは家にいる」

「後回しだ」



 美月。

 M-01。

「美月の本当の名前は?」

 朔は少しだけ笑った。

「神谷美月」

「役割名じゃない?」

「違う。美月だけは最初から自分の名前だ」

「だから改変に強かったのか」

「そう」

 そして最後。

 神谷蓮。

 旧氏名。

 空白。

 朔が蓮を見る。

「さっき言おうとした」

「俺の本当の名前」

「君は――」

 一拍。

「高城悠真」



 蓮は動けなかった。

 幼稚園写真。

 自分の位置に書かれていた名前。

 高城悠真。

「本当に?」

「そう。高城悠真は元々君の本名だった。そして君が神谷蓮になった時、空いたその名前を別の人間へ与えた」

 湊が静かに言った。

「それが俺」

 蓮は目を閉じる。

 断片だった記憶が少しずつ戻る。

 神谷香織と呼ぶ前の母。

 佐伯修一。

 美月。

 そして自分自身。

 高城悠真。

 装置。

 旧氏名一致

 神谷蓮役割解除――

 そこで停止した。

 ERROR

「何で」

 朔の顔が険しくなる。

「神谷蓮だけは他の役割と違う。名前だけじゃなく人格そのものが深く入り込んでる」

 解除条件。

 神谷蓮人格の帰属先が必要

「誰かに押しつけないと消せないってことか」

「原型へ返す方法はある」

「それじゃ原型が神谷蓮になるだけだ」

 また誰かが役割を背負う。

 それでは何も変わらない。

「もう一つある」

 朔が言う。

「完全削除」

「どうなる」

「神谷蓮として形成された記憶も消える可能性が高い」

 母。

 美月。

 湊。

 紗奈。

 学校。

 これまで神谷蓮として生きてきた時間。

「高城悠真に戻ったら、今までの俺を忘れる?」

「可能性は高い」

 蓮は力なく笑った。

「最悪だな」



 初期化は再び進み始めていた。

 その時、蓮は神谷廉一郎の録音を思い出した。

 娘の人格を分割して組み込んだ。

「待って。神谷蓮って、一つの人格じゃないんだよな」

「何?」

 朔が見る。

「いろんな人の記憶を組み合わせて作った人格なら、丸ごと誰かに渡す必要ないだろ。分解できるはずだ」

 三上が理解した。

「元の所有者へ、それぞれの記憶を返す」

「そうすれば誰も神谷蓮にならなくていい」

 朔は数秒考えた。

「理論上は可能だ」

「やる」



 端末を操作する。

 PERSONALITY DECOMPOSITION

 パスワードが必要。

「ROOTパスワードだ」

 朔が言う。

 紗奈がすぐに気づく。

「神谷廉一郎の娘の名前」

 全員が古い少女の写真を見る。

 名字は神谷。

 下の名前だけが消されていた。

 朔は長く目を閉じる。

「先生はいつも娘を……かえ……かえでって」

 目を開く。

「神谷楓」

 入力。

 KAMIYA KAEDE

 認証成功



 分解処理が始まった。

 『神谷蓮人格を構成する記憶を、元の所有者へ返却します』

 母。

 妹。

 友人。

 学校。

 過去。

 顔。

 声。

 性格。

 名前。

 一つずつ、蓮の中に絡みついていたものがほどけていく。

 しかし記憶が消えるわけではない。

 その下に隠されていた本来の関係が見えるようになる。

 母。

 神谷香織。

 その奥。

「……香澄さん」

 父。

 神谷蓮。

 その奥。

 佐伯修一。

 記憶の中で、父が呼ぶ。

『悠真』

 蓮の目から涙が落ちた。

「父さん……」

 友人。

 高城悠真。

 その奥。

 結城湊。

 雨宮栞。

 その奥。

 水城紗奈。

 そして神谷蓮という名前の下から。

 高城悠真。

 装置。

 人格分解率 92%

 あと少し。



 処理が止まった。

 8%の記憶に所有者が存在しません

 朔が画面を見る。

「神谷楓の記憶だ」

「返す相手がいない」

「楓はもういないから」

 選択肢。

 削除

 新規保存

「保存しよう」

 紗奈が言った。

「人の中じゃなく、記録として」

 悠真――いや、高城悠真は古いデジタルカメラを見た。

「写真に残す」

 朔が頷く。

「できる」



 残り8%の記憶をカメラへ移す。

 少女。

 神谷楓。

 父。

 神谷廉一郎。

 家。

 笑顔。

 普通の家族として過ごしていた時間。

 最後の一枚。

 楓がカメラへ向かって笑っている。

 装置。

 100%

 そして。

 神谷蓮人格 分解完了

 登録抹消

 学生証。

 蓮の名前は、

 高城悠真

 湊。

 結城湊

 紗奈。

 水城紗奈

 三上。

 そのまま。

「終わった?」

 湊が尋ねる。

 高城悠真は息を吐いた。

「たぶん」

 しかし朔だけは首を振った。

「まだだ」



 死亡記録は残っていた。

 高城悠真。

 対象者不一致。

 雨宮栞。

 対象不明。

 神谷蓮。

 対象消失。

 神谷美月。

 そのまま。

 神谷香織。

 そのまま。

「美月と母さんがまだ危ない」

「家へ戻ろう」

 悠真が言った、その瞬間。

 カシャ。

 古いカメラが勝手に新しい写真を撮った。

 場所は家。

 美月。

 香澄。

 その後ろに一人の年配の男。

「誰だ」

 湊が画面を見る。

 三上の顔色が変わった。

「桐島……じゃない」

 朔は写真を見た瞬間、震えた。

「神谷廉一郎」

「生きてるの?」

「本来なら百歳を超えてる。でも社会的死亡と人格移行を何度も繰り返していたなら……」

 紗奈が続ける。

「神谷廉一郎も、役割を移しながら生きてきた?」



 写真の裏に文字が浮かぶ。

 『神谷蓮を消してくれてありがとう』

 次。

 『これで楓を戻せます』

 朔の顔色が変わった。

「嘘……」

 楓の記憶は、さっき完全な形で写真へ保存した。

 さらに。

 『記憶があれば、人は作れる』

 『それを君たちは証明してくれた』

「俺たちが楓を戻すための材料を完成させたってことか」

 湊が拳を握る。

 最後の写真では、神谷廉一郎が美月の肩へ手を置いている。

 その下。

 『三十四番を使います』

「美月!」



 全員が走り出した。

 美月へ電話。

 出ない。

 香澄へ。

 出ない。

 次の写真。

 リビング。

 誰もいない。

 テーブルの上に紙。

 『美月を返してほしければ、神谷楓の記憶を持って学校へ来なさい』

「楓の記憶……」

 朔がカメラを見る。

 三上が理解する。

「美月へ楓の人格を入れるつもりなのか」

「三十四番は記憶改変への耐性が強い。楓を固定する器として使うなら、最適なんだ」

「絶対にさせない」

 悠真ははっきり言った。



 その時だった。

 写真に写る神谷廉一郎の顔を見つめていた湊が、急に眉をひそめる。

「……先生」

「何だ」

「この人、どこかで見たことある」

「昔の写真じゃなく?」

「違う。最近」

 学校。

 入学式。

 廊下。

 職員室。

 そして。

 図書室。

 湊の顔色が変わる。

「嘘だろ……」

 三上も気づいた。

「まさか」

「誰?」

 紗奈が尋ねる。

「司書の人だ」

 第ニ章で雨宮栞を知らないと言った女性。

 写真を見た瞬間だけ表情を変え、地下や十七年前の事件を知っていた。

 そして言った。

 『その子を探すのはやめた方がいい』

 朔は低い声で言う。

「人格も外見も役割に引っ張られる。この記録が本当なら、神谷廉一郎は今、司書という立場で学校にいる」



 悠真のスマートフォンが震えた。

 新しいメッセージ。

 差出人。

 図書室

 本文。

 『第九章を始めましょう』

 その下に写真。

 学校の図書室。

 椅子には美月が座っている。

 少なくとも傷ついた様子はない。

 その後ろには、司書の女性。

 穏やかに笑っている。

 胸元の名札。

 神谷 楓

「楓?」

 湊が呟く。

 朔は首を横に振った。

「違う。その人は廉一郎だ」

「じゃあ今、誰が誰の人格を持ってるの」

 紗奈の問いに、誰も答えられなかった。

 写真の裏。

 最後の二行。

 『三十三人目は揃いました』

 『残るのは、三十四人目だけです』

 高城悠真は写真の中の美月を見つめた。

 十七年前。

 三十三人。

 三十四番。

 現在。

 三十三人目まで揃った。

 残るのは美月。

 彼女が0組へ入れば、何かが完成する。

 神谷楓の復元なのか。

 町全体の初期化なのか。

 あるいは、それよりもっと別のものなのか。

 まだ分からない。

 ただ一つだけ、悠真にははっきり分かっていた。

 自分たちはずっと、誰が犯人なのかを探してきた。

 けれど本当に探すべきだったのは、誰が最初にこの物語を記録し始めたのかということだった。

 名前を書いた人間。

 写真を撮った人間。

 死亡記録を作った人間。

 そして、自分たちが神谷蓮という存在を信じるよりも前から、その存在を必要としていた人間。

 その人物へ辿り着かなければ、この事件は終わらない。

 悠真はもう一度、写真の裏に残された最後の一文を見た。

 『残るのは、三十四人目だけです』

 その瞬間、図書室の写真の中で、美月がゆっくりこちらを向いた。

 そして、声など聞こえるはずがない写真の中で、その唇が確かに動いた。

 「お兄ちゃん」

 高城悠真はカメラを握りしめた。

 今度こそ、自分の名前で美月を迎えに行く。

――第九章「三十三人目」へ続く。
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