日ノ本時代男子

江戸くん

「ねぇ」

談話室で夏休みの数学の宿題をしていた時、背後から声をかけられた。

振り返ると、そこに立っていたのは―――。

「江戸くん!?」

相変わらず布団を頭までかぶったままの江戸くんが、無表情で言った。

「算術……教えよっか?」

「え?」

私の動揺を他所に、江戸くんはさっきまで解いていた宿題を静かに見てノートに書いていた一問を指差す。

「ここ、間違ってるよ」

「え?……あ、本当だ……」

​指差された計算式をもう一度確認すると、単純な符号のミスで、その先がすべてガタガタに崩れていた。

消しゴムで消し、もう一度解こうとしたものの、どこでどう狂ったのか全く分からなくなり、ペンを持ったまま手が止まってしまう。

すると、江戸くんは小さくため息をつきながら、私の向かい側の席にどさりと腰掛けた。

コトっと机に並べられたのは、真っ白な和紙のノートと、見慣れないコンパクトな道具、そして細工の美しい木製のそろばんだった。

​「それは?」

「矢立て。中に筆と小さな墨壺(すみつぼ)が入ってるの。まぁ、筆箱みたいなものだよ」

​江戸くんは手際よく矢立ての蓋を開け、慣れた手つきでサラサラと私のノートの問題を白紙に写していく。

計算方法を一つひとつ、ぽつりぽつりと静かな声で教えてくれる。その解説は驚くほど分かりやすくて、すっと頭に染み込んできた。

今度は計算ミスしないように……!

「……できた」

私が答えを書き込むと、江戸くんはそれを一瞥(いちべつ)し、パチパチパチパチ!と、目にも留まらぬもの凄いスピードでそろばんの珠を弾いた。

「……うん。合ってる」

江戸くんは少し口角を上げた。それがめっちゃ嬉しくて……。

すると、江戸くんは少し視線を気まずそうに落とした。

「その……前はアンタのことよく知りもしないくせにキツイこと言ってごめん……」

一瞬、言葉が出なかった。

謝られるなんて思っていなかったし、まして江戸くんの口から、こんな言い方で出てくるなんて。

「え、あ、気にしてないから大丈夫だよ」

「……そう」

それだけ言うと、江戸くんは静かに去っていった。

✳✳✳

「江戸について知りたい……ですか?」

「はい!」

江戸くんのことを一番知ってそうな明治さんに尋ねると、不思議そうな表情をされた。

「色々知ってそうな明治さんに聞いたら何か分かるかもって……」

しかし、明治さんの口から出てきたのは意外な言葉だった。

「正直、江戸のことを話すと、どうしても愚痴になるんですよ」

あれ、もしかして明治さんと江戸くんって、歴史の授業のイメージ通りあんまり仲が良くないんだろうか……?

江戸幕府VS倒幕派(明治政府)みたいな、一筋縄でいかない関係が頭をよぎる。

「えっと……何でですか?」

「あの人、外国と変な条約を結んで……明治の世はそれの改正や撤廃で大忙しでしたからね」

「変な条約?」

「不平等条約って聞いたことありますか?」

「あー、なんか授業でやりました!関税とか決められちゃうやつですよね」

「そうです。あの頃、開国だなんだって騒いで、結局外国に有利な条件で条約を結んでしまったんです。しかも治外法権付き。つまり、外国人が国内で悪さしても、日本の法律じゃ裁けないんですよ」

明治さんはため息をつき、眉間を押さえた。

「でもまぁ……あの人もあの人なりに必死だったんでしょう。見たこともない黒船に開国を迫られ、国内は攘夷(じょうい)だ開国だで内乱寸前。下手すれば外国の植民地にされてたかもしれない。……とはいえ、もう少し交渉力を持ってほしかったです」

その最後の言葉は、やけに含みがあった。

「明治の世は、不平等条約の改正交渉をずーっとやってたんですよ。その為には近代国家にならないといけませんので、版籍奉還、国会開設、憲法制定、鉄道、インフラ整備……」

明治さんは湯呑みのお茶を一口すする。

「なのに、です。やっと話が少し進みかけたところでノルマントン号事件ですよ」

「えっと、それって……?」

パラパラと頭の中の教科書が捲られる。

「1886年にイギリス船籍の船が和歌山沖で沈没した事件ですね。乗ってた日本人乗客は二十五名全員死亡。しかし、船長と外国人乗客は助かった。しかもその船長、イギリスの法律で裁かれて無罪放免」

「あ……それ、治外法権のせいで」

「そうです」

明治さんはため息をついた。

「外国側は涼しい顔。国民の怒りは爆発寸前、外交はさらにややこしくなる……。あの事件の後、胃に穴が空きそうでした」

「江戸時代のツケを払ってる途中で、さらに追加請求された感じ……で合ってますか?」

「ええ」

その時、庭にいた南北ツインズが明治さんを呼んだ。

「明治さん!古墳くん達が土器を台所で焼こうとしてるよー!」

「んで、大正のラジオに泥が飛んだ」

「ちゃうねん!釜戸が潰れてん!あ、潰れるは壊れるの意味やからな」

「何で壊れるんですか!?」

「ハニワ焼こう思ったら釜戸が割れてん」

「粉々に割れたから……修復不可能」

縄文くんもシュンとしている。

「すみません、ちょっと見てきます」

明治さんは一礼して、庭に走っていった。

(……幕末……)

「ちょっと、どうしたんだよっ?」

ごろんと寝転がりながら幕末について考えていたら、そんな声が聞こえた。

畳を踏む音が私の目の前に止まり、はっとして顔を上げると、そこには見知った人がただならぬ表情で私を見下ろしている。

「江戸くん……?」

「なに真っ青な顔してんのさ!体調でも悪いのかよ?ねぇ!」

畳み掛けるような勢いだ。責められてるのか、心配されているのか、よく分からない。

「だ、大丈夫。ちょっと横になってただけだから」

「は?横になってただけ?」

江戸くんはため息をついた。がっかりしたのか安堵(あんど)したのか、これまたよく分からない反応だ。

「それで、もう大丈夫なの?」

「……心配してくれているの?」

「はぁ!?だ、誰がアンタのことなんか心配するかよっ!元気なら僕もう戻るからね」

くるりと戻ろうと歩き始めた江戸くんの手首を掴む。

「あの……江戸くんのこと、知りたい!」

「は?」

一瞬、江戸くんの目が見開かれる。しかし、またいつもの気だるげそうな目付きに戻った。

「明治さんから、幕末のことを少し聞いて。でも、江戸くんはどうだったのか、直接知りたくて……あと江戸くんと仲良くなりたいし」

「知ったところで、楽しい話じゃないよ。幕末とか、ほぼ混乱期だし」

呟くように吐き捨てると、江戸くんは窓の方を見やった。外からは、みんなの叫び声。

「知りたい!」

「……はぁ」

江戸くんはため息をつき、私の手を掴んだ途端、視界がぐにゃりと歪んだ。

私は、江戸時代に立っていた。
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