私ばかりが本気だと思っていたら、完璧上司のほうが重かった件
「私と別れてください」

 ――――は?

 本当に思いもよらないことを告げられると、人間の思考はフリーズしてしまうらしい。そのことを、八代(やしろ)雅芳(まさよし)は三十二歳になって初めて知った。

 二人きりのオフィスに、人が近づいてくる足音が響く。それを耳にした彼女は、慌てたようにドアを見た。

「……すみません」

 そんな謝罪の言葉を残し、部屋を出ていってしまう。
 それからまもなく警備員の男がやってきて、部屋を覗き込んだ。

「そろそろ施錠の時間ですが、もうしばらくかかりそうですか」

 部屋の中央で呆然と立ち尽くしていた雅芳ははっと我に返る。

「――すみません。もう出ます」



 ――一体なにが起こったんだ。

 この数日間、雅芳の頭は常にその疑問に占められていた。もちろん業務中の今、手元は淀みなく仕事をさばきつづけてはいるが。

 視線を動かせば、部下の一人である観月(みづき)佳穂(かほ)が一心不乱にキーボードを打ち込んでいるのが見える。先ほど指示した企画書の修正に取り組んでいるのだろう。人柄は控えめながらも丁寧で確実な仕事をする彼女は、雅芳にとって信頼できる部下であり、プライベートでは可愛い彼女だった。

 だが、それもほんの数日前までの話。
 佳穂がなぜ突然別れを切り出したのか、雅芳には見当がつかない。

 二人が交際を始めたのはおよそ三ヶ月前のこと。
 突発的なトラブル対応で残業が長引き、偶然オフィスで二人きりになった夜。

『すみませんでした、こんな遅くまで付き合っていただいて。ご予定とかありましたよね。恋人とデートとか……』

 〝恋人がいるから〟というのは雅芳が告白を断る際に用いる常套句だ。面倒を避けるためにそういうことにしていた。

 佳穂がそれを聞き知っていて、わざわざこんな場面で口にしたのだとしたら。

 彼女の発言、そしてその視線の動きから、自分に対する好意らしきものを感じとった雅芳は、その機を逃さなかった。

『デートをするような相手は、今はいないな』

 え? と瞳を瞬いた佳穂に淡く微笑みかけて、雅芳は問いかけた。

『なら――君が僕の恋人になる?』
『なっ、ど、どうして……私が課長の恋人になるなんて話になるんですか?』

 佳穂は戸惑いながら、そんな質問を返してきた。雅芳は余裕の態度を崩さず答える。

『だって君、僕に好意をいだいているだろう? 少なくとも意識はしている』

 すると、彼女は真っ赤になって黙り込んだ。
 その表情からは、好意どころではなく明確に恋と断定してもよさそうなほどの感情が垣間見え、雅芳はたまらない満足感を覚えた。

 彼女が怯えたり逃げたりしないことを確かめながら、二歩、三歩と距離を詰める。
 そうしてとびきり麗しい笑みを浮かべ、再度問うた。

『僕の、恋人になる?』

 佳穂はしばし黙考したものの、やがて小さく頷いた。
 髪の間から覗く可愛らしい耳が赤く染まっている。そんな様が、今でも鮮明に記憶に焼き付いている。
 そのときの彼女には間違いなく雅芳に対する好意があった。
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