婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~
6.二回目の帰省は
それから数日が経った。
私はまだ綾斗さんに確かめることができない。
というか、怖くてできないでいた。まだじばらく心の整理をする時間が必要だった。
会社で綾斗さんと顔を合わせることを意識して避けていた。
廊下ですれ違えば下を向きながら会釈だけして通り過ぎる。仕事のメールには必要最低限の返事だけ。会議の時は一番遠い席を選んだ。
うまくいっていた……たぶん。
でも、綾斗さんはそんな私の様子に気が付いていたみたい。
「では、この内容でまとめます。他は大丈夫でしょうか? そうしましたらこれで会議を終わりにします」
司会をしていた先輩が全体にそう声をかけると、会議に出席していた綾斗さんが資料を見たままクールないつもの声で呼び止めてきた。
「桃瀬さん、確認したいことがあるので少し残ってください」
「あ……、はい」
……どうしよう。しかし、指名されたので残らないわけにはいかない。
他の社員が会議室から出て行くのを横目に、ずっと資料を見ている綾斗さんの前におずおずと座る。
二人きりになってしまった。なるべく目を合わさないように俯くと、パサッと資料がテーブルに置かれる音が聞こえた。
「どうして残されたかわかるか?」
淡々とした仕事の時の綾斗さんの声。いや、どこかもっと冷たい響きを感じさせる。
なんだか怒っている……?
そう思ってそっと顔をあげると、綾斗さんは無表情のまま真っすぐに私を見ていた。
「こうでもしないと茉白と話ができないと思ってな」
「専務……」
「俺を避けているな? なぜだ」
単刀直入に聞かれ、言葉に詰まってしまう。穂乃果の言葉が頭をよぎる。
もしここで視察の件を訊いたら、綾斗さんはなんていう?
言い分……あるのだろうか? それとも、それ以外に何がある? って開き直る?
いつもはときめいている胸も、今日は緊張から激しくドキドキとうるさい。
「どうして俺を見ない?」
「そんなことはありません。専務、そんなお話なら……」
「俺とは話したくないのか?」
しずかに、でもはっきり聞かれて言葉に詰まる。
「……それは……」
「……この前、抱きしめたからか」
「え?」
「ランチに言った時、池に落ちそうになった茉白を抱きとめた。それが嫌だったか? だから……」
「違います!」
「ならどうして?」
「それは……」
何か言わなきゃと口を開いた時、私のジャケットに入れていたスマホのバイブ音が鳴り響いた。初めは無視するが、しつこく鳴る音に綾斗さんは軽くため息をつく。
「……いいぞ、出ろ」
「すみません……」
立ち上がって綾斗さんに背を向ける。表示を見ると、母からだった。仕事をしている日中に電話してくるなんて珍しい。
「はい、どうしたの? お母さん」
『茉白、仕事中にごめんなさいね。落ち着いて聞いて』
慌てる様なその声に胸がざわついた。
「何かあったの?」
『お父さんが階段から落ちて救急車で運ばれたの』
「え!?」
『その時に頭を打ったみたいで、今救急で……。意識がなくて……』
それ以上は頭に入って来なかった。スマホを握りしめたまま、どうすればいいかわからずにその場に立ち尽くす。
お父さんが……、頭を打った? 救急? 意識がないって……。
言葉の理解が追い付かない。
「茉白? どうした?」
ハッと振り返ると、綾斗さんがすぐ後ろに立っていた。
「あ……、その……」
喉が詰まって言葉が出ない。スマホを握る手が震えていた。
「顔色が悪い。何かあったのか?」
「お父さんが……、階段から落ちて……。頭を打って、救急車で運ばれたみたいで……。い、意識が……」
「意識が? 病院の名前は?」
「あ、まだ……」
そうだ、まだ母と電話がつながったままだった。スマホを耳に当てようとすると、綾斗さんがそれを優しく遮る。そして私のスマホを取り上げた。
「もしもし、お母さん。お久しぶりです、綾斗です。お父さんが運ばれたって……。ええ……、そうですか。病院の場所は……、はい、わかりました。ええ……」
綾斗さんが私の代わりに母と話をしてくれている。スマホを握っていないもう片方の手で私の背中をそっとさすってくれる。
まるで、落ち着けと言っているように。
「ではまた」
スマホを切った綾斗さんはそれを私に返し、自分のスマホで何かを調べ始めた。
「新幹線で二時間ちょっとだな。そこから在来線……。今からなら夜までには間に合う」
「はい……」
「必要な物は現地で買えばいいな。行くぞ」
「え……?」
行くぞって……。
驚く私に綾斗さんは振り返る。
「一人でいけるのか? 今の状態で」
すぐに返事ができなかった。正直に言えば、自信はない。自分でもわかるほど動揺している。電車の乗り換えを一人でちゃんとできるだろうか。
でも、行くしかないから。
「……行けます」
そう返すと、軽くため息をつかれた。
「嘘を言うな。俺も一緒に行く」
「でも、専務は仕事が……」
「午後は打ち合わせと会食だけだ。問題ない」
「でも……」
「茉白」
綾斗さんは私の肩を掴む。優しいその手は温かい。
「俺がいる」
その一言で、張りつめていた何かが少し緩んだ。目の奥が熱くなるのを必死にこらえる。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。行くぞ」
綾斗さんが先に歩き出す。私は一度だけ目をギュッと瞑って、その背中を追いかけた。
視察の事。真田さんからの言葉。距離を置こうとしていたこの数日間。
でも、今はそれよりも先に考えることがある。
元気だけが取り柄だったお父さん。病気も怪我もめったにしたことがなかったのに、階段から落ちて意識がないだなんて……。
どうか、無事でありますように。
それだけを願いながら、私は綾斗さんの後を追った。
私はまだ綾斗さんに確かめることができない。
というか、怖くてできないでいた。まだじばらく心の整理をする時間が必要だった。
会社で綾斗さんと顔を合わせることを意識して避けていた。
廊下ですれ違えば下を向きながら会釈だけして通り過ぎる。仕事のメールには必要最低限の返事だけ。会議の時は一番遠い席を選んだ。
うまくいっていた……たぶん。
でも、綾斗さんはそんな私の様子に気が付いていたみたい。
「では、この内容でまとめます。他は大丈夫でしょうか? そうしましたらこれで会議を終わりにします」
司会をしていた先輩が全体にそう声をかけると、会議に出席していた綾斗さんが資料を見たままクールないつもの声で呼び止めてきた。
「桃瀬さん、確認したいことがあるので少し残ってください」
「あ……、はい」
……どうしよう。しかし、指名されたので残らないわけにはいかない。
他の社員が会議室から出て行くのを横目に、ずっと資料を見ている綾斗さんの前におずおずと座る。
二人きりになってしまった。なるべく目を合わさないように俯くと、パサッと資料がテーブルに置かれる音が聞こえた。
「どうして残されたかわかるか?」
淡々とした仕事の時の綾斗さんの声。いや、どこかもっと冷たい響きを感じさせる。
なんだか怒っている……?
そう思ってそっと顔をあげると、綾斗さんは無表情のまま真っすぐに私を見ていた。
「こうでもしないと茉白と話ができないと思ってな」
「専務……」
「俺を避けているな? なぜだ」
単刀直入に聞かれ、言葉に詰まってしまう。穂乃果の言葉が頭をよぎる。
もしここで視察の件を訊いたら、綾斗さんはなんていう?
言い分……あるのだろうか? それとも、それ以外に何がある? って開き直る?
いつもはときめいている胸も、今日は緊張から激しくドキドキとうるさい。
「どうして俺を見ない?」
「そんなことはありません。専務、そんなお話なら……」
「俺とは話したくないのか?」
しずかに、でもはっきり聞かれて言葉に詰まる。
「……それは……」
「……この前、抱きしめたからか」
「え?」
「ランチに言った時、池に落ちそうになった茉白を抱きとめた。それが嫌だったか? だから……」
「違います!」
「ならどうして?」
「それは……」
何か言わなきゃと口を開いた時、私のジャケットに入れていたスマホのバイブ音が鳴り響いた。初めは無視するが、しつこく鳴る音に綾斗さんは軽くため息をつく。
「……いいぞ、出ろ」
「すみません……」
立ち上がって綾斗さんに背を向ける。表示を見ると、母からだった。仕事をしている日中に電話してくるなんて珍しい。
「はい、どうしたの? お母さん」
『茉白、仕事中にごめんなさいね。落ち着いて聞いて』
慌てる様なその声に胸がざわついた。
「何かあったの?」
『お父さんが階段から落ちて救急車で運ばれたの』
「え!?」
『その時に頭を打ったみたいで、今救急で……。意識がなくて……』
それ以上は頭に入って来なかった。スマホを握りしめたまま、どうすればいいかわからずにその場に立ち尽くす。
お父さんが……、頭を打った? 救急? 意識がないって……。
言葉の理解が追い付かない。
「茉白? どうした?」
ハッと振り返ると、綾斗さんがすぐ後ろに立っていた。
「あ……、その……」
喉が詰まって言葉が出ない。スマホを握る手が震えていた。
「顔色が悪い。何かあったのか?」
「お父さんが……、階段から落ちて……。頭を打って、救急車で運ばれたみたいで……。い、意識が……」
「意識が? 病院の名前は?」
「あ、まだ……」
そうだ、まだ母と電話がつながったままだった。スマホを耳に当てようとすると、綾斗さんがそれを優しく遮る。そして私のスマホを取り上げた。
「もしもし、お母さん。お久しぶりです、綾斗です。お父さんが運ばれたって……。ええ……、そうですか。病院の場所は……、はい、わかりました。ええ……」
綾斗さんが私の代わりに母と話をしてくれている。スマホを握っていないもう片方の手で私の背中をそっとさすってくれる。
まるで、落ち着けと言っているように。
「ではまた」
スマホを切った綾斗さんはそれを私に返し、自分のスマホで何かを調べ始めた。
「新幹線で二時間ちょっとだな。そこから在来線……。今からなら夜までには間に合う」
「はい……」
「必要な物は現地で買えばいいな。行くぞ」
「え……?」
行くぞって……。
驚く私に綾斗さんは振り返る。
「一人でいけるのか? 今の状態で」
すぐに返事ができなかった。正直に言えば、自信はない。自分でもわかるほど動揺している。電車の乗り換えを一人でちゃんとできるだろうか。
でも、行くしかないから。
「……行けます」
そう返すと、軽くため息をつかれた。
「嘘を言うな。俺も一緒に行く」
「でも、専務は仕事が……」
「午後は打ち合わせと会食だけだ。問題ない」
「でも……」
「茉白」
綾斗さんは私の肩を掴む。優しいその手は温かい。
「俺がいる」
その一言で、張りつめていた何かが少し緩んだ。目の奥が熱くなるのを必死にこらえる。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。行くぞ」
綾斗さんが先に歩き出す。私は一度だけ目をギュッと瞑って、その背中を追いかけた。
視察の事。真田さんからの言葉。距離を置こうとしていたこの数日間。
でも、今はそれよりも先に考えることがある。
元気だけが取り柄だったお父さん。病気も怪我もめったにしたことがなかったのに、階段から落ちて意識がないだなんて……。
どうか、無事でありますように。
それだけを願いながら、私は綾斗さんの後を追った。