婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~
綾斗side3
月曜日の朝、藤宮グループの本社はいつも通りの忙しさだった。
エントランスを抜けてエレベーターへ向かう社員達。飛び交う挨拶にコーヒーの香り。
何も変わっていない。なのに、俺は執務室の椅子に座りながらデスクの上の書類を30分眺めたままだった。
ダメだ……、内容が頭に入って来ない。
ハァと深いため息がこぼれた。
『明日から上司と部下としてよろしくお願いします』
茉白の言葉が何度も頭をよぎる。
迷惑だなんて思ったことがない。むしろ……。言葉を続けたかったが、茉白はそれを遮った。きっぱりと線を引かれたと思った。
「参ったな」
誰もいない執務室で低く呟いた。
もう何度目だろうか、この言葉は……。婚活パーティーの夜も、デートの帰りも、新幹線の中でも。その度に「まだわからない」「今は考えない」と先送りにしていたこと。
でも今は、もう誤魔化せない。はっきりと気が付いてしまったんだ。
どうしてこんなにも、茉白が頭から離れないのか。どうして彼女だけ気にかけてしまうのか。
もう、遅いけれど……。
スマホを手に取る。茉白の連絡先を開いた。
「何を送ればいいんだ」
自嘲の笑みがこぼれる。
昨日のことを撤回しろとでも言うのか? あんなにはっきりと距離を置かれたではないか。婚活パーティー前の状態に戻ると。
茉白は視察のことを黙っていた俺に怒っている。俺が茉白を利用したと思っているんだ。
そう思われても仕方がない。黙っていたのは俺なんだから。
それに茉白が自分で決めたことに、俺の気持ちを一方的に押し付けるような真似はしたくない。でも……。本当にこのまま何もしなくていいのか?
結局、スマホを机に伏せた。書類に目を戻す。でもやはり、内容が頭に入って来なかった。
こんなことは初めてだ。仕事中に仕事以外のことを考えるなんて。そもそも、好きだと気が付いた瞬間に振られるのも初めてのことだが。
今日何度目かのため息をついた時、執務室の扉がノックされた。
「専務、よろしいでしょうか」
「入れ」
扉が開いて真田が書類を手に入ってきた。いつも通りの表情だ。そのいつも通りが、微かに俺をいらだたせた。
「専務、決済の書類をお願いします」
「これだけか?」
「え?」
「話はこれだけか?」
俺は書類を受け取ると、ジッと真田を見つめた。俺の言いたいことが分かったのだろう。真田は気まずそうにスッと目を逸らした。
「桃瀬から聞いている。視察の件、お前が話したんだろう? なぜ余計なことをした」
「……申し訳ありません」
「真田にしては珍しいな」
強く責めるわけではない。ただ目を逸らさない俺に、真田は少しだけ俯いた。
「なぜだ」
一言だけ聞いた。
偽婚約者の話が決まった時、真田には簡単に事情を話した。
桃瀬の実家の事情で候補地へ行くこと、その為に予定を組みなおしてほしいこと。
真田は絶対に口外しない。信頼していたからこそ話した。
だから、今回のことは予想外だった。
今までの真田なら決して余計なことは離さない。なのに、あえて茉白には視察の件を話した。俺が言っていない言葉を添えて。
どうしてそんなことを。ただただ疑問だった。
真田は少し間をおいてから口を開いた。
「……執務室に桃瀬さんをお呼びにあった日、会話を廊下で聞いてしまいました。専務が『付き合え』とおっしゃっているのが」
「食事に誘っただけだ」
「ええ、わかっています。ただ……、専務があんな言い方をするのは初めて聞いたので……。食事から戻られたお二人の様子を見て、私は……」
真田は軽く唇を噛んだ。
こんな真田を初めて見る。普段は一切無駄がないあの真田が、初めて言葉を探していた。
ああ、そうか……。
それだけで俺には十分だった。
「……ずっと秘書としてお側にいました」
「ああ」
「その間、専務が誰かに対してああいう顔をされるのを、一度も見たことがありませんでした」
「そうか」
「だから……」
真田は静かに息を吐いた。
「つい、してしまいました。桃瀬さんが不快な思いをするだろうってわかっていたのに……。大変申し訳ありませんでした」
真田は深々と頭を下げた。その細い肩が小さく震えている。
真田が俺を慕っていたのはなんとなく気が付いていた。だからこそ、目の前で変わっていく俺を見るのが辛かったのだろう。
ずっと側にいたからこそ、俺自身が気が付けなかった変化を見続けていた。
「真田にそうさせたのは俺だ。お前を責める気はない。むしろ……、悪かったな」
「謝らないでください」
顔をあげた真田の目がわずかに潤んでいた。そしてスッと息を吸った。
「……専務には桃瀬さんがいます」
「いや……、どうかな」
茉白がそれを望んでいなければどうしようもない。
「ずっとお側で見てきました。そうなるべきです」
はっきり言う真田に、今度は俺が目を逸らす番だった。
「桃瀬さんには謝りたいと思います。私から直接」
「……それはお前が決めることだ」
「はい。失礼します」
真田は一礼して部屋を出て行った。
執務室に一人残された俺は、大きないすに背を預けて天井を見上げた。
「専務には桃瀬さんがいます、そうなるべきです……か」
長年側にいた人間がそう言った。グッと背を押された気がした。
このままでいいのか? 茉白が決めたからと? いや、俺が何もしないのは違う。
茉白は線を引いた。だが俺はまだ何も言っていない。全部、伝えていない。
俺は茉白に言わなけらばならないことがある。
エントランスを抜けてエレベーターへ向かう社員達。飛び交う挨拶にコーヒーの香り。
何も変わっていない。なのに、俺は執務室の椅子に座りながらデスクの上の書類を30分眺めたままだった。
ダメだ……、内容が頭に入って来ない。
ハァと深いため息がこぼれた。
『明日から上司と部下としてよろしくお願いします』
茉白の言葉が何度も頭をよぎる。
迷惑だなんて思ったことがない。むしろ……。言葉を続けたかったが、茉白はそれを遮った。きっぱりと線を引かれたと思った。
「参ったな」
誰もいない執務室で低く呟いた。
もう何度目だろうか、この言葉は……。婚活パーティーの夜も、デートの帰りも、新幹線の中でも。その度に「まだわからない」「今は考えない」と先送りにしていたこと。
でも今は、もう誤魔化せない。はっきりと気が付いてしまったんだ。
どうしてこんなにも、茉白が頭から離れないのか。どうして彼女だけ気にかけてしまうのか。
もう、遅いけれど……。
スマホを手に取る。茉白の連絡先を開いた。
「何を送ればいいんだ」
自嘲の笑みがこぼれる。
昨日のことを撤回しろとでも言うのか? あんなにはっきりと距離を置かれたではないか。婚活パーティー前の状態に戻ると。
茉白は視察のことを黙っていた俺に怒っている。俺が茉白を利用したと思っているんだ。
そう思われても仕方がない。黙っていたのは俺なんだから。
それに茉白が自分で決めたことに、俺の気持ちを一方的に押し付けるような真似はしたくない。でも……。本当にこのまま何もしなくていいのか?
結局、スマホを机に伏せた。書類に目を戻す。でもやはり、内容が頭に入って来なかった。
こんなことは初めてだ。仕事中に仕事以外のことを考えるなんて。そもそも、好きだと気が付いた瞬間に振られるのも初めてのことだが。
今日何度目かのため息をついた時、執務室の扉がノックされた。
「専務、よろしいでしょうか」
「入れ」
扉が開いて真田が書類を手に入ってきた。いつも通りの表情だ。そのいつも通りが、微かに俺をいらだたせた。
「専務、決済の書類をお願いします」
「これだけか?」
「え?」
「話はこれだけか?」
俺は書類を受け取ると、ジッと真田を見つめた。俺の言いたいことが分かったのだろう。真田は気まずそうにスッと目を逸らした。
「桃瀬から聞いている。視察の件、お前が話したんだろう? なぜ余計なことをした」
「……申し訳ありません」
「真田にしては珍しいな」
強く責めるわけではない。ただ目を逸らさない俺に、真田は少しだけ俯いた。
「なぜだ」
一言だけ聞いた。
偽婚約者の話が決まった時、真田には簡単に事情を話した。
桃瀬の実家の事情で候補地へ行くこと、その為に予定を組みなおしてほしいこと。
真田は絶対に口外しない。信頼していたからこそ話した。
だから、今回のことは予想外だった。
今までの真田なら決して余計なことは離さない。なのに、あえて茉白には視察の件を話した。俺が言っていない言葉を添えて。
どうしてそんなことを。ただただ疑問だった。
真田は少し間をおいてから口を開いた。
「……執務室に桃瀬さんをお呼びにあった日、会話を廊下で聞いてしまいました。専務が『付き合え』とおっしゃっているのが」
「食事に誘っただけだ」
「ええ、わかっています。ただ……、専務があんな言い方をするのは初めて聞いたので……。食事から戻られたお二人の様子を見て、私は……」
真田は軽く唇を噛んだ。
こんな真田を初めて見る。普段は一切無駄がないあの真田が、初めて言葉を探していた。
ああ、そうか……。
それだけで俺には十分だった。
「……ずっと秘書としてお側にいました」
「ああ」
「その間、専務が誰かに対してああいう顔をされるのを、一度も見たことがありませんでした」
「そうか」
「だから……」
真田は静かに息を吐いた。
「つい、してしまいました。桃瀬さんが不快な思いをするだろうってわかっていたのに……。大変申し訳ありませんでした」
真田は深々と頭を下げた。その細い肩が小さく震えている。
真田が俺を慕っていたのはなんとなく気が付いていた。だからこそ、目の前で変わっていく俺を見るのが辛かったのだろう。
ずっと側にいたからこそ、俺自身が気が付けなかった変化を見続けていた。
「真田にそうさせたのは俺だ。お前を責める気はない。むしろ……、悪かったな」
「謝らないでください」
顔をあげた真田の目がわずかに潤んでいた。そしてスッと息を吸った。
「……専務には桃瀬さんがいます」
「いや……、どうかな」
茉白がそれを望んでいなければどうしようもない。
「ずっとお側で見てきました。そうなるべきです」
はっきり言う真田に、今度は俺が目を逸らす番だった。
「桃瀬さんには謝りたいと思います。私から直接」
「……それはお前が決めることだ」
「はい。失礼します」
真田は一礼して部屋を出て行った。
執務室に一人残された俺は、大きないすに背を預けて天井を見上げた。
「専務には桃瀬さんがいます、そうなるべきです……か」
長年側にいた人間がそう言った。グッと背を押された気がした。
このままでいいのか? 茉白が決めたからと? いや、俺が何もしないのは違う。
茉白は線を引いた。だが俺はまだ何も言っていない。全部、伝えていない。
俺は茉白に言わなけらばならないことがある。