婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~
「また来てくださいね」

帰る前、父と母は外まで見送りに出てくれた。
母は穏やかに綾斗さんに微笑みかける。松葉杖を突いた父は綾斗さんにお土産が入った紙袋を手渡していた。

「心配かけたな」
「お大事になさってください」

父に微笑みかける綾斗さんは、変わったところはない婚約者のまま。

「綾斗さん、茉白をよろしくお願いします」
「はい」

母の丁寧な挨拶にも動じない綾斗さんは、やっぱり凄いね。

「茉白、綾斗さんと仲良くね」

今回の帰省で、母の綾斗さんへの対応がほんの少し変わった気がする。私はそれに気が付かないふりをして、ニッコリと微笑んだ。

「うん、またね。あ、お父さんも無理しないでね」
「ああ、わかってるよ。じゃあ茉白、綾斗君! またな!」

父と母に見送られ、私たちは婚約者のフリをしながら手を振った。

ああ、ここでもう演技は終了。幕は下りた。
肩を撫でおろすのと同時に、少し寂しくなった。

帰りの新幹線は息よりもずっと静かだった。お互いに言葉少なく、窓の外をそれぞれ見ている。
行きは「慰めるのが下手ですね」なんて、あんな状況でも笑えたのに今は一言も出てこない。

隣にいるのに遠いな……。

自分で突き放したくせに、その遠さが胸に刺さった。

これでいいの。これが正しいんだから。元に戻っただけでしょ、全て。

そう言い聞かせても、窓に映る自分の顔がどうにも情けなかった。

駅で別れる時、私は深々と頭を下げた。

「……今までありがとうございました。お疲れ様でした」
「……ああ」

短く答える綾斗さんに背を向ける。歩き出そうとした時、綾斗さんが私の腕を取った。

「茉白」
「……なんでしょうか」
「……いや、悪い。なんでもない……」

大きな手が私の腕から離れる。綾斗さんは軽く息を吐いてから顔をあげた。

「じゃあ、また会社で」
「はい」

今度は綾斗さんが歩き出す背中を見送って、私はしばらくその場から動けなかった。人の波が私の横を通り過ぎていく。

綾斗さんの手が名残惜しそうにしていたように見えたのは、私の心が見せた幻想だ。うん、きっとそう。
バカだな、茉白。自分で終わらせたくせに、何を突っ立ってるんだろう。

振り返る事のない背中はもう見えなかった。

やっと歩き出した私は、改札を抜けて電車に乗ってマンションに帰りつく。もうすっかり辺りは暗くなっていた。

電気をつけないまま、玄関に座り込む。暗い部屋に一人きり。子供の頃はそれが怖かった。世界で一人きりになってしまう気がして。

『じゃあ、今日は怖くないな。俺がいるから』

不意にあの夜の言葉がよみがえった。

グッと胸が詰まり、目の奥が熱くなる。
綾斗さん。少しだけ、時間をください。そうしたらあなたのことは諦めますから。今はまだ、あなたの余韻に浸らせて。

「……あと少しだけ」

誰にも聞こえない声で呟いた。




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