婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~

7.伝えたいことがあるんだ


この日、私はいつも通りデスクで仕事をしていた。

いつも通り、そう変わることなく。

二回目の帰省後から、綾斗さんと話すことはなかった。
廊下で会えば会釈をする。仕事のメールは必要最低限。以前もそうだった。だから今回も……、これからもこれが上司と部下として適切な距離なのである。

今までが異常だったのよ。これが普通なんだから。

軽いため息とともに、席を立って経理部へ行く。その帰りに後ろから真田さんに呼び止められた。

「桃瀬さん、少しお時間よろしいですか」
「あ……、はい」

真田さんと話すのは視察の件を聞いた日以来だ。

なんだか少し気まずい。今度は何の話だろう。また視察の件? 候補地の事? もう私には関係ないのだから、上層部で勝手に考えてほしいのだけれど……。

戸惑いながら真田さんに着いて人気のない場所へ行くと、振り返った真田さんに深々と頭を下げられた。

「えっ、え!?」

一体何事かと驚く私に、真田さんは申し訳なさそうに俯いた。

「先日、視察をお伝えした件。謝罪させてください。申し訳ありませんでした」
「いえ、真田さんは……」
「私が勝手にお伝えしたことだったんです」
「え……?」

どこかシュンとした様子の真田さんは、いつもの凛とした姿からは想像できないほど人間味があった。

「専務はたぶん、桃瀬さんに言うつもりはなかったのだと思います。ご実家に同行されたことと、視察の件は別件だからです。でも私がわざと意地悪な言い方をしてお伝えしました」

真田さんは小さく息を吸った。

「専務のことが好きでした。ずっと」
「……真田さん」
「長い間側にいて、いつの間にか専務としてではなく一人の男性としてお慕いしていました。でも、専務の目が私に向くことはありませんでした」

真田さんの声は静かで、でも少しだけ掠れていた。

「別にそれでも良かったんです。仕事としてお支え出来たらと……。でも、桃瀬さんを見ていたら……つい……」

真田さんの気持ちが痛いほどよくわかる。誰かを好きになったら誰にでも湧く感情だ。

「本当に申し訳ありませんでした」

再び深々と頭を下げる真田さんを見て胸が痛くなった。
この人も、ずっと誰かを想い続けてきた。叶うことはないとわかりながらも、それでもいいから力になりたいと必死だったのだろう。

「頭をあげてください。謝らなくていいとは言えないけど……、気持ちはわかります」
「桃瀬さん……」
「好きな人の隣に誰かがいるのを見て、つい何かしてしまうことって誰にでもあると思うので」

真田さんは少しだけ目を細めて、切なそうに呟いた。

「桃瀬さんは優しいんですね。もっと意地悪な人でいてくれたら私は……」
「優しいわけじゃないです。真田さんがちゃんと謝ってくれたから。ただ……」
「ただ?」
「私にはもう関係のないことです」

微笑みながらそう言うと、真田さんは少し悲しそうな表情をした。
なんだ、この人もいろんな顔ができるんだ。新しい発見に少しだけ嬉しくなる。

「関係なくないです」
「そうなんですかね……」
「私が言うのもなんですが、あなたには頑張ってほしい」

真剣な目で訴えてくる真田さんから目が逸らせなかった。

ずっと綾斗さんの隣にいて彼を見てきた人から応援されるなんて。やめて、せっかく諦めた心がまた揺らいでしまう。

曖昧に微笑んだ私に、真田さんはもう一度頭を下げた。

「専務をよろしくお願いします」

それだけ言って、真田さんは廊下を歩いていく。その背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。

頑張っていいのだろうか。せっかく距離を取ったのに? また近づいても、綾斗さんの本音が仕事としてだったら? 今までの優しさも、全て仕事につなげるためだったら? 怖い。

そう思いながらも、心のどこかでは綾斗さんがそんな人ではないって気が付いている。

どうしたいの、茉白。

自分から取ったこの距離を……、今さらどうやって詰めればいいのだろう。
あの日、綾斗さんはあっさりとこの距離を受け入れたではないか。

それが綾斗さんの答えなんだから。

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