追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第29話 私はもう逃げない

 王都の騎士団が来る――その報せは、隠そうとしても隠しきれるものではなかった。
 兵たちの足音がいつもより早く、空気が張り詰めている。
 私は中庭で洗濯物を干しながら、遠くの空を見上げた。

(……ついに、来たのね)

 心臓が静かに脈打つ。
 怖くないと言えば、嘘になる。
 王都に連れ戻されれば、何が待っているのか分からない。
 だけど、私は決めたのだ。

(もう、逃げない)

 あの日、王城を出る時。
 私はただ流されるまま、追い出されるまま、声も上げられずに去った。
 でも、今は違う。
 ここには守りたい場所があるし、大切だと思える人がいる。
 将軍様は、私を守ると言ってくれたけど、それに甘えてはいけない。

(……私も、何かの役に立たなければ)

 拳を握りしめながら、私は決意を胸にするのだった。

   ▽ ▽ ▽

 それから時間が過ぎ、夕方になった。
 炊事場の片隅でサーシャが野菜を刻んでいるのを見かけた。

「サーシャ」
「んー?セラ、ちょっと待ってね。今これ切っちゃうから」

 いつも通りの声なのだが、その何気なさが、胸に刺さる。

「あの……終わったら、少しだけ時間もらえる?」

 私の声が、思ったより硬かったのか、サーシャが顔を上げる。

「何改まって……ちょっと怖いんだけど」

 冗談めかして笑う。
 でも、その瞳は真剣だった。
 サーシャが野菜を切り終わったのを待った後、終わった彼女に声をかけ、そのまま屋敷の裏庭まで案内する。
 ここは人の少ない場所だからこそ選んだ場所だ。息を静かに吸って私は立ち止まった。
 風が、少し冷たい。

「サーシャ……私ね」

 喉が、乾く。
 逃げ道は、いくらでもあるが、私はもう選ばない。決めたのだから。

「私……セラって名前……本当は違うの」
「え?」

 一瞬驚いた顔をしていたサーシャだったが、彼女はそれ以上何も言わなかった。
 ただ、静かに聞いている。

「私の本当の名前は――セレスティア・アルセイン」

 その名を、はっきりと口にする。
 自分の名前を自分で名乗った――これを名乗ったのは将軍様の時以来だ。

「王都で……王太子の婚約者だったの」
「……うん」

 サーシャは、否定も肯定もせず、ただ頷く。

「でも……反逆の罪を着せられて、追放されたの」

 微かに私の指先が震えているのが分かる。
 それでも言わなければならない。

「私は何もしていない。でも、誰も信じてくれなかった」

 王城の大広間。
 冷たい視線。
 レオンハルト様の背。
 全部、鮮明に思い出す。

「だから名前を隠したのかもしれない……ここでも追い出されるのが怖くて、あまりにも、この場所の居心地が良かったの」

 声が少し掠れる。

「でも、王都の騎士団が来るって聞いて……」

 顔を上げる。

「――私は、逃げない。もう……逃げたくない」

 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
 胸の奥が震えている、足先まで冷えている。
 それでも、言葉だけは揺れなかった。

「もし捕らえに来るなら、私は……自分の名で向き合う」

 【セラ】ではなく、【セレスティア・アルセイン】として。その名を背負う覚悟を、ようやく持てた気がした。
 震えているのは恐怖だけじゃない。
 悔しさも、怒りも、そして――守りたいという想いも。

「それでも……私は、この地で生きていきたい」

 胸にそっと手を当てる。
 鼓動が速い。でも、それは怯えだけの鼓動ではない。

「ここで、働いて、笑って……誰かの役に立ちながら、生きたいの」

 王都では叶わなかった願い。
 役目ではなく。
 義務でもなく。
 ただ、自分の意思で。

 私の言葉が終わると同時に沈黙が落ちる。
 風が、庭の木々を揺らしながら葉が擦れ合う音が小さく響く。
 サーシャは何も言わず、じっと私を見つめていた。その視線は厳しくもなく、憐れみでもなく――ただ、真っ直ぐだった。
 やがて、彼女は小さく息を吐く。

「……あのさ」
「うん?」
「それ、将軍様には言ったの?」

 問いかけは、あまりにも普通だった。

「うん、全部」

 正体も、過去も、恐怖も。

「そっか」

 サーシャはほんの少しだけ笑う。

「正直、なんとなくそうじゃないかなって思ってた」
「え?」

 思わず間の抜けた声が出る。

「だってさ」

 彼女は肩をすくめた。

「立ち居振る舞いがさ、どう見てもただの平民、っていう感じじゃないもん。鍋洗ってても姿勢いいし、皿渡すときの目線もきちんとしてるし」

 くすっと笑う。

「最初から怪しかったよ?」
「そ……そんな」

 思わず顔を覆いたくなる。
 隠していたつもりだったのに。

「でもね」

 サーシャが一歩、私に近づき、距離が縮まる。

「うん、セラはセラだよ」

 その一言を聞いた瞬間、胸の奥がじわりと温かくなる。
 名前でも、家でもない。

「セレスティアでもいいけどさ」

 彼女は続ける。

「私にとっては、一緒に鍋洗って、水ぶちまけて、失敗して、笑ってるセラだから」

 それを聞いて、思い出してしまう。
 焦がしたスープ。
 割ってしまった皿。
 二人で慌てて隠したあの日。
 視界が、滲む。

「過去が何でも、私は気にしない」

 当たり前のように言う。

「だって、今の【あなた(セラ)】を知ってるのは、私たちだもん」

 その言葉に、堰が切れた。
 無意識に涙が、ぽろりと零れ落ちる。

「……ありがとう、サーシャ」

 声が震える。

「泣かないでよー目、腫れるよ?」

 軽く肘でつつかれる。
 その何気なさが、優しくて。
 余計に涙が溢れてしまう。

(私は、もう一人じゃない)

 王都では、誰も信じてくれなかった。
 正しさも、努力も、すべて切り捨てられた。
 でもここには、名前を知らなくても、肩書きを持たなくても、【今の私(セラ)】を見てくれる人がいる。

(私は逃げない)

 誰かの影に隠れるのではなく、自分の名前で立つ。
 セレスティアとしても、セラとしても――この地で、生きると決めたのだから。
 遠く、見張り台の鐘が鳴る。
 乾いた音が空気を震わせる。
 嵐は、もうすぐ、王都の影が迫っている。

 それでも――私は涙を拭い、顔を上げる。

 震えはまだ残っている。
 でも、足は前を向いている。

 ――私は、もう逃げない。
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