追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第33話 政務?興味ないわ【愛人視点】


 鏡の中の私は、完璧だった。
 天井まで届く大鏡に映る、淡い金糸を織り込んだ新作のドレス。胸元には南方産の真珠を三連、腰には細工の細やかな銀鎖。裾は波打つように広がり、光を受けるたびに柔らかく揺れる。

「……違うわね」

 私は小さく首を傾げた。
 背後で侍女たちが一斉に身を強張らせる気配がする。

「そのリボン、色が沈んでいるわ。もっと明るい金にしてよ、そうね……王家の紋章に負けないくらい華やかな色」
「かしこまりました、エリス様。ただ、既に仕立ては——」
「――聞こえなかった?」

 振り返ると、侍女の顔が青ざめる。

「既に仕立ては、何?」
「……い、いえ、すぐにお直しを手配いたします」

 当然でしょう、と私は微笑む。
 王太子殿下の最も近い【女性(エリス)】であるこの私に、妥協などあってはならない。
 近頃では、宮廷でも皆がそう囁いている。

 ——次期王妃はエリス様だ。

 その言葉は甘く、心地よい。
 あの堅物(セレスティア)が消えてから、空気はずいぶん軽くなった。
 回廊で小難しい話をする女もいない。政務室で眉間に皺を寄せる女もいない。
 思い出すだけで、少し鼻で笑ってしまう。

「本当に可哀想だったわよねぇ」

 私はドレスの裾を持ち上げ、くるりと回る。
 周囲には、取り巻きの若い貴族令嬢たち。彼女たちは私の一挙手一投足に目を輝かせている。

「殿下の隣に立つのに、あんな真面目な顔ばかりして」
「ええ、本当に。社交界でも浮いていらしたわ」
「堅物すぎるのよ。だから嫌われたの」

 私がそう言うと、彼女たちはくすくすと笑った。
 そう、嫌われたのだ。
 あの女は、自分の正しさばかり押しつけて、空気も読まず、楽しい会話もできなかった。
 殿下だって、あんな女より、私の方が楽しかったに決まっている。

(そうよ……そうに決まっている)
「――エリス様」

 ドレスを楽しそうに見ていると、別の侍女が恐る恐る近づいてくる。

「王太子殿下より、午後の政務会議へのご出席を——」
「は?」

 思わず声が低くなった。

「会議?」
「はい……税制改正案について、殿下がぜひ同席を、と」

 私は扇子をぱたんと閉じた。

「意味がわからないわ」

 そのまま、周囲が静まり返る。

「私は【王妃】になるのよ?」

 はっきりと言い切る。

「女が政務なんて、やるものじゃないわ」

 侍女が目を伏せる。取り巻きが小さく息を呑む。

「だってそうでしょう?国のことなんて、男が決めればいいの。私は隣で美しく微笑んでいれば十分」

 それが役目だ。
 それが正しい。
 あの女みたいに、しゃしゃり出て書類を漁るなんて、みっともない。

「でも……以前は、セレスティア様も——」

 ぽつりと、誰かが言った。
 その瞬間、頭の奥がかっと熱くなる。

「誰がその名を出していいと言ったの?」

 瞬間、簡単に空気が凍る。
 私は一歩踏み出し、その侍女の前に立った。

「ここに、あの女はいないのよ?」
「も、申し訳ございません……!」
「謝って済む話?」

 扇子で侍女の顎を持ち上げる。

「私はね、殿下に選ばれたの。追い出された女とは違うのよ」

 そのまま、扇子を放る。
 床に当たって、乾いた音が響いた。

「気分が悪いわ。もう一着、持ってきて」
「で、ですが本日のご予算が——」
「予算?」

 思わず笑ってしまう。

「王家よ? 予算なんて、後でどうとでもなるでしょう」

 国庫がどうとか、税がどうとか、そんなものは私の関知するところではない。
 殿下がどうにかする。
 王がどうにかする。
 それが王族でしょう?
 宝石箱の蓋をゆっくりと開く。

 柔らかな絹布の上に、赤く深い光を宿したルビーの首飾りが横たわっていた。陽光を受け、宝石は血のように艶やかに輝く。
 私はそれを指先で持ち上げ、光にかざす。
 けれど——思わずぽつりと零す。

「……少し、色が弱いわね」

 隣で控えていた侍女が、びくりと肩を震わせた。

「南方の最高級品でございますが……希少な深紅と伺っております」
「【伺っております】?」

 私は視線だけで侍女を見下ろす。

「あなたの目で確かめたわけではないの?」

 侍女の唇がわななき、言葉を失う。
 私は小さく溜め息をついた。どうして、いちいち説明しなければならないのだろう。

「もっと濃い色味のものを取り寄せて。三連にして」
「……三連、でございますか?」

 その言葉に、私はゆっくりと首を傾ける。

「聞き返すの?」

 空気が一瞬で冷える。
 侍女の顔がみるみる蒼白になるのが分かる。

「も、申し訳ございません」

 私は宝石を乱暴に箱へ戻した。乾いた音が、やけに大きく響いた。

「はあ……どうして私がいちいち説明しなきゃならないの。頭が悪いのかしら」

 小さな嗚咽が聞こえる。

(はぁ……面倒くさいなぁ……)

 回廊の向こうでは、官僚たちが慌ただしく行き交っている。書類を抱え、焦った足取りで走る者もいる。
 最近、レオンハルト様の部屋、空気が重いと聞いた。
 書類が滞っているとか、貴族院が荒れているとか。
 物価がどうとか、税がどうとか。
 けれど——私は知ったことではない。
 殿下は少し疲れているようだった。ここ数日は笑顔も少なく、眉間に皺を寄せることが増えた。
 けれどそれは、国のせいだ、あの女のせいだ。面倒な案件を残して、勝手に消えたから。

 ――私が悪いわけではない。

「ねえ」

 取り巻きの一人に声をかける。

「殿下、最近少し苛立っていらっしゃるの」
「まあ……お忙しいのでしょうか」
「だから私が癒やして差し上げないと」

 にっこりと微笑む。
 それでいいのだ。
 私は重たい書類を捌くためにいるのではない。

「国のことなんて、考えなくていいのよ。殿下は王になる方なんだから」

 王は決断する存在。
 細かな数字や民の愚痴に振り回される必要はない。
 そういう煩わしいことは、臣下がやればいい。
 そのために官僚がいるのだから。
 私は甘く囁き、優しく触れ、余計な悩みを忘れさせる。
 それが、女の賢さでしょう?
 私は、とても賢い女だ。

「エリス様……その、財務卿から宝飾費についてご相談が」

 怯えるようにしながら、また別の侍女が言った。
 私は、ゆっくりと振り返る。

「財務卿?」
「はい……近頃、支出が増えておりまして……」

 瞬間、胸の奥がざらりとした。
 次の瞬間、私は手にしていた手袋を床へ叩きつけていた。

「うるさい!!」

 声が室内に反響する。

「誰が私に金の話をしていいと言ったの?」

 侍女がその場に膝をつく。

「申し訳ございません……!」
「王妃になる私に、節約しろと?」

 胸がどくどくと脈打つ。
 怒りというより、苛立ち。
 なぜこんな小さなことで、私が煩わされなければならないのか。
 王妃になる女が、金勘定をする姿なんて滑稽でしょう?
 それは臣下の仕事。私は【象徴】になるのだから。

「……もういいわ」

 大きく息を吐き、椅子に腰を下ろす。

「会議は断って。頭が痛いって言っておいて」
「しかし殿下が——」
「聞こえなかった?」

 低く言うと、侍女は震えながら頭を下げた。

「かしこまりました……」

 ゆっくりと扉が閉まり、静寂が戻る。
 私は鏡の中の自分を見つめる。
 完璧、美しい、選ばれた女。豪奢な髪飾りに細い首筋、そして紅を引いた唇。
 ……なのに。なぜか胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
 回廊の向こうから、怒号のような声が聞こえた気がする。政務官と誰かが言い争っている。
 「税」「不足」「責任」という単語が断片的に耳に入る。
 私は扇子を広げ、涼しい顔で言う。

「……騒がしいわね」

 そして、肩をすくめる。

「政務? 興味ないわ」

 私は王妃になる。
 それだけは、揺るがない。
 国がどうなろうと、私の価値は変わらない。

 ——そうよね?

 誰にも答えを求めず、私は再び宝石箱を開いた。
 ルビーは、さきほどよりも少しだけ暗く見えてきたのは間違いないだろうと笑った。
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