追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路
第34話 物価高と不満【ある市民視点】
朝の市場は、本来なら一日の始まりを告げる場所だ。
威勢のいい呼び声、魚をさばく音、焼きたてのパンの匂い。
それらが混じり合い、王都がまだ生きていると実感させてくれる。
——だが、その日は違った。
重い、空気が妙に重い。
俺は肩に担いだ荷袋を地面に下ろしながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……また上がってやがる」
小麦袋の札を見て、思わず舌打ちが漏れる。
以前の倍。いや、倍どころじゃない。三ヶ月前の値を思い出せば、もう手が届かない場所まで行ってしまっている。
隣では、見覚えのある女が籠を握りしめて立ち尽くしていた。細い指が、わずかな銅貨を何度も数え直している。
「……高すぎるわ、これ」
絞り出すような声だった。
店主が肩をすくめる。
「悪いなぁ……昨日また上がったんだよ」
その顔は、売り手の顔じゃない。
疲れ切った、追い詰められた男の顔だ。
「俺だって好きでこんな値を付けてるわけじゃないんだ。問屋が上げた。運搬費も倉庫代も、全部だ」
「でも、これじゃあ……子どもに食べさせる分が……」
静かに女の声が震える。
すると後ろから、小さな声がした。
「お母さん……お腹すいたぁ」
振り返ると、痩せた少年が母親の袖を握っている。
その頬はこけ、目ばかりが大きく見えた。
……くそ。
俺は無意識に拳を握る。
小麦だけじゃない。
油も、薪も、塩も。
昨日、薪屋で値を聞いたとき、思わず笑っちまった。笑うしかなかった。
冬はまだ先だが、今のうちに買っておかなきゃ凍える。だが買えば今月がもたない。
「……去年は、こんな事なかったよな」
俺の口から自然と漏れる。
近くの男が、同意するように頷いた。
「ああ。ちゃんと上から通達が来てたな……値段を勝手に吊り上げるなってな」
そうだ、確かにあった。
定期的に倉庫の在庫が放出されて、市場に流れていた。貯め込んで値を釣り上げようとした商人は、罰せられたと聞いた。
「あの、王太子の婚約者だった方だよな?」
誰かが小さく言った。
俺は視線を上げる。
「セレスティア様だろ?」
その名が出た瞬間、空気が微妙に変わった。
誰も大声では言わない。だが、何人かが確かに頷いた。
「あの方がいた時は倉庫の在庫も定期的に放出されてた。帳簿も監査されたって話だ」
「だけど今は好き放題だ……上は何やってる?」
その言葉と同時に怒りが混じる。
俺も同じ気持ちだった。
王太子が婚約破棄したとか、反逆だとか。そんな話は酒場で散々聞いた。
だが——俺たちの暮らしは、あの女がいなくなってから、確実に悪くなっている。
けど、その言葉を信じてしまった俺も居たし、周りの人間たちも疑う事はなく、追放された時にセレスティア様を送り出した。
止める人間たちなどいなかった。
すると、市場の奥で怒号が上がった。
「詐欺だろうが!」
「昨日より高いじゃねえか!」
男たちが露店を囲み、店主が必死に弁明している。
「俺のせいじゃねえ!問屋が——!」
押し合いになると木箱が倒れ、小麦が地面に散らばった。
子どもが泣き、女が叫ぶ。
誰かが店主の胸倉を掴む。
俺は思わず一歩踏み出しかけて、止まった。
(やめろ……ここで揉めても、何も変わらねぇ)
だが、怒りはもう市場全体に広がっている。
みんな、限界だ。
昨日までは「困ったな」で済んでいた。
だが、今日は違う。
明日は、どうなる?
このまま上がり続ければ、盗みが出る。
盗みが出れば、捕縛が出る。
捕縛が出れば、憎しみが生まれる。
俺は思わず空を見上げてしまった。
ふと、王城の塔が遠くに見える。
あそこでは、何が話し合われているんだ?
宝石か、舞踏会か、それとも——何もしていないのか。
「……あの方がいればな」
誰かが、ぽつりと呟き、それを否定する者はいなかった。
俺も、口には出さなかったが同じ事を思っていた。
セレスティア様がいた頃、暮らしは決して楽じゃなかった。
だが、少なくとも、見捨てられている感じはなかった。
今は違う――俺たちはただの数字だ。税の対象で、統計の一部だ。
市場の騒ぎは、兵士が駆けつけることでようやく収まった。だが、収まったのは表面だけだ。
地面に散らばった麦粒を見つめながら、俺は確信していた。
——王都は、確実に荒れ始めている。
そしてそれは、まだ始まりにすぎないのだと。
威勢のいい呼び声、魚をさばく音、焼きたてのパンの匂い。
それらが混じり合い、王都がまだ生きていると実感させてくれる。
——だが、その日は違った。
重い、空気が妙に重い。
俺は肩に担いだ荷袋を地面に下ろしながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……また上がってやがる」
小麦袋の札を見て、思わず舌打ちが漏れる。
以前の倍。いや、倍どころじゃない。三ヶ月前の値を思い出せば、もう手が届かない場所まで行ってしまっている。
隣では、見覚えのある女が籠を握りしめて立ち尽くしていた。細い指が、わずかな銅貨を何度も数え直している。
「……高すぎるわ、これ」
絞り出すような声だった。
店主が肩をすくめる。
「悪いなぁ……昨日また上がったんだよ」
その顔は、売り手の顔じゃない。
疲れ切った、追い詰められた男の顔だ。
「俺だって好きでこんな値を付けてるわけじゃないんだ。問屋が上げた。運搬費も倉庫代も、全部だ」
「でも、これじゃあ……子どもに食べさせる分が……」
静かに女の声が震える。
すると後ろから、小さな声がした。
「お母さん……お腹すいたぁ」
振り返ると、痩せた少年が母親の袖を握っている。
その頬はこけ、目ばかりが大きく見えた。
……くそ。
俺は無意識に拳を握る。
小麦だけじゃない。
油も、薪も、塩も。
昨日、薪屋で値を聞いたとき、思わず笑っちまった。笑うしかなかった。
冬はまだ先だが、今のうちに買っておかなきゃ凍える。だが買えば今月がもたない。
「……去年は、こんな事なかったよな」
俺の口から自然と漏れる。
近くの男が、同意するように頷いた。
「ああ。ちゃんと上から通達が来てたな……値段を勝手に吊り上げるなってな」
そうだ、確かにあった。
定期的に倉庫の在庫が放出されて、市場に流れていた。貯め込んで値を釣り上げようとした商人は、罰せられたと聞いた。
「あの、王太子の婚約者だった方だよな?」
誰かが小さく言った。
俺は視線を上げる。
「セレスティア様だろ?」
その名が出た瞬間、空気が微妙に変わった。
誰も大声では言わない。だが、何人かが確かに頷いた。
「あの方がいた時は倉庫の在庫も定期的に放出されてた。帳簿も監査されたって話だ」
「だけど今は好き放題だ……上は何やってる?」
その言葉と同時に怒りが混じる。
俺も同じ気持ちだった。
王太子が婚約破棄したとか、反逆だとか。そんな話は酒場で散々聞いた。
だが——俺たちの暮らしは、あの女がいなくなってから、確実に悪くなっている。
けど、その言葉を信じてしまった俺も居たし、周りの人間たちも疑う事はなく、追放された時にセレスティア様を送り出した。
止める人間たちなどいなかった。
すると、市場の奥で怒号が上がった。
「詐欺だろうが!」
「昨日より高いじゃねえか!」
男たちが露店を囲み、店主が必死に弁明している。
「俺のせいじゃねえ!問屋が——!」
押し合いになると木箱が倒れ、小麦が地面に散らばった。
子どもが泣き、女が叫ぶ。
誰かが店主の胸倉を掴む。
俺は思わず一歩踏み出しかけて、止まった。
(やめろ……ここで揉めても、何も変わらねぇ)
だが、怒りはもう市場全体に広がっている。
みんな、限界だ。
昨日までは「困ったな」で済んでいた。
だが、今日は違う。
明日は、どうなる?
このまま上がり続ければ、盗みが出る。
盗みが出れば、捕縛が出る。
捕縛が出れば、憎しみが生まれる。
俺は思わず空を見上げてしまった。
ふと、王城の塔が遠くに見える。
あそこでは、何が話し合われているんだ?
宝石か、舞踏会か、それとも——何もしていないのか。
「……あの方がいればな」
誰かが、ぽつりと呟き、それを否定する者はいなかった。
俺も、口には出さなかったが同じ事を思っていた。
セレスティア様がいた頃、暮らしは決して楽じゃなかった。
だが、少なくとも、見捨てられている感じはなかった。
今は違う――俺たちはただの数字だ。税の対象で、統計の一部だ。
市場の騒ぎは、兵士が駆けつけることでようやく収まった。だが、収まったのは表面だけだ。
地面に散らばった麦粒を見つめながら、俺は確信していた。
——王都は、確実に荒れ始めている。
そしてそれは、まだ始まりにすぎないのだと。