追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第37話 命令【王妃視点】

 夜は静かだ――だが王城の夜というものは、決して安らぎを与える静寂ではない。
 灯りを落とした回廊の奥で、囁きは常に交わされ、足音は音を殺し、誰かの思惑が密かに動いている。
 玉座に近い者ほど、その静けさの裏にある濁流を知っている。
 私は窓辺に立ち、王都の灯を見下ろしながら指先でゆっくりと杯の縁をなぞった。揺れる灯りはまるで、この国そのもののようだ。安定しているようで、どこか頼りない。

 表向き、王命は既に下っている。

 セレスティア・アルセインの所在確認、そして身柄の確保。
 しかしそれはあくまで【形式】だ。
 形式だけでは足りぬ。王都の空気は不穏で、王太子派と私の側近たちは水面下で牽制し合っている。
 息子はまだ、あの女(セレスティア)に未練を抱いている節がある。だからこそ私は別の手を打つ必要があった。

「……入れ」

 低く命じると【影】の者が一人、音もなく膝をついた。
 黒衣に身を包み、顔の半分を覆うその姿はまさに王家の裏側を担う存在。諜報と工作を司る者たちの一部だ。
 私は彼らを信用しているわけではない。ただ、利用しているだけ。

「――辺境の動きは」
「監視は続いております。カイ・ヴァレンティアは警戒を強めておりますが、まだ直接の衝突には至っておりません」

 カイーーの男の名を聞くだけで、胸の奥が僅かにざらつく。
 武に長け、民に慕われ、そして余計な忠義を持たぬ男――あのような男は扱いづらい。
 だが今はそれよりも、優先すべきはあの女だ。

「慎重に行動を起こせ」

 ゆっくりと言葉を選ぶ。

「公には【再審理】という形を取る……だが乱暴な真似は許さぬ。民の目がある」

 影の者は静かに頭を下げる。

「……承知」

 だが、私は続ける。

「ただし、確実にだ。逃すな、二度と」

 あの女(セレスティア)は、存在そのものが火種だ。
 王太子派にとっては【救い】に見えるかもしれぬが、私にとっては王家の統制を乱す芽でしかない。戻れば、息子の心は揺れる。貴族も動き、民も期待する。
 そうなれば王妃である私の威信はどうなる?そして、王家はどうなる?
 私は国のために排したのだ――今さら、その判断を否定させるわけにはいかない。

「王太子殿下には?」

 影の者が問う。

「伝える必要はない」

 冷たく言い放ちながら、息子のレオンハルトの事を考える。
 レオンハルトは甘い、そして情に流される。
 あの子はまだ、王ではない。王になる器を持たせるのは母である私の役目だ。

 影の者が去った後、私は椅子に深く腰を下ろした。
 胸の奥に渦巻くものは、不安か、それとも焦りか。
 否、違う――これは責任だ。
 王家を守る責任。例え誰に恨まれようと、私は正しい道を選ばねばならぬ。
 だが、城内の空気は一枚岩ではない。
 王太子派の若い貴族たちは、セレスティアの名を口にし始めている。あの女がいれば、と。愚かなことだ。
 理想に縋る暇があるなら、己で立てと言いたい。
 さらに厄介なのは、騎士団だ。
 王命を執行する彼らは、形式上は王家に忠実だが、内実は派閥ごとに色が違う。
 私に近い者、王太子に忠を誓う者、そして――己の野心に従う者。
 その中の一人が、今夜の会合に姿を見せた。
 名はラウル・グレイフォードーー若いが、戦功を重ね、急速に頭角を現している男であり鋭い目をしている。あの目は忠誠よりも、機会を探している目だ。

「王妃殿下」

 膝をつきながらも、視線はわずかに上を向く。
 測っている。私の言葉の裏を。

「辺境への派遣について、詳細な指示を賜りたく」
「穏便に運べ。血を流す事なく、そして騒ぎを起こすな」

 私ははっきりと言う。

「目的は確保だ。処断ではない」

 一瞬、ラウルの口元がわずかに動いた。
 笑ったのか、それとも嗤ったのか。判別がつかない。

「……承知いたしました」

 だが、その声音にはどこか含みがあったのを私は見逃さなかった。
 あの男は、命令を額面通りに受け取る男ではない。己の功績を積む機会と見れば、拡大解釈も辞さぬだろう。
 危険だ――だが、利用価値もある。
 野心家は扱いを誤れば牙を剥くが、正しく導けば鋭い刃となる。

 問題は――誰の刃になるかだ。

 王太子派は、セレスティアを【救出】の象徴に仕立てるかもしれぬ。
 私の側は、【秩序の回復】として利用する。
 だがラウルのような男は、どちらにも属さぬ。混乱こそが出世の階段になると知っている。

(……目を光らせておかねばならぬな)

 私は静かに息を吐く。
 穏便に、確実に。
 そう命じたはずなのだが、命令は人を介すごとに形を変える。
 影が動き、騎士団が動き、やがて辺境へと届く。その過程で、どれだけの思惑が混じるのか。
 窓の外に視線を向けると王都の灯が揺れている。
 あの女を連れ戻せば、何かが変わるかもしれぬ――だが同時に、何かが壊れる可能性もある。
 私はその均衡を、自ら崩そうとしているのだろうか。

「……それでも」

 低く呟く。

「王家を守るのは、私だ」

 正しさとは何か。時にそれは、後になってしか分からぬものだ。だが今は、決断するしかない。
 セレスティアを穏便に、そして慎重に確保せよ――それが表の命。
 だが裏では、別の刃が研がれている。
 ラウルのような男が、己の名を歴史に刻もうとするかもしれぬ。
 その時、どの血が流れるのか。
 私は知らない――だが、覚悟はしている。王妃とは、そういう立場なのだから。
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