追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第36話 私は未来の王妃なのよ!【愛人視点】

 鏡の前に立つたびに思う。やっぱり私は特別だ、と。
 重たいビロードのカーテン越しに差し込む午後の光が、山のように積まれたドレスの上で揺れている。淡い水色の絹、金糸で縁取られた深紅、真珠を縫い込んだ純白――どれも最高級の品だ。
 けれど、今日はどれも気に入らない。
 胸元の開きが少し浅い、裾の広がりが足りない、刺繍の意匠が古い。目につく欠点があるたびに胸の奥がざらりと波立つ。
 仕立て屋と侍女たちは、私の一挙手一投足にびくびくと視線を泳がせている。その様子が、なぜだか癇に障った。

「違うわ、こんなのじゃない……もっと華やかで、もっと――私に相応しいものを持ってきなさい」

 声を荒げると、針を持つ手が震え、布が床に落ちる。
 微かな布の擦れる音が、やけに耳につく。

「も、申し訳ございません、エリス様……」
「謝る暇があるなら動きなさい!」

 思わず手元の扇を投げつける。
 ぱしり、と乾いた音――侍女の肩に当たったが、誰も何も言わない。言えないのだ。私は未来の王妃なのだから。
 そう、そうよ。王妃になるのは私。あの堅苦しい女じゃない。
 教育係が遠慮がちに一歩前へ出る。白髪混じりの老女――あの王妃様に仕えてきたとかで、いちいち礼儀や作法を口うるさく説くのが気に入らない。

「エリス様、本日は午後に政務の会議が……」
「また?」

 心底うんざりして、椅子に深く腰掛ける。
 政務だの、税だの、地方の収穫高だの、そんなものを聞いて何になるのかしら。私は王妃になるのよ。王妃は美しくあればいいの。王の隣で微笑んでいれば、それで十分じゃない。

「未来の王妃なのよ? どうして私があんな堅苦しい話を聞かなきゃならないの」

 教育係は眉をひそめる。

「王妃とは国母にございます。政務への理解は――」
「理解? そんなもの、男たちがやればいいでしょう」

 笑い声がこぼれる。取り巻きの若い令嬢たちも、くすくすと同調する。

「女が政務なんて、やるものじゃないわ。会議なんて退屈で仕方ないもの」

 その言葉に、教育係の顔色が変わる。だが、構わない。私の方が立場は上だ。もうすぐ正式に王妃になるのだから。
 レオンハルト様だって私を選んだんだ。あの女を捨てて、私を。

 ――セレスティア。

 名前を思い浮かべるだけで、胸の奥がちりりと焼ける。
 あの冷たい目――何でも分かっているような顔。政務を淡々とこなす姿。堅物で、つまらなくて、可愛げがなかった。
 だから捨てられたのよ。そうでしょう? 
 そうよ、私の方が愛されているの。

「会議には出ません」

 きっぱりと言い放つ。

「私は将来、【王妃】になるの。雑務はあなたたちが片付けなさいよ!」

 教育係がため息のようなモノを吐いた後、静かに頭を下げる。その姿が何故か腹立たしい。
 反論しなさいよ。何か言いなさいよ。そうすれば怒鳴れるのに――私は立ち上がり、机の上にあった宝石箱を開ける。
 翡翠、ルビー、サファイア。どれも煌めいているがどこか足りない。
 もっと欲しい――もっと豪華で、もっと眩しいものが。

「この宝石輝きが弱いわ。新しいものを注文して」
「しかし、国庫の負担が……」
「は?」

 低い声が出る。誰がそんなことを言ったのかと振り返ると、若い侍女が青ざめている。

「国庫? 何を言っているの? 未来の王妃に相応しい装いは、国の威信よ。私が美しくあることは、国のためでしょう?」

 自分で言いながら、胸が高鳴る。
 そうだ、私は象徴だ。
 だから贅沢は正当化される。私が輝けば、国も輝く。単純な理屈。けれど、それでいいじゃない。
 若い侍女はそれ以上何も言えずに下がる。
 ふと、周囲の視線が、どこか冷たく感じるけど、私は気にしない。嫉妬よ、きっと。私が選ばれたから。

   ▽ ▽ ▽

 その日の夕刻、王妃の居室前を通りかかった時だった。扉の向こうから、鋭い声が響く。

「……これでは王家が笑われる」

 ぴたりと足が止まる。耳を澄ませる。

「エリスを教育しろと言ったはずだぞ?あの振る舞いでは王族の威厳が保てぬ」

 胸の奥がひくりと引きつる。教育?私を?
 侍女が小声で何か答える。

「……では、やはり、あの娘を……」

 王妃の声が、低く落ちる。

「セレスティアを連れてきなさい。何をしてでも」

 世界が、ぐらりと揺れた気がした。
 セレスティア? 
 どうして今さら。追放された女よ、捨てられた女――私がいるのに、どうして。
 爪が掌に食い込む。
 痛みがあるのに、頭の中が真っ白になる。

(ふざけないで……)

 あの女を、連れ戻す? 
 何のために? 
 もしかして私の代わり? 
 違う、違う、そんなはずない。私は未来の王妃。選ばれたのは私。私なのに。
 胸の奥から、どろりとした黒い感情が溢れ出す。
 嫉妬、恐怖、怒り、そして――焦り。もし、もしも、あの女が戻ってきたら。レオンハルト様はまたあの冷たい女を見るの? 
 私よりも役に立つと言って?
 息が荒くなる。頭の中でセレスティアの姿が何度も浮かぶ。
 淡々と政務をこなす姿。王妃と並んで立つ姿。あの余裕の微笑。

「……絶対に、嫌」

 小さく呟く。誰にも聞こえない声で。
 連れてこい、ですって? 
 何をしてでも? 
 それなら、こちらも何をしてでも、あの女が戻る前に私が完全に王妃になればいい。
 既成事実を作ればいいんだ。
 レオンハルト様を、もっと縛ればいい。愛でも、涙でも、何でも使って。
 私は鏡の前に立つ。そこには、完璧に整えられた顔が映っている。
 けれど、その瞳の奥に見慣れない光が揺れていた。焦りと、執着と、狂気に近い何か。

「未来の王妃なのよ……」

 自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。

「私が、王妃になるの」

 そう、誰にも奪わせない。あの女にも、王妃にも。王都がどうなろうと関係ない。
 私の座だけは、絶対に。
 胸の奥で、静かに何かが壊れる音がしたけれど私はそれに気づかないフリをしたんだ。
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