追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路
第39話 近づく影
夜の空気は澄んでいるはずなのに、どこか張り詰めているように感じるのはきっと私の気のせいではない。
砦の見張り台に灯る松明の火が、いつもより多い。巡回の足音も増えた。
騎士団は一度退いていたけれど、気配は消えていない。
森の奥、街道の向こうのどこかからこちらを見ている視線がある。姿は見えないのに、確かに【いる】と分かる。
そんな夜が、ここ数日続いていた。
中庭に干していた布を取り込むフリをしながら、私は空を見上げる。星は静かに瞬いている。
あの光は、王都の空から見ても同じように見えるのだろうか?
あの城の中で、今も誰かが私の名を口にしているのだろうか?
考えまいとするほど、胸の奥がざわつく。
背後で足音が止まった。
「セラ、冷えるぞ」
低い声、振り向かなくても分かる。
「あ……将軍様」
カイは外套を肩に掛け、夜気を切るように歩み寄ってきた。その顔はいつも通り無骨で、無駄な感情を見せない。
だが、視線は鋭い。
周囲を警戒するように、自然と手が剣の柄に近い位置にある。
「巡回が増えましたね」
「ああ」
短い返答――だが、その一言に含まれる重みは軽くない。
「王都の連中は一度退いたが、完全に引いたわけじゃねぇ……監視は増えてる」
やはり、そうなのだ。
私が感じていたものは、ただの不安ではなかった。
「……私のせい、ですよね」
小さく呟くと、カイの視線がこちらに向く。
「それは違うぞセラ」
即答だった。
「王都が腐ってるのは元々だ」
その言い方が、少しだけ可笑しくて、私はわずかに笑う。
「腐っている、ですか」
「ああ。内側からな」
将軍様は笑いながら空を見上げる。
星明りが、その横顔を淡く照らす。
強く、揺らがない輪郭――けれどその奥にどこか遠いものを見る目がある。
「……密書を出した」
ふいに、彼が言った。
「隣国へ」
胸が小さく跳ねる。
「え、隣国……ですか?」
「ああ。昔の知り合いに、だ……まぁ、確か今は王様やっているらしい」
「え、あ……お、おうさま?」
さらりと言うが、その内容は軽くない。
私は驚いてしまったが、隣にいる将軍様はまるで当たり前のように言っていた。
将軍である彼が、隣国の王と繋がりを持っているという事実――それは、単なる私情では済まされない。
「助けを求めたのですか?」
「違う」
将軍様は首を振る。
「確認だ……王都が崩れた場合、どう動くか」
静かな声だった。
だが、その言葉の意味は重い。王都が崩れる可能性を彼は既に想定している。
「……もし」
私は、ゆっくりと口を開く。
「もし、王都が滅びたら?」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
あの城、あの石畳、あの広間。私が育ち、捨てられた場所。
それが【滅びる】という言葉で語られる。
将軍様は少しだけ沈黙し、やがて答えた。
「……俺は民を守る」
短い言葉――だが迷いはない。
「王家は?」
問うと、彼の視線がわずかに鋭くなる。
「守れねぇ王家なら、いらねぇ」
そのように言いながら、将軍様は静かに笑った。
風が、二人の間を通り抜け――冷たいのに、不思議と胸の奥は温かい。
彼は王になる気はないと言う。だが、その言葉には確かな【責任】と言うモノがある。
王都では、血と格式が重んじられる。
しかしここでは、守れるかどうかがすべてだ。
「将軍様は……」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「怖くはないのですか?」
「何がだ」
「王都と、隣国と、全部を敵に回すかもしれない事が」
私の問いに将軍様は、わずかに口元を歪めた。
「怖ぇに決まってる」
意外な答えに、目を見開く。
「だがな……怖ぇから、備える。怖ぇから、動く」
その理屈は単純で、強い。
「――お前は?」
「え?」
「お前はどうなんだ?」
不意に将軍様にそのように問われ、私は言葉に詰まる。
「私は……」
本当は、怖い。
王都に戻ることも、戻らないことも。
ここを巻き込むことも、守られることも。
「怖いです」
正直に言う。
「けれど、逃げたくはありません」
私の言葉に対し、将軍様の視線が、柔らかくなったように見えた。
「そうか」
それだけなのに、胸の奥が静かに震える。
沈黙が静かに落ちる。
夜の虫の音が遠くで響き、私たちは並んで立ちながら同じ空を見上げている。距離は、ほんの半歩。
手を伸ばせば触れられるほど近い。だが、触れない。触れてしまえば、何かが決定的に変わってしまいそうで。
「セラ」
低く呼ばれる。
「はい」
「……もし、何かあれば」
彼は言葉を切り、私を見る。
「必ず助ける」
その瞳は、真剣だ。
まるで、何かの誓いのように。
「将軍様」
胸が、強く打つ。
「私は、物ではありませんよ?」
冗談めかして言うと、彼は小さく鼻で笑う。
「分かってる」
そして、ほんの一瞬だけ、彼の指先が私の手に触れかけた。
触れた、と思った瞬間、風が吹き、距離がわずかに開く。
意図したのか、偶然かは分からない。
けれど、その一瞬の温もりが、確かに残った。
近づく影は、確実にある。
王都も、隣国も、きっと動く。けれど今、この夜の静けさの中で、今の私は一人ではないと知っている。
それだけで、少しだけ、恐怖が薄らいだ感じがした。
砦の見張り台に灯る松明の火が、いつもより多い。巡回の足音も増えた。
騎士団は一度退いていたけれど、気配は消えていない。
森の奥、街道の向こうのどこかからこちらを見ている視線がある。姿は見えないのに、確かに【いる】と分かる。
そんな夜が、ここ数日続いていた。
中庭に干していた布を取り込むフリをしながら、私は空を見上げる。星は静かに瞬いている。
あの光は、王都の空から見ても同じように見えるのだろうか?
あの城の中で、今も誰かが私の名を口にしているのだろうか?
考えまいとするほど、胸の奥がざわつく。
背後で足音が止まった。
「セラ、冷えるぞ」
低い声、振り向かなくても分かる。
「あ……将軍様」
カイは外套を肩に掛け、夜気を切るように歩み寄ってきた。その顔はいつも通り無骨で、無駄な感情を見せない。
だが、視線は鋭い。
周囲を警戒するように、自然と手が剣の柄に近い位置にある。
「巡回が増えましたね」
「ああ」
短い返答――だが、その一言に含まれる重みは軽くない。
「王都の連中は一度退いたが、完全に引いたわけじゃねぇ……監視は増えてる」
やはり、そうなのだ。
私が感じていたものは、ただの不安ではなかった。
「……私のせい、ですよね」
小さく呟くと、カイの視線がこちらに向く。
「それは違うぞセラ」
即答だった。
「王都が腐ってるのは元々だ」
その言い方が、少しだけ可笑しくて、私はわずかに笑う。
「腐っている、ですか」
「ああ。内側からな」
将軍様は笑いながら空を見上げる。
星明りが、その横顔を淡く照らす。
強く、揺らがない輪郭――けれどその奥にどこか遠いものを見る目がある。
「……密書を出した」
ふいに、彼が言った。
「隣国へ」
胸が小さく跳ねる。
「え、隣国……ですか?」
「ああ。昔の知り合いに、だ……まぁ、確か今は王様やっているらしい」
「え、あ……お、おうさま?」
さらりと言うが、その内容は軽くない。
私は驚いてしまったが、隣にいる将軍様はまるで当たり前のように言っていた。
将軍である彼が、隣国の王と繋がりを持っているという事実――それは、単なる私情では済まされない。
「助けを求めたのですか?」
「違う」
将軍様は首を振る。
「確認だ……王都が崩れた場合、どう動くか」
静かな声だった。
だが、その言葉の意味は重い。王都が崩れる可能性を彼は既に想定している。
「……もし」
私は、ゆっくりと口を開く。
「もし、王都が滅びたら?」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
あの城、あの石畳、あの広間。私が育ち、捨てられた場所。
それが【滅びる】という言葉で語られる。
将軍様は少しだけ沈黙し、やがて答えた。
「……俺は民を守る」
短い言葉――だが迷いはない。
「王家は?」
問うと、彼の視線がわずかに鋭くなる。
「守れねぇ王家なら、いらねぇ」
そのように言いながら、将軍様は静かに笑った。
風が、二人の間を通り抜け――冷たいのに、不思議と胸の奥は温かい。
彼は王になる気はないと言う。だが、その言葉には確かな【責任】と言うモノがある。
王都では、血と格式が重んじられる。
しかしここでは、守れるかどうかがすべてだ。
「将軍様は……」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「怖くはないのですか?」
「何がだ」
「王都と、隣国と、全部を敵に回すかもしれない事が」
私の問いに将軍様は、わずかに口元を歪めた。
「怖ぇに決まってる」
意外な答えに、目を見開く。
「だがな……怖ぇから、備える。怖ぇから、動く」
その理屈は単純で、強い。
「――お前は?」
「え?」
「お前はどうなんだ?」
不意に将軍様にそのように問われ、私は言葉に詰まる。
「私は……」
本当は、怖い。
王都に戻ることも、戻らないことも。
ここを巻き込むことも、守られることも。
「怖いです」
正直に言う。
「けれど、逃げたくはありません」
私の言葉に対し、将軍様の視線が、柔らかくなったように見えた。
「そうか」
それだけなのに、胸の奥が静かに震える。
沈黙が静かに落ちる。
夜の虫の音が遠くで響き、私たちは並んで立ちながら同じ空を見上げている。距離は、ほんの半歩。
手を伸ばせば触れられるほど近い。だが、触れない。触れてしまえば、何かが決定的に変わってしまいそうで。
「セラ」
低く呼ばれる。
「はい」
「……もし、何かあれば」
彼は言葉を切り、私を見る。
「必ず助ける」
その瞳は、真剣だ。
まるで、何かの誓いのように。
「将軍様」
胸が、強く打つ。
「私は、物ではありませんよ?」
冗談めかして言うと、彼は小さく鼻で笑う。
「分かってる」
そして、ほんの一瞬だけ、彼の指先が私の手に触れかけた。
触れた、と思った瞬間、風が吹き、距離がわずかに開く。
意図したのか、偶然かは分からない。
けれど、その一瞬の温もりが、確かに残った。
近づく影は、確実にある。
王都も、隣国も、きっと動く。けれど今、この夜の静けさの中で、今の私は一人ではないと知っている。
それだけで、少しだけ、恐怖が薄らいだ感じがした。