追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路
第40話 連れ去られる夜
火の匂いというのは、ひどく記憶を呼び起こす。
甘い香の煙ではなく、薪の温もりでもない。
焦げた木と油が混ざり合った、喉の奥に刺さる匂い。
夜の冷気を裂いて、砦の中庭へ流れ込んできたその匂いを嗅いだ瞬間、私は反射的に立ち上がっていた。
胸の奥が、静かに、しかし確実に脈打っている。
嫌な予感というものは、いつだって理屈より先に身体を動かした。
外はまだ暗い。見張り台の松明の火が、いつもより不規則に揺れている。
遠くで鐘が鳴った。短く、鋭く――合図だ。訓練で何度も聞いた緊急の音。
砦に住む者なら誰もがその意味を知っている。
「火事だ! 南倉庫だ、急げ!」
「水桶を持て! 鎧はいい、まず火を止めろ!」
兵士たちの怒鳴り声が、闇を切り裂く。
足音が一斉に走り、板の廊下が震える。
窓の外を見れば、南の方角が橙色に明滅していた――炎が上がっている。
煙が風に流され、砦の上空に黒い筋を引いていく。
私は一瞬だけ固まった。
火は怖い、王都で燃えたものを見た記憶はないはずなのに、なぜか胸が締めつけられる。
追放された日、王宮の赤い絨毯、人々の視線、あの冷たい広間――焼けるような羞恥と絶望の感覚が、火の匂いと重なってしまう。
けれど、ここは王都ではない。
私はもう、ただ跪いて命令を待つ令嬢ではない――そう自分に言い聞かせ、毛布を肩に掛けて廊下へ飛び出した。
中庭はすでに混乱していた。
松明の火が走り回り、影が交錯し、怒鳴り声と水の音が重なり合う。倉庫の方角へ向かう兵士たちの列、その逆に怪我人を運ぶ者、炊事場から桶を抱えて駆けてくる使用人たち。
誰もが必死で、誰もが自分の役目を探している。
私は近くにいたサーシャを見つけた。彼女も顔に煤をつけ、髪を乱したまま水桶を運んでいる。
「サーシャ!」
「セラ!? だめだよ、こっち来ちゃ!」
「何か手伝えることは――」
「いいから!火元に近づかないで! 将軍様が――」
サーシャの言葉が途切れ、遠くで、剣の柄が鳴る音がした。鋭い命令が飛ぶ。
「南門を閉めろ! 外へ回るな、内側で抑えろ!」
「見張りを増やせ、火事だけじゃねぇ!」
将軍様の声だ。
低く、短く、だがよく通る。
混乱の中でもその声だけは芯を持って響き、兵士たちが一斉に動きを変える。火事の対応をしながら、同時に警戒もしている。
火災がただの事故ではない可能性を考えているのだ。
その瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
火事騒ぎ――陽動。
頭の中で、言葉が繋がってしまった。
騎士団は退いた。だが監視は増えている。
近づく影、将軍様は密書を送った。
備えていた。備えていたのに、それでもこんな形で来るのか。
「っ……」
私は息を呑み、周囲を見回す。
中庭の隅、普段は目立たない通用門の近く。
そこに一瞬だけ、見慣れない影が動いた気がした。兵士の鎧ではない。使用人の服でもない。暗色の外套。動きが無駄なく、まるで人の流れを読んでいるように滑らかだ。
目が合い――その男は一瞬、口元を歪めた。
笑ったのではく、獲物を見つけた狩人のような、ぞっとする微笑だった。
(……来た)
足が勝手に後ずさる。
逃げる?
どこへ?
中庭は人で溢れ、倉庫の方角は炎。建物の中へ戻れば、逆に追い詰められる。
私は息を吸い、あえて人の多い方へ、光のある方へ向かおうとした。
誰かに見つけてもらうために。誰かの目の前で襲われれば、さすがに――そう思った瞬間、背後から腕を掴まれた。強い力、骨が軋むほどに。
「――静かにしろ」
耳元で囁かれる声。
低く、冷たい――私は息を詰める。
口を開けば叫べる、サーシャも近いし、兵士たちもいる。
なのに、声が出ない。身体が硬直する。
男は私の肩越しに中庭の混乱を見ていた。
火事の煙が風に流れ、視界を曇らせる。松明の光がちらつき、こちらの姿を半分隠してくれる。
その影に紛れて、男は私を通用門の陰へ引きずり込んだ。
「……誰」
「質問するな」
短く言い捨て、男は外套の内側から小さな印章をちらつかせた。
王家の紋章、見慣れた形、胸が締めつけられる。
あの王城の冷たさが、瞬時に戻ってくる。
「王妃様のご命令だ。お前を確保する」
「……確保?」
言葉の響きが、あまりにも無機質だった。人ではなく物。存在ではなく証拠。
私は唇を噛み、震える呼吸を押し殺す。
「私は……拒否したはずです。王都の騎士団にも」
「だからこうして来ている」
男は淡々と言った。だが、その目が――どこか歪んでいる。
忠誠の目ではなく、任務を遂行する兵の目でもない。
それは、欲望――手柄を立てたい者の目。自分の名を上に刻みたい者の目。
私はその瞳を見て理解した。王妃の命は口実だ。彼は私を連れて帰れば、褒賞を得られる。出世できる。誰よりも先に功績を掴める。
だからこそ、穏便にではなく、強引に。
ぞっとするほどの野心が、私の肌を撫でた。
「……あなた、名前は?」
「必要ない。お前に名を教える義理はない」
男は私の手首に縄を巻きつける。手際が良い。慣れている。
縄の感触が皮膚に食い込み、痛みが走る。私は思わず息を呑んだ。
だが叫ばなかった。叫べば、ここで血が流れる。砦の中で戦いが起きる。将軍様が動き、兵たちが死ぬ。
(……それだけは、嫌)
私は、守られているだけの存在ではないと決めた。ここで私が暴れれば、誰かが死ぬ。
なら、今は耐えるしかない。
「……何をするつもりですか?」
「王都へ送る。お前がいれば派閥が動き、そして王都は褒美をくれる」
最後の言葉で確信した。王都ではなく、褒美。
国ではなく、己。
私は静かに息を吐き、視線を上げる。
火の光が遠くに揺れ、兵たちの叫びが聞こえる。水桶の音。木の爆ぜる音。
その中に、将軍様声が混じるのを探してしまった。
しかし、距離がある。
煙のせいで視界が悪い、私のいる場所は死角だ――誰もこちらを見ていない。
(……将軍様)
呼びたい。
声に出したい。
けれど、男の手が私の口元へ伸びる気配を感じた。
「声を出すな。出せば――ここで終わるぞ?」
脅しではなく、事実として言っているのが分かった。
私は、頷いた。悔しい。怖い。けれど、今は飲み込むしかない。
男は私を引きずるようにして、通用門の外へと連れ出した。
門の外には、闇に紛れた馬が二頭。
もう一人、同じような外套の影が待っている。
そいつは私を見るなり、小さく口笛を吹いた。
「こりゃ当たりだ。噂通り、いい顔してる」
その言葉を聞いて、吐き気がした。
私は歯を食いしばり、前を向く。
――泣かない。ここで泣けば、彼らは勝った顔をする。
私は、あの王宮で散々味わった。勝者の笑みを。敗者を見下す視線を。
だから、泣かない。
馬の背に無理やり乗せられ、縄を引かれ、身体が揺れる。慣れない姿勢に息が詰まる。
砦の明かりが、少しずつ遠ざかる。火の光が小さくなっていき、兵たちの声が薄れていく。
その瞬間、胸の奥がひりついた。
ここが、私の居場所だった。
ようやく見つけた場所だった。
笑える場所だった。
名前を隠しても、私を見てくれた場所だったのに――それが奪われる。
(……嫌だ)
言葉にならない叫びが胸の中で渦を巻く。だが私は耐えなければならない。
ここで抵抗して砦を巻き込めば、私はまた誰かを不幸にする【存在】になってしまう。
私は、そんな女には戻りたくない。
闇の街道を、馬は走り、風が頬を打つ。
涙が出そうになるのを、歯を噛み締めて堪えた。
遠くで、砦の鐘がもう一度鳴った。
今度は短く、何度も。異常を告げる音。
気づいたのだ。将軍様が、そして兵たちが。
けれど、もう遅い。距離が開きすぎている。夜の闇は深く、追跡は困難だ。
私は振り返らない。振り返れば、心が折れる。
私は前を見る。闇の先に、王都がある事を。
私を捨てた場所、私を罪人にした場所。
そこへ戻るのだ。望んでいないのに。
――胸の奥で、静かに誓う。
(将軍様……私は、必ず戻ります。今度こそ、自分の足で――)
私は私として、ここへ帰ろう。どんな事があっても。
そう思った瞬間、馬の背で握りしめた拳に爪が食い込んだ。
痛みがあるのに、それが生きている証のようで、少しだけ呼吸が楽になった。
夜の闇は深い――けど、私は目を閉じる事なく、唇を静かに噛みしめるのだった。