追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第48話 そして、脱出

 空気が、薄く感じる――王城の石壁が吐き出す冷気が、肌の奥まで染みていく。
 私は両手を前で揃えたまま、廊下の端に設けられた控え室に立っていた。
 裁判直前――そう告げられてから、どれほどの時間が経ったのだろうか?
 長いようで短く、短いようで永遠に感じてくる。
 扉の外からは甲冑の擦れる音、低く抑えた会話、書類を捲る乾いた音が断片的に聞こえてくる。
 全て、それが私を【案件】として扱っているかのようなそんな感じの音のように聞こえた。
 部屋は簡素だ。
 椅子が二脚、机が一つ――窓は小さく、厚い格子がはまっている。
 王太子の婚約者として候補過ごした豪奢な部屋とは対照的に、ここは裁かれる者の待機所でもある。
 私は壁に背を預けることもせず、ただ、まっすぐ立っていた。
 姿勢だけは崩したくなかった。
 崩した瞬間、心まで折れてしまいそうだったから。

(正式な審理……か)

 ある騎士は私に対してそのように言った。
 無実を証明できる機会も与える、と。
 けれど、私は知っている――王城の空気は【証拠】よりも【都合】で動くだと。
 誰が得をするか、誰が困るか――その結論が先にあり、それに合わせて理屈が整えられる。
 私はそれを何度も見てきたから。
 民のための法案が握りつぶされる瞬間も、貴族の利権が守られるために言葉が歪む瞬間も。
 そして今の私は歪められるのだろうと思ってしまった。
 目を閉じて辺境の風を思い出してみた。
 土の匂い、炊き出しの湯気、サーシャの笑い声――そして、将軍様の優しく、低い男の声。
 あの場所にはここにあるような息苦しい空気はなかった。

(将軍様は……)

 胸がきゅっと痛んできた――きっとあの人は怒っているだろう。
 砦の火を見た瞬間に気づいたのかもしれない――私がいないことを。
 追ってきてくれるだろうと信じたい気持ちと、追ってきてほしくない気持ちが同時に胸を刺してしまった。
 けど、あの人は追ってこなかった。ただ、それだけに安堵してしまった私がいた。
 もし王城に乗り込めば、あの人は【反逆者】だ。
 辺境の兵たちも危険に晒されてしまう。

(本当は、来てほしい、この手を握ってほしいだなんて思ってしまうけど……本当は、来てほしくない。いや、来ないでほしい)

 ふと、扉の外で足音が止まった。
 同時に鍵が鳴る。
 私は一瞬、体を身構える。
 もしかすると、そのまま裁判へ連行されるのか――心臓が脈打つ音がやけに大きい。
 だが、扉は開かない。
 代わりに別の声が聞こえきた。怒鳴り声に近い、短い命令。
 そして慌ただしい足音が遠ざかる。

(……何?)

 一瞬にして、空気の流れが変わる。
 王城のどこかでもしかして何かが起きている?
 そういう感覚が、肌に伝わったかのように。
 そのように考えていた次の瞬間だった。

 ――轟音。

「っ!?」

 扉が、内側へと弾けた。
 蝶番が悲鳴を上げ、木片が床を跳ねる。
 私は思わず一歩、後ろへ下がった。
 粉塵が舞い、視界が白く霞む。
 そこに立っていたのは、黒い外套の男だった。
 背丈、体格、纏う圧――その姿を見た瞬間、血が一気に熱くなる。

(……嘘)

 霞の向こうで、その男が顔を上げる。
 鋭い眼差し。怒りを隠さない目。
 まさかそこに、将軍様がいるなんて、誰が想像しただろうか?

「……セラ」
「しょ、将軍様……?」

 呼び方が、胸を刺す。
 私が【セラ】として生きることを許してくれた名を彼が呼んでいる。

「どうして、こ、ここに……?」

 声が震えそうになるのを必死で抑える。
 彼は短く息を吐き、周囲を一瞬で確認した。
 廊下や控え室の内部、最後には多分逃走経路を見ているのかもしれない。
 戦場のように無駄がない動きだと、一瞬で理解した。
 そのまま、大丈夫だと理解したのか、セラに近づきながら口を動かす。

「話は後だ」

 低い声は切り捨てるような声。
 けど、私はその声に安堵してしまったのだ。

「しょ、将軍様、わた――」

 何かを言おうとしたその時、廊下の奥から騎士たちの叫び声が響く。

「侵入者だ!」
「止めろ!」
「王都の治安隊を呼べ!」

 足音が迫待ってくる音と、金属の擦れる音。
 剣が抜かれる音なども聞こえてくる。
 そして、将軍様は一歩も引かないらしい。
 すると、その背後から現れたのは――レオンハルトだった。
 彼は混乱の中心からここへ駆けつけたのだろう。
 髪は乱れ、顔色は悪い。
 だが、その目だけは必死に私を捉えている。

「セレスティア!」

 その声に、胸の奥が硬くなる。
 殿下の視線が将軍様へ移り、怒りと恐れが混ざった表情になる。

「貴様……誰だ!ここは王城だぞ!」

 将軍様は一歩、廊下へ出る。
 ゆっくりと周りに視線を向けると騎士たちが一瞬、足を止める。
 戦場の匂いがする男が立つと、空気は否応なく従うかのように。

「辺境領主カイ・ヴァレンティアだ……王太子殿下。あんたはもう終わりだ」

 その言葉が落ちた瞬間、レオンハルトの顔から血の気が引いた。

「な……何を……!」

 怒鳴り返そうとした刹那、将軍様の動きが加速する。
 近いし、早い。
 距離の詰め方が戦場のそれだ。
 レオンハルトが反射的に後退した時には、もう遅い。
 将軍様の腕が伸び、殿下の胸元を掴み、壁へ押し付けた。
 石壁に背が打ち付けられ、鈍い音が響く。

「ぐっ……!」

 殿下の護衛が剣を抜く。

「殿下を離せ!」

 けれど、将軍様は視線を動かさない。
 まるで護衛など存在しないかのように。

「――動くな」

 低く言うだけで、護衛の動きが鈍る。
 そして、刃を向ける相手の殺気が違いすぎるのだろう。
 将軍様は殿下の腕を捻り上げ、背後へ回し、縄のような革紐で一気に拘束した。
 手際が良すぎるし、抵抗の隙を与えない。

「……っ、やめろ!放せっ!」

 殿下の声は、焦りで裏返っている。
 しかし、将軍様は冷たく言い放った。

「――だから終わりだと言ってる」

 その瞬間、廊下の曲がり角から騎士たちが雪崩れ込んできた。
 数は多く、多分十、いやそれ以上。王城内の精鋭だ。

「しょ、将軍様!」
「侵入者を討て!」
「王太子殿下を救え!」

 私は彼を呼ぶ。ここで戦になれば――だがそんな事を考えているのに、彼は私の方へ半身を向けた。

「セラ、来い」
「え……で、でも、殿下が……」
「安心しろ、王太子は生きている……それよりも今はお前が優先だ」

 その一言で、胸の迷いが切り落とされる。
 私は頷いた後、将軍様の背後へ回る。
 彼は拘束した殿下を盾のように引き寄せた。

「――近づくな」

 騎士たちが止まる。
 殿下を傷つけるわけにはいかないから。

「下がれ!王太子殿下が――」
「安心しろ、お前たちの殿下は返してやると。それに俺が手に入れたかったのはコイツじゃない」

 そのように言った後、将軍様は私の肩を掴み、引く。

「走れるか」
「……はい、大丈夫です!」

 声が震えるが、それでも足は動く。
 廊下を駆け、床を蹴る音が響く。
 背後で騎士たちの怒号が追ってくるが、距離が詰まらない。
 将軍様の動きが巧みすぎるのだろうと理解しながら、私はその後をついていく。
 曲がり角ごとに視線を切り、死角を使い、扉を蹴り開け、細い通路へ誘導された。

(どこへ?)

 王城の内部は複雑だ――だが将軍様は迷わない。
 まるで地図を頭に入れているように――いや、きっと入れているのだ。
 階段を下りると冷たい空気が増す。
 地下へ向かっている。

「こっちだ」

 そこには石造りの通路。
 薄暗い灯りや湿った匂い、嘗て資料庫として使われた通路だ。
 私は息を切らしながらもついていく。
 背後の怒号が遠ざかる。
 騎士たちは王城の表側を固めているらしく、同時に地下の抜け道など、すぐに思いつかない。
 やがて、鉄扉の前で将軍様が止まった。
 そして鍵穴に短い針を差し込み、数秒で開けた。

(どうしてそんなことまで……)

 問いが喉まで上がったが、今は言えない。
 扉の向こうは、古い排水路に続く狭い通路だった。
 湿り気を帯びた風が吹き抜け、外の匂いが混じっている――出口が近いと感じさせられた。

「セラ、足元気をつけろ」
「……はい」

 私は裾を押さえながら走る。
 胸が痛いほど鳴っているけれど、それは不安でも何でもない。
 私は今、自分の幸せを使む為に走っているのだ。

 そして何より――。

(来てくれた)

 来ないでと願ったのに、来てほしいとも願ってしまった。

 そんな事を考えていると、出口が見えた。
 外へ飛び出した瞬間、馬の声が響く。
 待機していた数名の兵が、こちらへ駆け寄ってくる。

「将軍!」

 将軍様は私を馬の背へ押し上げ、自分も飛び乗る。

「しがみつけ」

 短く言ってきたが、私は必死に外套の背を掴んだ。
 背後で王城の鐘が鳴り始めた。
 警鐘――城門が閉まる前に出なければならない。
 そのまま、馬が駆け出した。
 石畳が跳ね、風が涙をさらっていく。
 徐々に王城は遠ざかっている。
 けれど私は分かっていた。
 ここからが本当の始まりだと。
 将軍様の背は固く、熱い――怒りを抑え込んだ熱だ。
 それでも――私はもう一度、息を吸う。

「……ありがとう、ございます」

 小さく、聞こえたお礼の声を将軍様は聞こえていたのだろうか?
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