追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第49話 奪われたモノ【王太子視点】

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
 石壁に背を叩きつけられた衝撃がまだ残っている。
 腕は荒く拘束され、護衛が慌てて駆け寄る声が遠くに聞こえ――だが、私の耳にこびりついて離れないのはあの男の低い声だ。

 ――終わり?この私が?

 そのように、あの男に言われた。
 私は王太子。
 未来の国王なんだぞ?
 拘束を解かれた後も、手首に残る痛みが現実を主張していた。
 侮辱だ――王城の内部で王太子が力づくで押さえつけられた。
 兵はいたし、騎士もいた。
 だが誰も、決定的な一撃を加えられなかった。
 私を【盾】にされたから?
 違う、あの場で兵の足が止まったのは――恐れだ。
 あの男に対する、明確な恐れ。

 ――辺境の将軍、カイ・ヴァレンティア。

 名は知っていたんだ。
 武勲も、民に慕われていることも。
 だが、あれほどの圧とは思わなかった――あの目、あの迷いのなさを初めて見た。
 そして、何より――セレスティアが迷わず彼の後ろに立ったこと。
 胸がひどく軋む。

「なぜだ……」

 思わず声が漏れてしまっていた。

「……なぜ、私の元を選ばないんだ?」

 部屋の中には護衛しかいない。だが私は、誰かに問いかけるように呟いていた。
 私は王太子であり、王位継承者だ。この国で最も高い場所に立つ男だ。
 それなのに、彼女は――あの女は、辺境の将軍を選んだ。いつの間にか怒りが込み上げる。

「私は王太子だぞ……!」

 机を叩き、書類が散らばる。
 だが、誰も動じない――護衛たちは目を伏せたままだ。
 その態度が、余計に腹立たしい。

「なぜ追わない!城門を閉じろ!兵を出せ!」

 一人の騎士が、恐る恐る答える。

「……すでに手配はしております。しかし、将軍は地下通路を利用した可能性が高く……」

 地下通路?
 なぜ知っている?
 なぜ、王城の構造を把握している?
 疑念が胸を掠める。いや、今はそれよりも――彼女が、去ってしまったんだ、再び。私の目の前から。
 あの時と同じだ。
 婚約破棄を言い渡したあの日――広間で俯いたまま、冷たい目で私を見ていた彼女の姿を思い出す。
 あの時も、私は彼女を【失った】んだ。
 だが違う。
 あの時は、私が捨てたのだ。
 今は――奪われてしまった。するりと彼女がこの手から離れてしまった。

「……私は、間違っていないはずだ」

 そうだ。

 あの時の判断は正しかった。
 反逆の疑いがあり、王家の安定のために切り捨てる。
 王太子として当然の判断だ――感情ではなく、国を優先した。
 それなのに、何故国は傾いている?
 何故政務は滞り、地方は反発して兵の士気は下がっている?
 何故、書類は増え続ける?
 机の上の山を見つめた。
 以前は、ここまで積み上がる前に処理されていた。
 誰が?
 そんなの簡単に分かっている。

 セレスティアが全てを行ってくれたのだ。

 税の不均衡も、物資の滞りも、貴族間の火種も、彼女は先回りしていた。
 私は知らなかった――いや、知ろうとしなかった。
 私は決裁し、署名し、威厳を保つことが王太子の役目だと思っていた。
 だが実際には、彼女が、盾だった。
 私の前に立ち、風を受け、矢を受け、面倒な調整を引き受け、私を王太子らしく見せてくれたのだ。
 その盾を自ら捨て、奪われた。
 胸の奥が空洞のように寒い。

「……違う」

 違う――私は彼女を愛していたはずだ。
 いや、本当に?
 思い出すのは、政務室で書類を捌く姿だ。冷静な目で進言する声で、社交の場で私を立てながら裏で全てを整えていた姿だ。
 笑顔は、あまり覚えていない。
 いつも、真面目だった。
 私は、あの堅物を疎ましく思っていたのではないか?
 そして、軽やかに笑うエリスに逃げた。

 ……逃げた?

「違う……」

 再度、私は否定する。
 私は選んだのだ、自分の意思で、王太子として。
 だが、あの男の腕の中に消えていく彼女の背が、頭から離れない。
 迷いがなかった、振り返らなかった。
 私を、見なかった。
 あの瞬間、理解してしまった。
 彼女にとって私は、もう【選択肢】ですらなかったのだと。
 膝がわずかに揺らぎ、椅子に腰を落とす。
 重い。
 全てが重い。
 国王は沈黙している。
 報告は届いているはずだが、何の指示もない。
 まるで、事態を静観しているかのように。
 母は冷徹だ。
 怒りも、動揺も見せず、まるで駒を奪われたことを咎めるように。

 ――私は、母上の駒だったのだろうか?

「……私は、何を間違えてしまったのだろうか?教えてくれセレスティア」

 静かにそのように呟きながら、私は静かに涙をこぼしたのだった。
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