執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす

◆第四章

このあと奏は打ち合わせが入っていると言ったため、仕事を終えた千花は一度自宅に戻り、パーティーにふさわしい服に着替える。

そして午後六時、待ち合わせ場所である日比谷で彼と合流し、会場に向かった。

「今日のパーティーは、どういう趣旨のものなの?」

千花の問いかけに、奏が微笑んで答える。

「美術財団の理事長が、若手芸術家を支援するために資金調達の目的で開くものなんだ。集めた会費とオークションの売り上げ、寄付金を、彼らの奨学金や海外留学支援、展覧会の開催費用に当てる。理事長は富裕層の人間に伝手があるから、かなりの人数が集まるんじゃないかな」

豪奢な雰囲気の洋館で行われているパーティーは、盛況だった。

着飾った老若男女が多く来場し、それぞれが飲み物のグラスを手に笑いさざめいている。美術財団の関係者の他に画廊やギャラリーの経営者などもおり、若手の芸術家を富裕層の人間に積極的に紹介して売り込んでいた。
 
奏はあちこちから声をかけられ、そのたびに足を止めて雑談に応じる。一緒にいる千花について聞かれると「僕の恋人です」と紹介するため、必然的に会話に加わることになって、精一杯にこやかに振る舞った。

だが三十分ほどすると疲れてきて、小さく息をつく。するとそれに気づいた様子の奏が提案してきた。

「庭に出ようか。ここより人が少ないし、きっと夜風も気持ちいいよ」
「あ、うん」

広間を横切って大きな掃き出し窓に向かい、外に出る。

すると西洋風の庭園が目の前に広がり、ライトアップされていてロマンチックな雰囲気だ。千花は感心してつぶやいた。

「都内なのに、こんなに広いお庭があるなんてすごいね」
「ここは以前、大名の末裔の邸宅だったらしいよ。維持できなくて手放したのを、美術財団の理事長が買い取ったって」
「ふうん」

庭園の真ん中には噴水があり、水面は月を映して揺らめいている。
ふいに彼が「ところで」と言い、こちらを見下ろしてニッコリ笑った。

「千花さんに聞きたいことがあるんだけど、答えてくれる?」
「何?」
「ここ数日、例のデザイナーとずいぶん頻繁に会ってるだろ。仕事ではないようだけど、それをいちいち俺に伝えるのって、どういう意図があってのことなの?」

切り込むようにそう問いかけられ、千花はドキリとしつつ答える。

「えっと……世間話というか、奏とはほぼ毎日会ってるから、報告的な?」
「ふうん、報告か。俺はてっきり、その男との仲のよさを見せつけたいのかと思ったけど」

彼の指摘は正鵠を射ていたものの、千花は精一杯虚勢を張って言う。

「何か勘違いしてない? わたしは報酬をもらってあなたの婚約者の〝ふり〟をしているだけで、つきあってるわけじゃない。どこで誰と会おうと自由なはずだし、いちいち口を出されるのは不愉快だよ」

奏との間に明確に線を引くべきだと考えた千花は、わざと辛辣な言葉を放った。

(そうだよ。奏はわたしを、軽蔑していい。いっそ幻滅されるくらいのほうが、きっと復縁したいという気持ちがなくなるはずだもの)

自分たちの間には、家柄や金銭的な面など越えられない壁がある。

ならばビジネスに徹し、これ以上気持ちを寄せないようブレーキをかけるべきだ。そう考え、顔を上げた千花は笑顔で告げる。

「わたしとメゾン・ドレルのデザイナー、すごく気が合うみたい。彼は気さくな人だし、話をしているといい刺激になるの。きっかけはインタビューだけど、知り合ったのも何かの縁だから、大事にしたいと思ってる」

すると次の瞬間、グイッと身体を強く引き寄せられて、千花は息をのむ。
こちらを見下ろした奏が、真剣な眼差しで問いかけてきた。

「――本気で言ってるの?」
「……っ」
「俺が千花さんのことが好きなのを知っててそういう態度を取るのは、復縁する気がまったくないから?」

低い声音に一瞬怯んだ千花は、彼の胸を押して距離を取ろうとしながら頑なな表情で答えた。

「……そ、そうだよ。わたしがあなたにこうしてつきあっているのは、お金のため。そういう約束だったはずでしょ」
「そのためには、俺を傷つけて構わないと?」
「それは……」

奏の瞳には切実な色がにじんでおり、それを見た千花は罪悪感をおぼえる。

母親の治療費に頭を悩ませているのを知った彼は、通訳兼婚約者をしてくれれば莫大な対価を支払うと申し出てくれた。

それはこちらに好意を抱いてくれているからこその提案であり、千花はそんな奏の気持ちを利用していると言っても過言ではない。

「格差がある奏とは、復縁するのは無理だ」と考えて諦めてもらおうとしたものの、だからといって彼を傷つけていいことにはならないはずだ。

(わたし……)

今さらながらに自分の勝手さが身に沁みて、千花はぐっと唇を引き結ぶ。

これまでさんざん奏の厚意に甘えてきたのだから、復縁できない理由を言葉を尽くして説明するべきではないか。そんな思いがこみ上げ、迷いながら口を開いた。

「奏、わたしは……」

そのときふいにバッグの中で、スマートフォンが着信音を立てる。

メッセージではなく電話のようで、ディスプレイを確認すると母親が入院している病院だった。顔をこわばらせた千花は、奏に「ちょっとごめん」と言って電話に出る。

「はい、佐久田です。……そうですが……えっ?」

ドキリとして聞き返すと、電話の向こうから女性看護師の声が言う。

『先ほどお母さまの容体が急変し、現在集中治療室で治療を受けているところです。先生から娘さんをお呼びするようにと言われてお電話したのですが、これから来院することは可能ですか』

恐れていた事態が起こり、千花の心臓がドクリと音を立てる。

青ざめながら「すぐに行きます」と言って通話を切ると、ただならぬ気配を察知したらしい奏が問いかけてきた。

「何かあった?」
「お母さんが、心臓発作を起こして……今集中治療室にいるみたい。わたし、すぐ病院に行かないと」

手が小刻みに震え、自分がひどく動揺しているのがわかる。するとそんな千花の手をつかみ、奏が語気を強めて言った。

「すぐにタクシーを拾おう。俺も一緒に行くよ」



連れ立ってパーティー会場から出た彼が、往来でタクシーを拾う。

病院までは二十五分ほどかかり、千花はじりじりとした焦りを押し殺した。到着したあとは急いで受付に行き、CCUの傍にある面談室で医師から説明を受けたが、「重度の呼吸不全症状が出ており、予断を許さない状態だ」と言われて頭が真っ白になる。

「そんな……」

現在は心電図と胸部X線検査、採血や心エコーなどを経て、酸素と血管拡張薬を投与されている状態だと聞いた千花は、医師に問いかけた。

「母は……一体どうなるんでしょうか」
「血圧が回復しない場合は、大動脈バルーンポンプや心肺補助装置など、機械的な補助をするための緊急オペを検討することになります」

面談室を出た千花は、人気(ひとけ)のない待合の椅子に座り込む。するとそこで待っていた奏が、気遣わしげに問いかけてきた。

「大丈夫? お母さんの容体は……」
「予断を許さない状態だって。重度の心不全を起こしていて、自発呼吸もままならないみたい。今は薬の投与で様子を見ているけど、状態が改善しない場合は手術で心機能の機械的補助をするって言われた」

母親の意識は戻っておらず、膝の上で両手を強く握り合わせた千花は、震える声でつぶやいた。

「もしこのまま、お母さんが目を覚まさなかったらどうしよう。わたしの家族はお母さんしかいないのに、独りぼっちになっちゃう」

寄る辺のない心細さが募り、千花はポロリと涙を零す。

母とはずっと一緒にいたわけではなく、大学から独り暮らしを始めたため、ある程度の距離を取ってきた。

その理由は不仲だからではなく、彼女なりの人生を大切にしてほしいと考えたからだ。それだけに体調不良を隠されていたことが苦しく、「これからはすぐに駆けつけられる距離にいて、親孝行をしなければ」と思って帰国したのに、何もできないまま母は危篤状態に陥っている。

そう語った千花は、涙を零しながら言葉を続けた。

「お母さんにはできるだけ長生きしてほしいし、そのためには何でもしたい気持ちが強くある。でも治療費や入院費用を自分一人で賄いきれるかわからなくて、すごく不安になるの。今は奏がわたしを通訳兼婚約者として雇ってくれていて、多額の報酬を約束してくれてる。だけどそれは、ずっと続けられるわけじゃないでしょ。いつかあなたは家柄の釣り合う人と結婚するんだろうし、そうなればわたしはもうお役御免だから」

奏と結婚する女性は、元交際相手である千花が彼の傍にいることを不快に思うはずだ。

そうならないためには、自ら身を引くしかない。言外にそう語ったところ、隣りに座った彼がふいにこちらの手を強く握って言う。

「俺が力になる。絶対に千花さんを一人にしないし、お母さんの手術費用も心配しなくていい。ただで受け取るのが嫌なら、生活に支障のない範囲で分割返済してくれて構わないし、そうすれば治療費で頭を悩ませることはなくなるはずだ」
「……奏」
「それに、他の女性と結婚することも考えられない。俺が好きなのは千花さんで、別の相手を妻として愛せるとは思えないから」
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