執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす
瞳にやるせない色を浮かべつつそう言われ、千花の心が揺れる。
奏の言葉は真摯で、本当に千花のことが好きで力になりたいという思いが伝わってきた。

(奏の言葉を……信じたい。だってわたしも、異性として強く心惹かれているから)

彼の整った容姿と穏やかな性格は胸をときめかせ、学生時代にはなかった頼りがいを強く感じた。

金銭感覚や家柄の違いは依然として解消されていないものの、それを凌駕するくらいに奏への想いが大きくなりつつある。

(お母さんのことがあるから、こんなふうに思うのかな。かつてはお金で囲い込もうとされて強く反発したのに、今は奏が傍にいてくれることに安心する)

だがそんなふうに感じる自分が狡く思え、千花が何も言えずにいると、彼がふいにこちらの肩を抱き寄せてくる。

そして安心させるように言った。

「大丈夫、お母さんはきっと回復するよ。千花さんが望むなら、より高度な治療ができる病院に転院できるよう俺が力を尽くす。病気が完治するまでしっかりサポートするから、何も心配しなくていい」
「……奏」

抱き寄せる力の強さに安心感がこみ上げ、千花の目が潤む。

もし自分が一人でこの場にいたら、きっと不安で押し潰されていたに違いない。だが奏が一緒にいてくれることで、今はこんなにも落ち着くことができている。

そう考えた千花は顔を上げ、彼に礼を言った。

「ありがとう、奏。できるかぎり自分で対処するつもりでいるけど、そう言ってくれて心がすごく軽くなった。ここまで一緒に来てくれて、本当に感謝してる」

すると奏がじっとこちらを見つめ、ふいに顔を寄せてくる。

「――……」

彼の唇がそっと触れ、すぐに離れていく。

自分がキスされたことに気づいた千花は、間近にある奏の整った顔を呆然と見つめた。彼がひそやかにささやいた。

「ごめん、急にキスしたりして。――千花さんにどうしても触れたくて仕方なかった」
「…………」
「俺がこんなふうに申し出るのは、千花さんの力になりたいからだ。決して金の力で雁字搦めにしようとか、恩に着せようと考えているわけではないから、誤解しないでほしい」

奏がこうした発言をするのは、きっと六年前の別れに至ったきっかけが金銭の話だったからだ。

そう考えた千花は、遠慮がちに口を開く。

「奏がよかれと思って力になろうとしてくれていることは、よくわかってるよ。わたし、六年前は反発したくせに今は金銭的に甘えてるなんて、自分の都合のよさが恥ずかしくて……。本当に嫌になる」
「千花さんは通訳としてすごくよく頑張ってくれているし、俺の恋人としてあちこちにつきあってくれている。ギブアンドテイクが成立してるんだから、そんなふうに自分を卑下する必要はないよ。堂々と対価を受け取ればいい」
「でも……」
「それとは別に、俺の厚意としてお母さんのことをサポートさせてほしいんだ。いろいろと伝手もあるし、一人で思い悩むよりずっと楽になると思う」

確かにそのとおりで、先ほどの奏の言葉でぐんと心が楽になった。
そう思いつつ、千花は目を伏せて答える。

「うん、……そうだね」

こんなにも優しい彼に対し、自分はわざとオレールの存在をアピールすることで傷つけようとしていた。

その事実が身に沁みて、千花は目を伏せたまま口を開く。

「あの、オレールとはまだ友人の域を超えていないから。彼はしばらく日本に滞在するし、フランス語ができるわたしがいれば何かと便利だと思って、時間が合うときにつきあってあげてるだけ」

一旦言葉を切った千花は、自身の心情を正直に告げる。

「奏にわたしとの復縁を諦めてもらおうと考えて、わざと彼との親しさをアピールしたの。でも、それはあなたの気持ちを傷つける最低な行為だった。……本当にごめんなさい」

するとそれを聞いた奏が眉を上げ、ふと微笑む。そしてどこかホッとした表情で言った。

「そっか。何となくそんな気はしていたけど、もし本当にそのデザイナーとの交際を前向きに考えていたらどうしようかと思った。でも俺が千花さんを諦めることは絶対にないから、あまり意味はないかな」
「絶対って、何でそんなふうに言いきれるの? 奏はまだ若いんだし、これからもっといい出会いがあるかもしれないのに」
「ないよ。それくらい強く、千花さんに心惹かれてる」

きっぱりとそう言いきられ、千花の頬がじんわり熱くなる。

揺るぎなく好意を示されて、心をぐっとつかまれていた。理性では「それは奏のためにならない」と考えているのに、彼の言葉をうれしいと思う自分がいる。

現に先ほどのキスは驚いたものの決して嫌ではなく、むしろ胸がときめいていた。そのときCCUから女性看護師が出てきて、千花に向かって言った。

「佐久田さん、お母さまの意識が戻られましたよ」
「本当ですか?」
「短時間でしたら面会できますので、どうぞ」

急いで立ち上がった千花は、CCUの中に入る。

すると人工呼吸器やモニター、点滴に繋がれた状態の母親がぼんやりと目を開けていた。千花が「お母さん」と呼びかけると、彼女が呼吸器越しのくぐもった声で言う。

「……わざわざ来てくれたの? 心配かけて……ごめんね」
「ううん。意識が戻って、本当によかった」

安堵のあまり涙が零れ、それを彼女が困ったように見つめる。

面会を許されたのはわずか数分で、「引き続き血圧や呼吸の状態を見ていきますので、明日またお越しください」と言って外に出された。廊下で待っていた奏に向かって、千花は鼻を啜りながら告げる。

「とりあえず意識が戻って状態が安定してきたから、このまま様子を見るみたい。『明日また来てください』って言われたし、帰ろうか」
「じゃあ、タクシーで送っていくよ」

自動ドアから外に出ると、少し湿った夜気が全身を包み込んだ。

病院の敷地内を歩いて往来を目指しつつ、千花は改めて「奏がいてくれてよかった」と考える。そのときふいに彼がこちらの手に触れ、包み込むように握り込んできた。

「――……」

奏の手の大きさ、自分よりわずかに高い体温を感じ、千花はドキリとする。

彼の手は指が長く繊細で、それでいて男らしさもあり、伝わってくるぬくもりに心が震えた。

往来に出るとタクシーはすぐに捕まり、二人で後部座席に乗り込む。奏が千花の実家の住所を運転手に告げ、車が緩やかに発進してからも、ずっと手は繋がれたままだった。

ごく些細な触れ合いにもかかわらず、千花の心臓はいつもより速い鼓動を刻む。何気ない顔で解いてしまってもいいはずなのに、離したくない。まるで中高生がするようなスキンシップに、心が甘い気持ちで満ちていた。

代々木から車を走らせること十五分、実家の近くまで来ると、奏がふいに問いかけてくる。

「明日は、うちの会社に来れそう?」
「うん。打ち合わせの予定が一件あるから、午後三時くらいになるかもしれないけど」
「じゃあ仕事が終わり次第、俺と一緒にディナーに行かない?」

千花が眉を上げたところ、彼が微笑んで握った手を持ち上げ、指先にキスをして言葉を続ける。

「例の〝ふり〟をするための社交の誘いじゃなく、俺が千花さんとデートしたいんだ。駄目かな」

甘く見つめられ、蠱惑的なその様子に思わずドキリとしながら、千花は小さく答える。

「べ、別にいいけど……」
「決まりだな。どこかいい店をピックアップしておくよ」
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