光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第24話 返したはずの合鍵
翌日の勤務は、いつも通りに終わった。
いつも通りに申し送りをして、いつも通りに記録を確認して、いつも通りに更衣室で白衣を脱いだ。
けれど、ロッカーの扉を閉めた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
今日で終わる。
そう思ったからだ。
火事の日から、数週間が過ぎた。
最初は、ただ避難する場所が必要だった。
ホテルではなく、藤崎先生の家に泊めてもらうことになったのは、今でも少し信じられない。
けれど、その生活は思っていたよりも静かで、穏やかだった。
朝、洗面所の前で鉢合わせないように声をかけてくれること。
冷蔵庫に、いつの間にか私が食べやすいものが増えていたこと。
病院では何もなかった顔をして、家に帰ると少しだけ空気が変わること。
それらは全部、私の生活の中に、当たり前みたいに入り込んでいた。
でも、本当は当たり前ではない。
私には帰る部屋がある。
今日、そこへ戻る。
それだけのことだった。
病院を出ると、私は一度、自分の部屋へ向かった。
管理会社の人が来てくれて、室内の確認はすぐに終わった。
壁紙の一部は張り替えられていて、焦げた匂いも、ほとんど分からなくなっていた。
水回りも問題ない。
電気も使える。
玄関の鍵も、ちゃんとかかる。
「もう通常通り住んでいただいて大丈夫です」
そう言われて、私は小さく頭を下げた。
大丈夫。
住める。
ここが、私の部屋だ。
そう何度も自分に言い聞かせるように、室内を見回した。
数週間前まで、ここで普通に暮らしていた。
仕事から帰って、服を脱いで、シャワーを浴びて、適当に食事をして、明日の準備をして眠る。
誰にも気を遣わない。
誰にも見られない。
誰にも乱されない。
それが、私にとって一番落ち着く生活だったはずなのに。
部屋の中は、妙に静かだった。
何かが足りないわけではない。
家具も、カーテンも、ベッドも、以前と同じ場所にある。
ただ、そこに自分の生活が戻ってくる実感だけが、なかなか追いついてこなかった。
私は部屋の中をもう一度確認してから、鍵を閉めた。
必要な荷物は、まだ藤崎先生の家にある。
今日は、それを持って帰る。
それから、合鍵を返す。
それだけだ。
そう思いながらバッグの中に手を入れる。
封筒の感触が、指先に触れた。
中には、藤崎先生の家の合鍵が入っている。
本当は、最初から預かるべきではなかったのかもしれない。
でも、あの時は必要だった。
先生も、そう言ってくれた。
だから、借りた。
そして今日、返す。
それだけのことなのに、封筒の角が、指先に妙に痛かった。
藤崎先生の家に着いたのは、夜になってからだった。
いつものようにインターホンを押す前に、私は一度だけ深呼吸をした。
ここへ来るのも、今日で最後になる。
そう思うと、胸の奥がきゅっと狭くなった。
ボタンを押すと、すぐに応答があった。
「はい」
「綾瀬です」
「開けるね」
短いやり取りのあと、オートロックが解除される。
エレベーターで上がる間も、バッグの中の封筒が気になって仕方なかった。
部屋の前に着くと、扉が開いた。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
藤崎先生は、いつも通りだった。
家にいる時の、少しだけ柔らかい表情。
でも、今日はその顔を見るのが、少し苦しかった。
「部屋、大丈夫だった?」
「はい。管理会社の方にも確認してもらって、もう住めるそうです」
「そっか」
先生は、短くそう言った。
それ以上、引き止めるようなことは言わなかった。
それでいい。
それが普通だ。
私は玄関で靴を脱ぎ、ゲストルームに置いていた荷物をまとめた。
服。
洗面用具。
通勤用の細々したもの。
たった数週間のことだったのに、スーツケースに詰めていくたびに、自分がここで暮らしていた時間が一つずつ片づけられていくような気がした。
借りていた部屋着は、洗濯して紙袋に入れてある。
それを持ってリビングへ戻ると、先生は何も言わずに待っていた。
「これ、部屋着です。洗濯してあります」
「ありがとう」
先生が受け取る。
それから私は、バッグの中から封筒を取り出した。
「あと、これも」
封筒を差し出すと、先生の視線が一瞬だけそこに落ちた。
中身が何かは、言わなくても分かったと思う。
先生はすぐには受け取らなかった。
ほんの少しだけ、間があった。
それは、気のせいと言えば気のせいになるくらいの短い時間だった。
でも、私は見てしまった。
先生の手が、わずかに止まったことを。
「合鍵です」
自分で言うと、胸の奥が少し痛んだ。
「お借りして、ありがとうございました」
先生は、ゆっくりと封筒を受け取った。
「……うん」
その声は、いつもより少し低かった。
「分かった」
それだけだった。
受け取った封筒を、先生はすぐにはどこにも置かなかった。
指先で持ったまま、少しだけ視線を落としている。
その一瞬が、終わりをきれいに片づけようとしていた私の胸に、妙に引っかかった。
「本当に、お世話になりました」
「大げさだよ」
「大げさじゃないです。先生がいなかったら、かなり困っていたと思います」
「困ってたなら、役に立ててよかった」
先生はそう言って、少しだけ笑った。
その笑い方まで、いつも通りだった。
だから私も、ちゃんと笑わなければいけないと思った。
最後くらい、普通に終わらせなければいけない。
そう思って、私はスーツケースの持ち手を握った。
「ありがとうございました」
笑って言ったつもりだった。
ちゃんと、いつもの顔で言えたつもりだった。
先生に余計な気を遣わせないように。
これ以上、何も残さないように。
私は玄関へ向かい、靴を履いた。
扉に手をかける。
冷たい金属の感触が、指先に触れた。
この扉を出たら、私は自分の部屋に戻る。
明日からは、また一人の生活に戻る。
それだけのこと。
何もおかしくない。
何も間違っていない。
扉を開けると、廊下の空気が少しだけ流れ込んできた。
「綾瀬さん」
後ろから、先生の声がした。
私は振り向かなかった。
振り向けなかった。
ちゃんと笑えたのだろうか。
最後の顔は、崩れていなかっただろうか。
「綾瀬さん、待って」
先生の手が、私の腕に触れた。
思わず振り向く。
その瞬間、先生の表情が変わった。
いつもの穏やかな顔ではなかった。
少しだけ息を呑んだように、私を見ていた。
「なんで……」
先生の声が、低く揺れた。
「なんで泣いてるの?」
泣いてる?
私が?
涙?
自分でも気づかなかった。
笑顔でお別れしたはずだった。
笑っていると思っていたのに。
頬に触れようとして、指先が止まる。
濡れていた。
「すみません……」
声が、思ったよりも頼りなく出た。
「泣くつもりじゃ、なかったんです」
「そんな言葉が聞きたいんじゃないよ」
先生の声は、責めているわけではなかった。
でも、いつもより余裕がなかった。
「本当に、泣くつもりは……」
言いかけたところで、視界がぼやけた。
滲んだ視界の中で、先生の顔が歪む。
溢れてくるのは涙なのか、感情なのか、自分でも分からなかった。
自分の足で立っているのかさえ、曖昧になる。
先生は、私の腕をそっと引いた。
強くではない。
けれど、廊下に出たままにはしてくれなかった。
私が玄関の内側へ戻ると、先生は背後の扉を静かに閉めた。
かちり、と小さな音がする。
外の空気が、そこで途切れた。
それと同時に、ぎりぎり保っていた何かまで途切れた気がした。
膝から力が抜けそうになった瞬間、先生の腕に包まれた。
強く閉じ込めるような抱き方ではなかった。
でも、崩れそうになった体を支えるには十分な腕だった。
「なんで泣いてるのか、理由を教えて」
耳元で、先生の声がした。
私は首を振った。
「……泣いてません」
認めたくなかった。
自分が泣いていることも。
ここから出るのが苦しいことも。
先生の腕の中にいると、少しだけ息ができることも。
全部、認めたくなかった。
「泣いてるよ」
先生の声が、少しだけ近くなる。
「俺が見てる」
その言葉に、また涙が落ちた。
もう、ごまかせなかった。
泣いていないと言い張るには、頬が濡れすぎていた。
声も、息も、全部ばらばらだった。
先生の腕の中で、私は小さく息を吸った。
「……分からないんです」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
「何が?」
「どうして、泣いてるのか」
先生は何も言わなかった。
ただ、私を支える腕を少しだけ緩めた。
離そうとしたのではない。
私が息をしやすいように、距離を作ってくれたのだと分かった。
「帰れるんです」
私は、言葉を探しながら続けた。
「部屋も直ってて、住めるって言われて、何も問題ないんです」
「うん」
「だから、帰ればいいだけなんです」
「うん」
「なのに……」
そこから先が、うまく言えなかった。
帰ればいいだけ。
本当に、それだけのはずだった。
なのに、体が動かなかった。
扉を開けた瞬間、胸の奥がほどけるみたいに痛くなった。
ここを出ていくことが、こんなに苦しいなんて思わなかった。
「何もなかったみたいに戻るのが……」
声が震えた。
「少し、苦しかったんです」
先生の腕が、わずかに強くなった。
ほんの少し。
でも、その変化を私は感じ取ってしまった。
「何もなかったみたいに?」
低い声で、先生が繰り返す。
私は頷いた。
「はい」
「ここにいたことも、先生に助けてもらったことも、朝に顔を合わせたことも、病院では何も変わらなかったことも……」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなっていく。
「全部、ちゃんと終わらせなきゃいけないと思ってました」
「うん」
「でも、終わったことにするのが、苦しかったんです」
口にした瞬間、涙がまた落ちた。
言ってしまった。
言葉にしてしまった。
終わらせたくない。
たぶん、そういうことなのだと思う。
でも、その言葉だけはまだ言えなかった。
先生はしばらく黙っていた。
背中に回された手が、動かない。
その沈黙が、いつもの先生らしくなかった。
病院では、どんな場面でも整っている人。
誰に対しても穏やかで、必要な言葉を過不足なく選べる人。
その先生が、今は何も言わない。
言葉を探しているように見えた。
やがて、先生はゆっくりと腕をほどいた。
離されたのに、突き放された感じはしなかった。
ただ、私の顔を見るための距離だった。
先生は一歩だけ下がり、私を正面から見た。
涙を拭おうとはしない。
触れたまま、答えを引き出そうともしない。
それなのに、その目は、逃がしてくれなかった。
「綾瀬さん」
低い声で呼ばれて、胸が嫌な音を立てた。
「はい」
「聞いていい?」
私は答えられなかった。
聞かれる前から、何を聞かれるのか分かってしまった気がした。
でも、逃げることもできなかった。
先生は、少しだけ迷うように息をついた。
それでも、視線は逸らさなかった。
「俺のこと、どう思ってるの?」
息が止まった。
すぐには、答えられなかった。
胸の奥にあるものは、たしかに形を持ち始めている。
それなのに、言葉にした瞬間、何かが決定的に変わってしまう気がした。
先生はもう、私に触れていない。
抱きしめてもいない。
それでも、さっきよりずっと近くにいる気がした。
返したはずの合鍵は、もう私の手の中にはない。
けれど、閉めたはずの扉の向こう側に、まだ私は出られないでいる。
玄関の足元に置かれたスーツケースだけが、帰る準備を終えたまま、静かにそこに残っていた。
その問いだけが、二人の間に残った。
いつも通りに申し送りをして、いつも通りに記録を確認して、いつも通りに更衣室で白衣を脱いだ。
けれど、ロッカーの扉を閉めた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
今日で終わる。
そう思ったからだ。
火事の日から、数週間が過ぎた。
最初は、ただ避難する場所が必要だった。
ホテルではなく、藤崎先生の家に泊めてもらうことになったのは、今でも少し信じられない。
けれど、その生活は思っていたよりも静かで、穏やかだった。
朝、洗面所の前で鉢合わせないように声をかけてくれること。
冷蔵庫に、いつの間にか私が食べやすいものが増えていたこと。
病院では何もなかった顔をして、家に帰ると少しだけ空気が変わること。
それらは全部、私の生活の中に、当たり前みたいに入り込んでいた。
でも、本当は当たり前ではない。
私には帰る部屋がある。
今日、そこへ戻る。
それだけのことだった。
病院を出ると、私は一度、自分の部屋へ向かった。
管理会社の人が来てくれて、室内の確認はすぐに終わった。
壁紙の一部は張り替えられていて、焦げた匂いも、ほとんど分からなくなっていた。
水回りも問題ない。
電気も使える。
玄関の鍵も、ちゃんとかかる。
「もう通常通り住んでいただいて大丈夫です」
そう言われて、私は小さく頭を下げた。
大丈夫。
住める。
ここが、私の部屋だ。
そう何度も自分に言い聞かせるように、室内を見回した。
数週間前まで、ここで普通に暮らしていた。
仕事から帰って、服を脱いで、シャワーを浴びて、適当に食事をして、明日の準備をして眠る。
誰にも気を遣わない。
誰にも見られない。
誰にも乱されない。
それが、私にとって一番落ち着く生活だったはずなのに。
部屋の中は、妙に静かだった。
何かが足りないわけではない。
家具も、カーテンも、ベッドも、以前と同じ場所にある。
ただ、そこに自分の生活が戻ってくる実感だけが、なかなか追いついてこなかった。
私は部屋の中をもう一度確認してから、鍵を閉めた。
必要な荷物は、まだ藤崎先生の家にある。
今日は、それを持って帰る。
それから、合鍵を返す。
それだけだ。
そう思いながらバッグの中に手を入れる。
封筒の感触が、指先に触れた。
中には、藤崎先生の家の合鍵が入っている。
本当は、最初から預かるべきではなかったのかもしれない。
でも、あの時は必要だった。
先生も、そう言ってくれた。
だから、借りた。
そして今日、返す。
それだけのことなのに、封筒の角が、指先に妙に痛かった。
藤崎先生の家に着いたのは、夜になってからだった。
いつものようにインターホンを押す前に、私は一度だけ深呼吸をした。
ここへ来るのも、今日で最後になる。
そう思うと、胸の奥がきゅっと狭くなった。
ボタンを押すと、すぐに応答があった。
「はい」
「綾瀬です」
「開けるね」
短いやり取りのあと、オートロックが解除される。
エレベーターで上がる間も、バッグの中の封筒が気になって仕方なかった。
部屋の前に着くと、扉が開いた。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
藤崎先生は、いつも通りだった。
家にいる時の、少しだけ柔らかい表情。
でも、今日はその顔を見るのが、少し苦しかった。
「部屋、大丈夫だった?」
「はい。管理会社の方にも確認してもらって、もう住めるそうです」
「そっか」
先生は、短くそう言った。
それ以上、引き止めるようなことは言わなかった。
それでいい。
それが普通だ。
私は玄関で靴を脱ぎ、ゲストルームに置いていた荷物をまとめた。
服。
洗面用具。
通勤用の細々したもの。
たった数週間のことだったのに、スーツケースに詰めていくたびに、自分がここで暮らしていた時間が一つずつ片づけられていくような気がした。
借りていた部屋着は、洗濯して紙袋に入れてある。
それを持ってリビングへ戻ると、先生は何も言わずに待っていた。
「これ、部屋着です。洗濯してあります」
「ありがとう」
先生が受け取る。
それから私は、バッグの中から封筒を取り出した。
「あと、これも」
封筒を差し出すと、先生の視線が一瞬だけそこに落ちた。
中身が何かは、言わなくても分かったと思う。
先生はすぐには受け取らなかった。
ほんの少しだけ、間があった。
それは、気のせいと言えば気のせいになるくらいの短い時間だった。
でも、私は見てしまった。
先生の手が、わずかに止まったことを。
「合鍵です」
自分で言うと、胸の奥が少し痛んだ。
「お借りして、ありがとうございました」
先生は、ゆっくりと封筒を受け取った。
「……うん」
その声は、いつもより少し低かった。
「分かった」
それだけだった。
受け取った封筒を、先生はすぐにはどこにも置かなかった。
指先で持ったまま、少しだけ視線を落としている。
その一瞬が、終わりをきれいに片づけようとしていた私の胸に、妙に引っかかった。
「本当に、お世話になりました」
「大げさだよ」
「大げさじゃないです。先生がいなかったら、かなり困っていたと思います」
「困ってたなら、役に立ててよかった」
先生はそう言って、少しだけ笑った。
その笑い方まで、いつも通りだった。
だから私も、ちゃんと笑わなければいけないと思った。
最後くらい、普通に終わらせなければいけない。
そう思って、私はスーツケースの持ち手を握った。
「ありがとうございました」
笑って言ったつもりだった。
ちゃんと、いつもの顔で言えたつもりだった。
先生に余計な気を遣わせないように。
これ以上、何も残さないように。
私は玄関へ向かい、靴を履いた。
扉に手をかける。
冷たい金属の感触が、指先に触れた。
この扉を出たら、私は自分の部屋に戻る。
明日からは、また一人の生活に戻る。
それだけのこと。
何もおかしくない。
何も間違っていない。
扉を開けると、廊下の空気が少しだけ流れ込んできた。
「綾瀬さん」
後ろから、先生の声がした。
私は振り向かなかった。
振り向けなかった。
ちゃんと笑えたのだろうか。
最後の顔は、崩れていなかっただろうか。
「綾瀬さん、待って」
先生の手が、私の腕に触れた。
思わず振り向く。
その瞬間、先生の表情が変わった。
いつもの穏やかな顔ではなかった。
少しだけ息を呑んだように、私を見ていた。
「なんで……」
先生の声が、低く揺れた。
「なんで泣いてるの?」
泣いてる?
私が?
涙?
自分でも気づかなかった。
笑顔でお別れしたはずだった。
笑っていると思っていたのに。
頬に触れようとして、指先が止まる。
濡れていた。
「すみません……」
声が、思ったよりも頼りなく出た。
「泣くつもりじゃ、なかったんです」
「そんな言葉が聞きたいんじゃないよ」
先生の声は、責めているわけではなかった。
でも、いつもより余裕がなかった。
「本当に、泣くつもりは……」
言いかけたところで、視界がぼやけた。
滲んだ視界の中で、先生の顔が歪む。
溢れてくるのは涙なのか、感情なのか、自分でも分からなかった。
自分の足で立っているのかさえ、曖昧になる。
先生は、私の腕をそっと引いた。
強くではない。
けれど、廊下に出たままにはしてくれなかった。
私が玄関の内側へ戻ると、先生は背後の扉を静かに閉めた。
かちり、と小さな音がする。
外の空気が、そこで途切れた。
それと同時に、ぎりぎり保っていた何かまで途切れた気がした。
膝から力が抜けそうになった瞬間、先生の腕に包まれた。
強く閉じ込めるような抱き方ではなかった。
でも、崩れそうになった体を支えるには十分な腕だった。
「なんで泣いてるのか、理由を教えて」
耳元で、先生の声がした。
私は首を振った。
「……泣いてません」
認めたくなかった。
自分が泣いていることも。
ここから出るのが苦しいことも。
先生の腕の中にいると、少しだけ息ができることも。
全部、認めたくなかった。
「泣いてるよ」
先生の声が、少しだけ近くなる。
「俺が見てる」
その言葉に、また涙が落ちた。
もう、ごまかせなかった。
泣いていないと言い張るには、頬が濡れすぎていた。
声も、息も、全部ばらばらだった。
先生の腕の中で、私は小さく息を吸った。
「……分からないんです」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
「何が?」
「どうして、泣いてるのか」
先生は何も言わなかった。
ただ、私を支える腕を少しだけ緩めた。
離そうとしたのではない。
私が息をしやすいように、距離を作ってくれたのだと分かった。
「帰れるんです」
私は、言葉を探しながら続けた。
「部屋も直ってて、住めるって言われて、何も問題ないんです」
「うん」
「だから、帰ればいいだけなんです」
「うん」
「なのに……」
そこから先が、うまく言えなかった。
帰ればいいだけ。
本当に、それだけのはずだった。
なのに、体が動かなかった。
扉を開けた瞬間、胸の奥がほどけるみたいに痛くなった。
ここを出ていくことが、こんなに苦しいなんて思わなかった。
「何もなかったみたいに戻るのが……」
声が震えた。
「少し、苦しかったんです」
先生の腕が、わずかに強くなった。
ほんの少し。
でも、その変化を私は感じ取ってしまった。
「何もなかったみたいに?」
低い声で、先生が繰り返す。
私は頷いた。
「はい」
「ここにいたことも、先生に助けてもらったことも、朝に顔を合わせたことも、病院では何も変わらなかったことも……」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなっていく。
「全部、ちゃんと終わらせなきゃいけないと思ってました」
「うん」
「でも、終わったことにするのが、苦しかったんです」
口にした瞬間、涙がまた落ちた。
言ってしまった。
言葉にしてしまった。
終わらせたくない。
たぶん、そういうことなのだと思う。
でも、その言葉だけはまだ言えなかった。
先生はしばらく黙っていた。
背中に回された手が、動かない。
その沈黙が、いつもの先生らしくなかった。
病院では、どんな場面でも整っている人。
誰に対しても穏やかで、必要な言葉を過不足なく選べる人。
その先生が、今は何も言わない。
言葉を探しているように見えた。
やがて、先生はゆっくりと腕をほどいた。
離されたのに、突き放された感じはしなかった。
ただ、私の顔を見るための距離だった。
先生は一歩だけ下がり、私を正面から見た。
涙を拭おうとはしない。
触れたまま、答えを引き出そうともしない。
それなのに、その目は、逃がしてくれなかった。
「綾瀬さん」
低い声で呼ばれて、胸が嫌な音を立てた。
「はい」
「聞いていい?」
私は答えられなかった。
聞かれる前から、何を聞かれるのか分かってしまった気がした。
でも、逃げることもできなかった。
先生は、少しだけ迷うように息をついた。
それでも、視線は逸らさなかった。
「俺のこと、どう思ってるの?」
息が止まった。
すぐには、答えられなかった。
胸の奥にあるものは、たしかに形を持ち始めている。
それなのに、言葉にした瞬間、何かが決定的に変わってしまう気がした。
先生はもう、私に触れていない。
抱きしめてもいない。
それでも、さっきよりずっと近くにいる気がした。
返したはずの合鍵は、もう私の手の中にはない。
けれど、閉めたはずの扉の向こう側に、まだ私は出られないでいる。
玄関の足元に置かれたスーツケースだけが、帰る準備を終えたまま、静かにそこに残っていた。
その問いだけが、二人の間に残った。