光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第23話 帰るはずだった日

火事の日から、数週間が過ぎた。

仮住まいは、少しずつ日常になっていた。

最初の数日は、すべてが落ち着かなかった。

合鍵を持つこと。
理久の部屋に戻ること。
同じリビングに自分の気配があること。
洗面所の使用時間を気にすること。
家の中なのに、必要なことをスマホで送ること。

全部が、仮のものだった。

ここは自分の家ではない。
ここは藤崎先生の家だ。
私は一時的に避難しているだけ。

そう、何度も自分に言い聞かせた。

けれど、人は慣れてしまう。

朝、冷蔵庫にヨーグルトが入っていること。

帰宅すると、廊下の小さな灯りがついていること。

準夜勤明けの日、真っ暗ではない部屋に入れること。

冷蔵庫に水が補充されていること。

リビングのテーブルに、短いメモが置かれていること。

『無理しないで』

それだけの文字を見て、少しだけ息ができること。

最初は、全部に戸惑った。

距離の近さにも。
踏み込まれなさにも。
理久が何も聞かずに、必要なものだけを置いていくことにも。

でも、いつの間にかそれは、美月の一日の中に入り込んでいた。

大したことないホテル。

仮住まい。

避難先。

そう言い換えていた場所は、いつの間にか少しだけ、帰る場所の顔をし始めていた。

だから、管理会社から連絡が来た時、美月は一瞬だけ言葉を失った。

勤務の休憩中だった。

ナースステーションの隅で、スマホを確認した時。

画面に表示された件名を見て、美月は指を止めた。

『修繕完了のお知らせ』

本文には、必要なことが淡々と書かれていた。

室内の修繕が完了したこと。
清掃も終了していること。
管理会社立ち会いのもと、室内確認が可能なこと。
確認後は、通常通り住める状態であること。

当然の連絡だった。

待っていた連絡のはずだった。

やっと自分の部屋に戻れる。

迷惑をかけ続けなくて済む。

藤崎先生の家にいる理由が、なくなる。

そう思った瞬間、美月の胸の奥が少しだけ沈んだ。

寂しい。

そう思ってしまった自分に、さらに驚いた。

部屋が直ったのに。

帰る場所が戻ったのに。

どうして、寂しいと思うのだろう。

「綾瀬さん?」

後輩の声に、美月は顔を上げた。

「大丈夫ですか?」

「あ、ごめん。大丈夫」

また言ってしまった。

大丈夫。

便利な言葉。

後輩は少し心配そうに見たけれど、それ以上は聞かなかった。

美月はスマホの画面を伏せる。

勤務中。

今は勤務中。

自分の感情を考えている場合ではない。

そう思って、記録画面へ視線を戻した。

けれど、指先にはまだ、さっき読んだ文面が残っているような気がした。

修繕が完了しました。

通常通りお住まいいただけます。

通常通り。

自分の部屋へ戻る。

それが、普通。

それが、本来の生活。

そう分かっているのに、胸の奥だけが、うまく納得しなかった。

* * *

その夜、美月が理久のマンションへ戻ると、廊下の灯りがいつものように点いていた。

「……お邪魔します」

小さく言って、靴を脱ぐ。

その言葉も、最近少しだけ苦しくなっている。

お邪魔します。

自分はここにお邪魔している。

そう言い聞かせるための言葉。

けれど、玄関の匂いも、廊下の明かりも、リビングの静けさも、もう完全な他人のものには見えなかった。

美月はゲストルームへ荷物を置いた。

スマホを取り出し、管理会社からのメールをもう一度開く。

何度読んでも、内容は変わらない。

帰れる。

美月はしばらく画面を見つめてから、リビングへ向かった。

理久は、ソファでタブレットを見ていた。

白いシャツに黒のパンツ。

病院の藤崎先生ではないけれど、家の中でも相変わらず整っている。

美月が入ると、理久は顔を上げた。

「おかえり」

美月は一瞬、息を止めた。

最近、理久は時々その言葉を使う。

まだ慣れない。

慣れてはいけない気もする。

「……お邪魔します」

いつものように返すと、理久は少しだけ笑った。

「まだそっちなんだ」

「そっちです」

「そっか」

それ以上は言わない。

からかいすぎない。

その距離が、今は余計に胸に残った。

美月は、テーブルの端に立ったまま言った。

「管理会社から連絡がありました」

理久の視線が、少しだけ変わる。

「うん」

「部屋の修繕が終わったそうです」

理久は、タブレットを持つ手を一瞬だけ止めた。

本当に一瞬。

けれど、美月には分かった。

その一瞬に、理久が何かを飲み込んだことが。

でも、次に顔を上げた時には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。

「よかったね」

その声は、優しかった。

正しくて、乱れなくて、ちゃんとしていた。

美月は小さく頷く。

「はい」

やっと戻れるのだから、よかった。

そう返すべきだった。

けれど、声が少しだけ遅れた。

「明後日、室内確認に行く予定です」

「管理会社の人も来る?」

「はい」

「じゃあ、一人ではないんだね」

「はい。大丈夫です」

理久が、少しだけこちらを見る。

「二回言う?」

美月は首を横に振った。

「今日は言いません」

「そっか」

短い沈黙。

美月はそれを埋めるように続けた。

「荷物も、その日に少しずつ戻そうと思います」

「手伝うよ」

すぐに返ってきた。

美月は慌てて首を振る。

「大丈夫です。最初に持ってきた分だけですから」

「遠慮しなくていい」

「いえ。本当に大丈夫です」

理久は、それ以上押さなかった。

「分かった」

その一言が、思ったより胸に刺さった。

引き止められなかったことに、ほっとしたはずなのに。

少しだけ、苦しかった。

理久はタブレットをテーブルに置き、美月を見る。

「何かあったら、連絡して」

「はい」

会話は普通だった。

普通すぎるくらいだった。

理久は無理に引き止めない。

困った顔もしない。

寂しそうな顔もしない。

ただ、ちゃんと受け止めてくれる。

それがありがたいはずなのに。

美月は、自分の胸の奥がじわじわと重くなるのを感じていた。

「今日は、早めに休みます」

そう言うと、理久は小さく頷いた。

「うん。そうした方がいい」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

いつもの短いやり取り。

美月はリビングを出て、ゲストルームへ戻った。

ドアを閉める。

部屋の中は静かだった。

ベッド。
デスク。
クローゼット。
借りているタオル。
少し増えた自分の荷物。

ここに来た夜は、すべてが他人のものに見えた。

白すぎるシーツ。
きれいに整えられた机。
空っぽのクローゼット。
使っていいと言われたタオル。

それらは全部、自分が一時的に借りているものだった。

でも今は、少しだけ違う。

デスクの端には、自分のヘアゴムが置いてある。

椅子の横には、仕事用のバッグがある。

クローゼットには、数枚の服がかかっている。

洗面所の端には、化粧品を置かせてもらっている。

仮のものなのに。

仮のはずなのに。

美月はベッドに腰を下ろし、小さく息を吐いた。

帰る。

自分の部屋へ。

それでいい。

それが正しい。

ここに長くいてはいけない。

そう思えば思うほど、胸の奥が重くなった。

* * *

翌日、美月は仕事の合間に管理会社へ返信をした。

室内確認の日程。
鍵の受け渡し。
残っている荷物の確認。
火災保険へ提出する書類。

必要なことを一つずつ処理していく。

仕事も、事務手続きも、優先順位をつければ動ける。

それは美月の得意なことだった。

だから、帰る準備も淡々と進められるはずだった。

その夜、理久の部屋へ戻ってから、美月はゲストルームの荷物を少しずつまとめ始めた。

スーツケースを開く。

服を畳む。

使わなかったものから入れていく。

持ってきた時より、荷物が少しだけ増えている。

コンビニで買ったヘアクリップ。
予備の靴下。
途中で買い足した化粧水。
使いかけのハンドクリーム。

一つずつ手に取るたびに、ここで過ごした日々が余計に具体的になる。

火事の日。

最初の朝。

大したことないホテル。

廊下の灯り。

スープ。

雷の夜。

何もなかった顔。

いってらっしゃい。

行ってきます。

その全部が、荷物の隙間からこぼれてくるようだった。

美月は手を止めた。

だめだ。

ただ片づけているだけなのに、感傷的になってどうする。

帰る準備をしているだけ。

避難生活を終えるだけ。

そう言い聞かせて、もう一度服を畳む。

けれど、手は思ったより遅かった。

少し片づけては、止まる。

また入れては、止まる。

結局、半分ほど詰めたところで、美月はスーツケースを閉じた。

今日は、ここまででいい。

そう決めて、デスクの上を片づける。

書類。
充電器。
ヘアゴム。
ペン。

最後に、引き出しの中へ入れていた合鍵を取り出した。

小さな金属の重みが、手のひらに乗る。

最初に渡された時、その重さに戸惑った。

藤崎理久の家の合鍵。

持っていていいものなのか分からなかった。

けれど今は。

返すことの方が、重い。

美月はしばらく鍵を見つめていた。

何を考えているのだろう。

ただの鍵だ。

仮住まいが終わるだけ。

火事の後始末がひと段落するだけ。

藤崎先生にも、これ以上迷惑をかけずに済む。

良いことしかない。

そう言い聞かせて、美月は小さな封筒を取り出した。

合鍵を中へ入れる。

封をする。

デスクの上に置く。

それだけの動作に、やけに時間がかかった。

封筒の白さが、やけに目立つ。

美月はベッドの端に座り、その封筒を見つめた。

明日。

明日、これを返す。

明日、自分の部屋へ戻る。

明日、ここを出る。

そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

帰るはずだった。

最初から、そのはずだった。

なのに今は。

その“はず”が、こんなに重い。

美月は部屋の明かりを少し落とした。

眠らなければならない。

明日も仕事がある。
管理会社との確認もある。
荷物も運ばなければならない。

やることは、たくさんある。

だから、眠らなければ。

ベッドに入って目を閉じる。

けれど、デスクの上に置いた封筒の存在だけが、暗い部屋の中でもずっと消えなかった。
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