光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第25話 今日は帰らない

「俺のこと、どう思ってるの?」

先生の問いに、息が止まった。

玄関の扉は閉まっている。

外の空気は、もう入ってこない。

それなのに、足元だけがまだ冷えているような気がした。

先生は、もう私に触れていなかった。

抱きしめてもいない。

一歩分、距離を取って、私の前に立っている。

それは、逃がさないための距離ではなかった。

私が自分で答えられるように、空けられた距離だった。

それなのに、さっき腕の中にいた時よりも、ずっと近くにいる気がした。

どう思っているのか。

考えたことがなかったわけではない。

考えないようにしてきただけだ。

優しい。

誠実。

信用できる。

頼ってもいいのかもしれないと思わせてくれる。

でも、それだけでは足りないことを、もう私は分かっていた。

分かっているのに、その先へ行くのが怖い。

「先生のこと……」

そこまで言って、言葉が止まった。

好き。

その二文字だけが、喉の奥で止まる。

言葉にしたら、形になる。

形になったら、もうなかったことにはできない。

だから、言えなかった。

「……だと思います」

やっと出た声は、あまりにも中途半端だった。

自分でも、何を言ったのか分からない。

言ったようで、何も言っていない。

先生の眉が、かすかに動いた。

「……え?」

その声は、聞こえなかったからではなかった。

本来あるはずの言葉だけが抜け落ちたことに、一瞬、追いつかなかったような声だった。

「聞こえなかったんだけど」

私は視線を伏せた。

聞こえなかったのではない。

言っていないのだ。

先生も、たぶん分かっている。

分かっていて、聞いている。

ずるい。

でも、私もずるい。

言えないくせに、離れられない。

帰ろうとしているくせに、泣いている。

何も認めようとしないくせに、先生の前から動けない。

「何も、言ってないので……」

そう言うと、先生は黙った。

笑わなかった。

ただ、困ったように、ほんの少しだけ息を吐いた。

その沈黙が、余計に苦しかった。

言わなかった言葉だけが、先生にも聞こえてしまった気がした。

好き。

たった二文字なのに、どうしても声にならなかった。

私はその沈黙に耐えられなくなって、顔を上げた。

「先生は……」

先生の目が、わずかに揺れた。

「先生は、私のこと……どう思ってるんですか」

聞いてから、しまったと思った。

自分は答えられなかったくせに、先生には答えを求めている。

でも、聞かずにはいられなかった。

私だけがこんなふうに乱れているのは、苦しかった。

先生はすぐには答えなかった。

いつものように整った表情ではなかった。

病院で見る、余裕のある藤崎先生でもなかった。

何かを言おうとして、言えずにいる顔だった。

その沈黙の中に、私には聞こえない言葉がある気がした。

けれど先生は、それを飲み込むように目を伏せた。

そして、低い声で言った。

「……帰ってほしく、ないと思った」

好きだとは、言わなかった。

大切だとも、言わなかった。

でも、その言葉だけは、逃げずに置かれた。

帰ってほしくない。

それは曖昧なのに、今の私には十分すぎるほど強かった。

先生は、そこで一歩下がった。

私が自分で立てる距離だった。

私が自分で選べる距離だった。

「帰るなら、送る」

先生は静かに言った。

「スーツケースも持つし、部屋まで行く。必要なら、部屋の確認も一緒にする」

私は何も言えなかった。

「でも、今日、自分の部屋に帰るのがつらいなら、無理に帰らなくていい」

自分の部屋に帰る。

その言葉が、胸の奥で揺れる。

帰る場所はある。

帰れる状態にもなっている。

なのに、その場所へ足が向かない。

先生は、私の迷いを見ているように続けた。

「決めるのは、綾瀬さん」

帰ってほしくないと言ったのに。

それでも、最後は私に選ばせる。

先生はいつもそうだ。

踏み込んでくるくせに、最後の一線は越えない。

優しいのか、ずるいのか。

分からない。

「綾瀬さん」

「はい」

「……美月って、呼んでいい?」

一瞬、意味が分からなかった。

「え?」

先生は少しだけ目を伏せた。

それから、もう一度、私を見る。

「美月」

名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が跳ねた。

病棟で呼ばれる「綾瀬さん」ではない。

誰にでも向けられる、整った声でもない。

今、自分だけに向けられた名前。

私は思わず視線を逸らした。

「……まだ、いいとは言ってません」

「うん」

先生の声は、少しだけ甘かった。

「でも、だめとも言われてない……よね?」

そんなふうに言われると、直視できない。

帰る家はある。

自分の部屋は、もう直っている。

ここにいる理由は、もうない。

それなのに、気持ちはまだ、この部屋に留まりたいと思っている。

名前を呼ばれると、心がそれを受け入れてしまう。

この気持ちに名前をつけるとするなら。

それは、きっと。

けれど、まだ認めたくなかった。

認めてしまうのが怖かった。

私は、玄関に置かれたスーツケースを見た。

帰る準備は、もうできている。

このまま持って出ればいい。

自分の部屋に戻ればいい。

何も間違っていない。

なのに、足は動かなかった。

「……今日は」

先生は黙って待っていた。

「今日は、戻します」

先生の目が、少しだけ揺れた。

「荷物を?」

私は頷いた。

「荷物を、ここに」

それだけ言うと、胸がいっぱいになった。

先生は何も言わずに、一歩下がった。

玄関の中に、私のための場所を空けるように。

私はスーツケースの持ち手を握った。

一度履いた靴を、もう一度脱ぐ。

帰るために履いた靴を、帰らないために脱ぐ。

それだけのことなのに、指先が震えた。

スーツケースのキャスターが、小さく床を鳴らす。

さっきまで外へ向かっていた荷物が、もう一度この家の中へ戻っていく。

先生は何も言わなかった。

ただ、私が自分で動くのを待っていた。

靴を脱ぎ終えて顔を上げると、先生が手元の封筒を差し出した。

さっき、私が返した合鍵だった。

「これ」

私は封筒を見つめた。

「返したものです」

「うん」

「受け取ったじゃないですか」

「受け取った」

先生は静かに頷いた。

「でも、今日ここにいるなら、持ってて」

私はすぐには受け取れなかった。

受け取ったら、本当に戻ってきたことになる気がした。

ただ泊まる場所としてではなく。

ただ避難先としてではなく。

自分で、ここにいることを選んだ証拠になる。

先生は急かさなかった。

封筒を差し出したまま、私が受け取るのを待っている。

「……今日だけです」

ようやくそう言うと、先生は少しだけ笑った。

「うん」

「今日だけ、借ります」

「分かった」

私は封筒を受け取った。

返したはずの合鍵が、もう一度、手のひらに戻る。

さっきより、ずっと重い。

でも、嫌ではなかった。

今日は帰らない。

この選択が正しいのかは、分からない。

けれど、私がこの選択をしたことだけは、紛れもない事実だった。
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