光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第26話 確かめるための珈琲
再び、ゲストルームに戻ってきてしまった。
さっきまでは、出ていくつもりだった部屋。
荷物をまとめて、自分の気配を少しずつ消して、もう戻らないつもりで扉を閉めたはずの部屋。
そこに、またスーツケースを置いている。
美月は、ベッドの端に腰を下ろした。
……何をしているんだろう、私は。
泣いた。
引き止められた。
抱きしめられた。
好きとも言えなかった。
帰るとも言えなかった。
そして結局、今日は帰らないと自分で決めた。
自分で決めた。
そこだけは、間違えてはいけない。
先生に命令されたわけではない。
流されたわけでもない。
帰ることもできた。
部屋も直っている。
管理会社の人にも、もう住めると言われた。
それなのに私は、靴を脱いで、スーツケースをもう一度この家の中へ入れた。
今日は帰らない。
そう決めた。
でも。
今日だけ、のはずだ。
今日だけ。
それ以上の意味は、まだない。
ない、はずだ。
美月は両手で顔を覆った。
どうなるの、これ。
恋人ではない。
同居でもない。
避難生活は、もう終わっている。
それなのに、ここにいる。
何ひとつ、名前がついていない。
名前がついていないものは、扱い方が分からない。
その時、ドアが軽くノックされた。
トントン。
「美月。珈琲、入れたけど飲む?」
名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。
まだ慣れない。
でも、嫌ではなかった。
それが一番困る。
「……行きます」
美月は小さく息を吐いてから立ち上がった。
リビングに出ると、テーブルにはマグカップが二つ置かれていた。
夜景の見える窓。
柔らかい照明。
さっきまで玄関で泣いていた自分が嘘のように、部屋は静かだった。
藤崎先生は、向かいではなく、少し斜めの席に座っていた。
近すぎない。
でも、遠くもない。
美月が座ると、先生はマグカップを軽く指した。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
美月はマグカップを両手で持った。
ひと口飲む。
香りが柔らかい。
苦すぎず、酸味も強くない。
前に飲んだものより、少し丸い味がした。
「新しい豆にしてみた」
先生が言った。
「どう?」
「……おいしいです」
「好き?」
美月の手が止まった。
今の聞き方。
今、絶対に。
美月はマグカップを見つめたまま、慎重に言葉を選んだ。
「……味は、です」
先生が少し笑った。
「手強いな」
「今のは誘導ですか?」
「普通に聞いただけ」
「普通ではありません。今の流れで“好き?”は、明らかに誘導です」
「…ばれた?」
「ばれます」
先生は悪びれなかった。
むしろ、どこか楽しそうに珈琲を飲んでいる。
「警戒されてるね」
「警戒せざるを得ません」
「でも、飲んではくれるんだ」
「珈琲に罪はありません」
先生は声を出さずに笑った。
その表情は、さっき玄関で私を呼び止めた人と同じなのに、少し違う。
余裕はある。
でも、病院で見る王子の顔ではない。
美月にだけ向ける、少し悪くて、少し嬉しそうな顔。
美月はそれを見て、胸の奥がまた小さく揺れた。
ああ。
この顔が見たかったんだ。
思った瞬間、慌てて珈琲を飲む。
先生は、それを見逃さない。
「今の顔、好きだな」
美月はむせそうになった。
「っ……先生」
「俺は言ったよ」
「何をですか」
「好きって」
「顔の話です」
「うん。まずは顔から」
「段階を踏まないでください」
「踏んだ方がいいかなと思って」
「そういう意味ではありません」
先生は楽しそうに笑う。
美月はマグカップを握りしめながら、少しだけ睨んだ。
「藤崎先生」
「ん?」
「好きって言わせたいんですか」
先生は、今度は少しだけ間を置いた。
そして、まっすぐ美月を見る。
「うん」
あまりにも素直に認められて、美月は言葉を失った。
先生は続ける。
「でも、無理には言わせない」
「……その割には、珈琲で誘導してきました」
「それくらいはいいかなと思って」
「よくありません」
「じゃあ、次はもう少し分かりにくくする」
「そういう問題ではありません」
先生が笑う。
美月も、少しだけ笑いそうになる。
でも、その笑いは完全には隠しきれなかった。
先生はやっぱり見逃さない。
「今のは?」
「何ですか」
「ちょっと笑った」
「気のせいです」
「気のせいじゃない」
「気のせいです」
「二回言った」
美月はマグカップで口元を隠した。
「……珈琲が、おいしかったので」
先生は嬉しそうに目を細める。
「じゃあ、豆は正解」
「はい。豆は」
「俺は?」
美月は、また手を止めた。
この人は本当に油断ならない。
美月は慎重に返す。
「……現在、継続観察中です」
先生は肩を揺らして笑った。
「医療用語で逃げた」
「逃げてません。評価中です」
「じゃあ、改善の見込みは?」
美月は少しだけ視線を落とした。
そして、小さく言う。
「……悪くは、ないです」
先生の表情が少し止まった。
美月はすぐに後悔する。
言いすぎた。
けれど、先生は茶化さなかった。
少しだけ静かに笑った。
その反応が、甘く迫られるよりずっと危険だった。
美月は珈琲をもう一口飲んだ。
「……この珈琲は、本当においしいです」
「好き?」
「好みです」
「なかなか言わないね」
「言いません」
「俺より手強い」
「先生がしつこいんです」
「うん。好きだから」
美月の指が止まった。
今のは、何にかかっているのか。
しつこいのが好きなのか。
自分が好きだからしつこいのか。
聞いたら負け。
絶対に聞いたら負け。
美月は静かに珈琲を飲んだ。
先生は、分かっている顔で微笑んでいる。
この人は、たぶん全部分かっている。
それでも、美月はまだ言わない。
好きって言ったら、きっと何かが形になる。
形になったら、もう戻れない。
そう思うのに。
戻れなくてもいいと思い始めている自分が、一番まずい。
リビングには、珈琲の香りが残っている。
夜景の光が、窓の向こうで静かに滲んでいた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
沈黙は重くなかった。
ただ、終わらせるには少しだけ惜しい静けさだった。
先生が、マグカップを置いた。
「美月」
名前を呼ばれて、美月は顔を上げた。
「さっき、“今日は”って言ってたよね」
美月の背筋が、少しだけ伸びた。
来た。
やっぱり、そこに触れるのだ。
「……言いました」
「今日だけにする?」
美月は答えられなかった。
今日だけ。
そう言った。
自分で言った。
けれど、今ここで「はい」と言えるほど、気持ちは整理できていない。
先生は、そんな美月を急かさなかった。
「さっきは、今日は戻らないって言ってたけど」
静かな声だった。
「もう少しここにいて、自分の気持ちをちゃんと確かめてみたら?」
美月はマグカップを握る手に、少しだけ力を入れた。
「それは……」
言いかけて、顔を上げる。
「それは、先生も同じかもしれませんよ?」
先生の目が、わずかに動いた。
それから、あっさり頷く。
「そうだね」
認めた。
あっさり。
美月は言葉を失った。
なんか、ずるい。
いや、元々こういう人だった。
それは知っている。
否定しない。
逃げない。
でも、核心の言葉だけは、ぎりぎりで置かない。
先生は、ゆっくりと続けた。
「だから、帰ってほしくないと思った、って言ったよね」
「……そうですね」
やっぱりずるい。
好きとは言わない。
でも、好きに限りなく近い場所にある言葉だけを、逃げずに置いてくる。
こちらが動揺することを、分かっているくせに。
先生は、少しだけ表情を和らげた。
「無理に引き止めるつもりはないよ」
「はい」
「でも、今すぐ帰るって決めなくてもいい」
その声は穏やかだった。
穏やかなのに、軽くはなかった。
選ばせるために、わざと余白を残している。
美月には、そう見えた。
「この生活が苦しくなったら、その時に帰ればいい」
「……そんな言い方します?」
「する」
「普通、苦しくなる前提で話します?」
「帰る理由を残しておいた方が、美月はここにいられるでしょ」
美月は黙った。
その通りだった。
ここにいなければいけないと言われたら、たぶん怖くなる。
帰るなと言われたら、逃げたくなる。
でも、苦しくなったら帰ればいいと言われると。
ここにいることを、自分で選べる気がした。
「……そうですね」
美月はマグカップに視線を落とした。
「先生との共同生活に嫌気がさしたら、心置きなく帰ることにします」
先生は、なぜか嬉しそうに笑った。
「うん、楽しみだね」
「楽しみなんですか」
「うん」
「普通、嫌気がさされるのは楽しみじゃないと思います」
「それまでここにいるってことでしょ」
美月は言葉に詰まった。
まただ。
また、こちらの言葉の隙間を拾われた。
先生は、王子のような綺麗な笑顔を向ける。
でも、その笑顔は院内で見るものとは違った。
誰にでも向けられる整った笑顔ではない。
自分だけに向けられる、少し甘くて、少し悪い笑顔。
それがやっぱり、ずるい。
美月はマグカップを両手で包んだ。
「……そうですね」
「ん?」
「楽しみに、ですね」
言ってから、少しだけ変な返しだったと思った。
でも先生は笑った。
「うん。楽しみに」
珈琲の香りが、まだ部屋に残っている。
今日だけ。
そう言って戻したはずの荷物は、もうゲストルームにある。
秘密の同居は、まだ終わらない。
ただ、もう避難だけではなくなっていた。
好きとは言わない。
まだ言わない。
けれど、ここにいることを選んだ。
その事実だけが、珈琲の香りの中で、静かに残っていた。
さっきまでは、出ていくつもりだった部屋。
荷物をまとめて、自分の気配を少しずつ消して、もう戻らないつもりで扉を閉めたはずの部屋。
そこに、またスーツケースを置いている。
美月は、ベッドの端に腰を下ろした。
……何をしているんだろう、私は。
泣いた。
引き止められた。
抱きしめられた。
好きとも言えなかった。
帰るとも言えなかった。
そして結局、今日は帰らないと自分で決めた。
自分で決めた。
そこだけは、間違えてはいけない。
先生に命令されたわけではない。
流されたわけでもない。
帰ることもできた。
部屋も直っている。
管理会社の人にも、もう住めると言われた。
それなのに私は、靴を脱いで、スーツケースをもう一度この家の中へ入れた。
今日は帰らない。
そう決めた。
でも。
今日だけ、のはずだ。
今日だけ。
それ以上の意味は、まだない。
ない、はずだ。
美月は両手で顔を覆った。
どうなるの、これ。
恋人ではない。
同居でもない。
避難生活は、もう終わっている。
それなのに、ここにいる。
何ひとつ、名前がついていない。
名前がついていないものは、扱い方が分からない。
その時、ドアが軽くノックされた。
トントン。
「美月。珈琲、入れたけど飲む?」
名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。
まだ慣れない。
でも、嫌ではなかった。
それが一番困る。
「……行きます」
美月は小さく息を吐いてから立ち上がった。
リビングに出ると、テーブルにはマグカップが二つ置かれていた。
夜景の見える窓。
柔らかい照明。
さっきまで玄関で泣いていた自分が嘘のように、部屋は静かだった。
藤崎先生は、向かいではなく、少し斜めの席に座っていた。
近すぎない。
でも、遠くもない。
美月が座ると、先生はマグカップを軽く指した。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
美月はマグカップを両手で持った。
ひと口飲む。
香りが柔らかい。
苦すぎず、酸味も強くない。
前に飲んだものより、少し丸い味がした。
「新しい豆にしてみた」
先生が言った。
「どう?」
「……おいしいです」
「好き?」
美月の手が止まった。
今の聞き方。
今、絶対に。
美月はマグカップを見つめたまま、慎重に言葉を選んだ。
「……味は、です」
先生が少し笑った。
「手強いな」
「今のは誘導ですか?」
「普通に聞いただけ」
「普通ではありません。今の流れで“好き?”は、明らかに誘導です」
「…ばれた?」
「ばれます」
先生は悪びれなかった。
むしろ、どこか楽しそうに珈琲を飲んでいる。
「警戒されてるね」
「警戒せざるを得ません」
「でも、飲んではくれるんだ」
「珈琲に罪はありません」
先生は声を出さずに笑った。
その表情は、さっき玄関で私を呼び止めた人と同じなのに、少し違う。
余裕はある。
でも、病院で見る王子の顔ではない。
美月にだけ向ける、少し悪くて、少し嬉しそうな顔。
美月はそれを見て、胸の奥がまた小さく揺れた。
ああ。
この顔が見たかったんだ。
思った瞬間、慌てて珈琲を飲む。
先生は、それを見逃さない。
「今の顔、好きだな」
美月はむせそうになった。
「っ……先生」
「俺は言ったよ」
「何をですか」
「好きって」
「顔の話です」
「うん。まずは顔から」
「段階を踏まないでください」
「踏んだ方がいいかなと思って」
「そういう意味ではありません」
先生は楽しそうに笑う。
美月はマグカップを握りしめながら、少しだけ睨んだ。
「藤崎先生」
「ん?」
「好きって言わせたいんですか」
先生は、今度は少しだけ間を置いた。
そして、まっすぐ美月を見る。
「うん」
あまりにも素直に認められて、美月は言葉を失った。
先生は続ける。
「でも、無理には言わせない」
「……その割には、珈琲で誘導してきました」
「それくらいはいいかなと思って」
「よくありません」
「じゃあ、次はもう少し分かりにくくする」
「そういう問題ではありません」
先生が笑う。
美月も、少しだけ笑いそうになる。
でも、その笑いは完全には隠しきれなかった。
先生はやっぱり見逃さない。
「今のは?」
「何ですか」
「ちょっと笑った」
「気のせいです」
「気のせいじゃない」
「気のせいです」
「二回言った」
美月はマグカップで口元を隠した。
「……珈琲が、おいしかったので」
先生は嬉しそうに目を細める。
「じゃあ、豆は正解」
「はい。豆は」
「俺は?」
美月は、また手を止めた。
この人は本当に油断ならない。
美月は慎重に返す。
「……現在、継続観察中です」
先生は肩を揺らして笑った。
「医療用語で逃げた」
「逃げてません。評価中です」
「じゃあ、改善の見込みは?」
美月は少しだけ視線を落とした。
そして、小さく言う。
「……悪くは、ないです」
先生の表情が少し止まった。
美月はすぐに後悔する。
言いすぎた。
けれど、先生は茶化さなかった。
少しだけ静かに笑った。
その反応が、甘く迫られるよりずっと危険だった。
美月は珈琲をもう一口飲んだ。
「……この珈琲は、本当においしいです」
「好き?」
「好みです」
「なかなか言わないね」
「言いません」
「俺より手強い」
「先生がしつこいんです」
「うん。好きだから」
美月の指が止まった。
今のは、何にかかっているのか。
しつこいのが好きなのか。
自分が好きだからしつこいのか。
聞いたら負け。
絶対に聞いたら負け。
美月は静かに珈琲を飲んだ。
先生は、分かっている顔で微笑んでいる。
この人は、たぶん全部分かっている。
それでも、美月はまだ言わない。
好きって言ったら、きっと何かが形になる。
形になったら、もう戻れない。
そう思うのに。
戻れなくてもいいと思い始めている自分が、一番まずい。
リビングには、珈琲の香りが残っている。
夜景の光が、窓の向こうで静かに滲んでいた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
沈黙は重くなかった。
ただ、終わらせるには少しだけ惜しい静けさだった。
先生が、マグカップを置いた。
「美月」
名前を呼ばれて、美月は顔を上げた。
「さっき、“今日は”って言ってたよね」
美月の背筋が、少しだけ伸びた。
来た。
やっぱり、そこに触れるのだ。
「……言いました」
「今日だけにする?」
美月は答えられなかった。
今日だけ。
そう言った。
自分で言った。
けれど、今ここで「はい」と言えるほど、気持ちは整理できていない。
先生は、そんな美月を急かさなかった。
「さっきは、今日は戻らないって言ってたけど」
静かな声だった。
「もう少しここにいて、自分の気持ちをちゃんと確かめてみたら?」
美月はマグカップを握る手に、少しだけ力を入れた。
「それは……」
言いかけて、顔を上げる。
「それは、先生も同じかもしれませんよ?」
先生の目が、わずかに動いた。
それから、あっさり頷く。
「そうだね」
認めた。
あっさり。
美月は言葉を失った。
なんか、ずるい。
いや、元々こういう人だった。
それは知っている。
否定しない。
逃げない。
でも、核心の言葉だけは、ぎりぎりで置かない。
先生は、ゆっくりと続けた。
「だから、帰ってほしくないと思った、って言ったよね」
「……そうですね」
やっぱりずるい。
好きとは言わない。
でも、好きに限りなく近い場所にある言葉だけを、逃げずに置いてくる。
こちらが動揺することを、分かっているくせに。
先生は、少しだけ表情を和らげた。
「無理に引き止めるつもりはないよ」
「はい」
「でも、今すぐ帰るって決めなくてもいい」
その声は穏やかだった。
穏やかなのに、軽くはなかった。
選ばせるために、わざと余白を残している。
美月には、そう見えた。
「この生活が苦しくなったら、その時に帰ればいい」
「……そんな言い方します?」
「する」
「普通、苦しくなる前提で話します?」
「帰る理由を残しておいた方が、美月はここにいられるでしょ」
美月は黙った。
その通りだった。
ここにいなければいけないと言われたら、たぶん怖くなる。
帰るなと言われたら、逃げたくなる。
でも、苦しくなったら帰ればいいと言われると。
ここにいることを、自分で選べる気がした。
「……そうですね」
美月はマグカップに視線を落とした。
「先生との共同生活に嫌気がさしたら、心置きなく帰ることにします」
先生は、なぜか嬉しそうに笑った。
「うん、楽しみだね」
「楽しみなんですか」
「うん」
「普通、嫌気がさされるのは楽しみじゃないと思います」
「それまでここにいるってことでしょ」
美月は言葉に詰まった。
まただ。
また、こちらの言葉の隙間を拾われた。
先生は、王子のような綺麗な笑顔を向ける。
でも、その笑顔は院内で見るものとは違った。
誰にでも向けられる整った笑顔ではない。
自分だけに向けられる、少し甘くて、少し悪い笑顔。
それがやっぱり、ずるい。
美月はマグカップを両手で包んだ。
「……そうですね」
「ん?」
「楽しみに、ですね」
言ってから、少しだけ変な返しだったと思った。
でも先生は笑った。
「うん。楽しみに」
珈琲の香りが、まだ部屋に残っている。
今日だけ。
そう言って戻したはずの荷物は、もうゲストルームにある。
秘密の同居は、まだ終わらない。
ただ、もう避難だけではなくなっていた。
好きとは言わない。
まだ言わない。
けれど、ここにいることを選んだ。
その事実だけが、珈琲の香りの中で、静かに残っていた。