光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第39話 空欄の未来

週が明けて、理久は医局棟の共有スペースで留学候補の資料を見ていた。

博士論文の目処がつき、学位授与までの流れが見え始めてから、留学の話は以前より現実味を帯びていた。

行き先。

期間。

研究テーマ。

受け入れ先。

推薦状。

留学中の所属。

帰国後のポジション。

考えるべきことは、いくつもある。

綾瀬宗一郎。

週末の学会で、初めて言葉を交わした教授。

レジデントの頃から論文で読んできた名前。

発表に指摘をくれた人。

留学について、短くも重い言葉を置いていった人。

何を持って出るかを決めてから行け。

その言葉は、まだ理久の中に残っていた。

医師としては、嬉しかった。

認められた、などと簡単に言うつもりはない。

ただ、見られた。

自分が積み上げてきたものが、あの人の視界に入った。

それは確かに、大きかった。

だからこそ、海外で何を積むのかを、もう一度考え始めていた。

患者を受け持ったり、執刀したりするための留学ではない。

研究留学。

術前画像評価。

症例データの解析。

手術適応の判断。

手術動画やカンファレンスを通して見える、判断の組み立て方。

外でしか見えないものがある。

それは、理久にも分かっていた。

もっと症例を見たい。

もっと先の判断を知りたい。

術前にどこまで見抜けるか。

術中にどこで迷うのか。

その精度を上げたい。

そういう欲は、理久の中にはっきりあった。

「留学?」

背後から声がした。

桐谷だった。

理久は資料から顔を上げる。

「候補だけ」

「候補だけ、って顔じゃないな」

「どういう顔」

「行くやつの顔」

理久は少し眉を上げた。

「決まってない」

「でも、行くだろ」

「簡単に言うね」

「お前なら行く」

桐谷は隣の椅子を引き、勝手に座った。

手にはコンビニのコーヒーを持っている。

「まあ、行ったら教えろよ」

「何で」

「長期休みに遊びに行く」

理久は資料から視線を上げた。

「遊びに?」

「折角だからな。楽しみが一つ増える」

「観光気分?」

「家族旅行」

理久は少し笑った。

「いい身分だな」

「お前が海外にいるなら、宿代くらい浮くだろ」

「泊めるとは言ってない」

「王子は冷たいな」

「その呼び方やめて」

「無理」

桐谷は当然のように言って、コーヒーを飲んだ。

いつも通りの軽口だった。

留学に行くかもしれない。

行ったら遊びに行く。

家族旅行。

ただ、それだけの話だった。

けれど、ひとつだけ、理久の中に残った言葉があった。

家族。

理久は資料に視線を落とした。

今まで、自分の未来にその言葉を置いたことは、ほとんどなかった。

誰かと付き合うことはあった。

一緒に過ごす時間を、心地いいと思ったこともある。

会えば嬉しい。

触れたいと思う。

同じ部屋で黙って過ごすことが楽だと思ったこともある。

でも、その先に生活が続いていくことを、本気で考えたことはなかった。

結婚。

家族。

そういう言葉は、どこか他人のものだった。

仕事をして。

論文を書いて。

症例を積んで。

留学して。

戻ってくる。

自分の未来は、ずっとそういう線でできていた。

そこに誰かがいることを、前提にしたことがなかった。

「何。急に黙って」

桐谷が横から言った。

理久は資料を一枚めくる。

「考えてる」

「留学のこと?」

「そう」

「嘘はついてないけど、全部でもない顔だな」

理久は桐谷を見る。

「顔で判断しすぎ」

「最近、分かりやすいんだよ」

「そう?」

「そう」

桐谷は少し笑った。

「まあ、決まったら言えよ。旅行先の候補に入れるから」

「だから泊めるとは言ってない」

「はいはい」

桐谷は軽く手を振り、立ち上がった。

それ以上は聞いてこなかった。

その距離感が、今は少しありがたかった。

桐谷が去ったあと、理久はもう一度資料に目を落とした。

そこには、行き先や期間、研究テーマ、帰国後のことまで、現実的な項目が並んでいた。

どれも大事なことだった。

具体的にしなければ動けない。

曖昧なままでは、どこにも行けない。

それは分かっている。

けれど、理久の思考は、もう資料だけに戻れなかった。

留学先の病院。

知らない街。

知らない部屋。

英語だけが飛び交うカンファレンス。

自分の判断の甘さを、何度も突きつけられるかもしれない。

それでも行きたいと思う。

そういう場所へ行きたいと思っている。

そして。

その未来を考えた時、当たり前のように美月の顔が浮かんだ。

一緒に来てほしい。

その言葉は、確かに理久の中にあった。

思わないわけがない。

むしろ、思っている。

知らない土地で、うまくいかない日があっても。

帰る部屋に美月がいたらいいと思ってしまう。

朝、同じ部屋でコーヒーを飲んで。

夜、慣れない街を歩いて帰ってきた美月に、おかえりと言って。

慣れない場所で、少し不機嫌になった美月に笑って。

それでも、いつかその街にも二人で慣れていく。

そんな未来を、勝手に想像してしまう。

理久は、資料の端を指で押さえた。

一緒に来てほしい。

言葉にするだけなら簡単だ。

けれど、それはただの恋人への甘い誘いでは済まない。

美月には、10Aがある。

綾瀬宗一郎の娘ではなく、綾瀬美月として立ってきた場所。

患者を見て。

後輩に声をかけて。

病棟の流れを読み、必要なことを言い、時には煙たがられながら、それでも積み重ねてきた時間。

美月はそこで、自分の足で立ってきた。

父の名前から離れて。

父のいない場所で。

自分の仕事を作ってきた。

その場所から、美月を連れ出していいのか。

自分が留学したいから。

自分が一緒にいてほしいから。

それだけで、美月の仕事を動かしていいのか。

理久は息を吐いた。

美月が大切だから、一緒に来てほしい。

でも。

美月が大切だからこそ、簡単には言えない。

その矛盾が、思っていたより重かった。

理久は資料の横に置いたノートを開いた。

行き先。

期間。

研究テーマ。

受け入れ先。

帰国後。

そこまでは書ける。

けれど、その下に「生活」と書いたところで、ペンが止まった。

一緒に来てほしい。

そう書けたら、どれだけ楽だろうと思った。

でも、それは理久の願いであって、美月の答えではない。

理久は、生活の下を空欄のままにした。

未来はまだ、書かない。

美月の名前を、勝手にそこへ置かない。

けれど、その空欄を見た時に、誰の顔を思い浮かべているのかだけは、もう分かっていた。
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