光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第38話 父の名前

「綾瀬宗一郎は、私の父です」

言ってしまってから、美月はマグカップを握る手に力を入れた。

理久はすぐには何も言わなかった。

その沈黙が、怖かった。

父の名前を出すと、いつも何かが変わる。

相手の目が変わる。

距離が変わる。

自分が、自分ではなくなる。

「……知っていたんですか」

美月が聞くと、理久は静かに答えた。

「今日、少しだけ。及川から聞いた」

「そうですか」

及川くんなら言うかもしれない、と思った。

理久が学会で父と話していたなら、知らないままにしておく方が不自然だから。

それでも、自分の口で先に言えなかったことが、少しだけ苦しかった。

「及川くんには、昔、ひどいことを言いました」

「牽制されたって言ってた」

美月は目を伏せた。

「はい」

あの頃の及川くんは、ただ普通に話しかけてきただけだった。

下心があったわけではない。

父に近づこうとしたわけでもない。

それなのに、美月は先に線を引いた。

私に近づいても、何もありません。

言ったあと、及川くんが本当に意味の分からない顔をしていたのを覚えている。

「父の名前を知られるのが、嫌だったんです」

美月は小さく言った。

「父の名前を知った途端に、近づいてくる人がいました。逆に、急によそよそしくなる人もいました」

理久は黙って聞いていた。

「父に覚えてもらいたい人。父の娘なら何か利用できると思う人。私ではなく、父を見て話す人」

言葉にすると、思っていたより苦かった。

「どれも嫌でした」

美月は笑おうとして、やめた。

「私を見ているのか、父を見ているのか、分からなくなるので」

だから逃げた。

父のいる場所から。

父の名前が届く場所から。

父の期待が見える場所から。

「10Aでは、ただの看護師でいたかったんです」

美月は言った。

「綾瀬宗一郎の娘ではなくて、綾瀬美月でいたかった」

理久は小さく頷いた。

「うん」

「だから、言えませんでした」

言い訳に聞こえるかもしれない。

それでも、それ以外に言葉がなかった。

「理久に言ったら、変わる気がしました」

理久は少しだけ間を置いた。

「何が変わると思った?」

「全部です」

美月は膝の上で手を握った。

「理久が私を見る目も。父を見る目も。父が理久を見る目も」

父は、理久を気に入ると思う。

たぶん、かなり。

今日、学会で話したなら余計にそうだ。

理久は優秀で、冷静で、外科医としての芯がある。

父はそういう人を見逃さない。

見つける。

評価する。

そして、必要なら自分の盤面に置く。

「父は、理久を気に入ると思います」

美月は言った。

「たぶん、すごく」

理久は何も言わなかった。

「それが怖いんです」

美月の声は少しだけ震えた。

「理久が父に認められるのが嫌なわけではありません。理久の仕事の邪魔をしたいわけでもありません」

でも。

言葉が止まる。

うまく言えない。

きれいに説明できない。

自分でも矛盾していると思う。

「でも、父が理久を見つけて、理久を父の盤面に置いて」

美月は息を詰めた。

「私まで、またそこに戻される気がするんです」

父の娘として。

綾瀬宗一郎の娘として。

理久の隣にいる人ではなく、父の名前の一部として。

「理久が、父に近づくために私を選んだ人に見られるのも嫌です」

理久は黙って聞いていた。

「私が、理久を父のところへ連れてきた人に見られるのも嫌です」

美月は、マグカップを握る手に力を込めた。

「父が、理久を動かすのも嫌です」

言ってから、美月は自分の言葉の強さに気づいた。

「……すみません」

「謝らなくていい」

理久の声は静かだった。

「うまく言えないんです」

「うん」

「父が嫌いなわけではありません。でも、怖いです」

「うん」

「逃げたのに、また戻される気がするんです」

理久はしばらく黙っていた。

その沈黙は、美月の言葉を整えるためではなく、受け止めるためのものに思えた。

「今日、綾瀬教授と話せたことは、俺にとって大きかった」

美月の胸が少し沈んだ。

分かっていた。

それでも、言葉にされると痛かった。

「正直に言うと、すぐに切り離せるとは言えない」

美月は顔を上げた。

理久はまっすぐこちらを見ていた。

「医師として尊敬してきた人で、美月の父親でもある。その二つが、今、俺の中で重なってる」

美月は何も言えなかった。

「でも、だからこそ、勝手に答えを出したくない」

「……答え?」

「綾瀬教授がどういう父親なのかも、美月がどう傷ついてきたのかも、俺が分かったつもりになりたくない」

理久の声は静かだった。

「それに、俺が今ここで何か言えば、美月を余計に困らせる気がする」

美月は、マグカップを握る手に力を込めた。

理久は少しだけ声を柔らかくした。

「話してくれてありがとう」

美月は小さく息を止めた。

「美月の気持ちは、ちゃんと受け止めたから」

その言葉で、肩から少しだけ力が抜けた。

全部話さなくていい。

全部分かってもらおうとしなくていい。

それが、少しだけありがたかった。

「……ありがとうございます」

「うん」

理久は少しだけ笑った。

「俺の方でも、ちゃんと考える」

美月は小さく頷いた。

けれど、安心しきることはできなかった。

父の名前を出した。

理久は離れなかった。

でも、それで終わりではない。

父はまだ、私の隣にいる理久を知らない。

理久もまだ、父としての綾瀬宗一郎を知らない。

そして美月はまだ、父の前で理久の隣に立てる自信がない。

そのことだけが、はっきりしていた。

「今日は、もう休みます」

「うん」

美月は立ち上がった。

寝室へ向かう前に、一度だけ振り返る。

「おやすみなさい」

「おやすみ、美月」

名前を呼ばれて、美月は小さく頷いた。

扉を閉めたあと、美月はしばらくその場に立っていた。

父の名前から逃げてきた。

父のいない場所で、自分の足で立とうとしてきた。

でも、理久が父と出会ったことで、その逃げ道の先にまで父の影が伸びてきた気がした。

まだ向き合えない。

まだ、父の前で理久の隣に立てる自分ではない。

それだけは、痛いほど分かっていた。
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