光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第40話 選べる未来
その夜、美月がリビングに入ると、理久はテーブルの前に座っていた。
いつものように論文を読んでいるのだと思った。
けれど、テーブルの上に広がっていたのは、学会でもらった資料と、いくつかのメモだった。
行き先。
期間。
研究テーマ。
受け入れ先。
帰国後。
その中のひとつの文字に、美月の目が止まった。
留学。
指先が、少しだけ止まる。
「……何の資料ですか」
理久はペンを置いた。
「留学の候補」
美月は、すぐに返事ができなかった。
留学。
突然、現実の言葉として目の前に置かれた気がした。
理久は、先に言った。
「まだ、何も決まってない」
美月は顔を上げる。
「……はい」
「行き先も、期間も、研究テーマも、これから詰める段階」
「はい」
「研究留学だよ」
理久は静かに言った。
「患者を受け持ったり、執刀したりするためのものじゃない」
美月は何も言えなかった。
「でも、黙って進めるのは違うと思った」
留学が、理久にとって大きな機会であることは分かる。
父の周りには、留学を経て戻ってきた医師がたくさんいた。
美月自身にも、幼い頃、父の留学先で過ごした時期がある。
ただ、その記憶ははっきりしていない。
聞き取れない言葉。
知らない匂い。
広すぎる建物。
大人たちの声。
断片だけが、ぼんやり残っている。
それでも、外へ出ることが医師として何かを変えることがあるのだと、美月は知っていた。
だから、止めるようなことは言えない。
言えるはずがない。
「チャンス、なんですよね」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
理久は少しだけ目を伏せた。
「たぶん」
「なら、考えた方がいいと思います」
言ってから、美月は胸の奥が少し痛くなった。
正しいことを言った。
たぶん、正しい。
でも、正しいことを言うほど、自分がどこかへ置いていかれるような気がした。
理久は静かに美月を見ていた。
「美月」
「はい」
「今、何かを決めてほしいわけじゃない」
美月は頷いた。
「分かっています」
分かっている。
分かっているのに、うまく受け止められない。
理久が留学するかもしれない。
それは理久の人生にとって必要なことかもしれない。
なら、自分はどうすればいいのか。
邪魔はしたくない。
でも、関係ない顔もできない。
待つとか。
ついていくとか。
そういう言葉は頭の端に浮かんで、すぐに消えた。
そんなことを口にするには、何もかも早すぎる。
「理久の邪魔は、したくないです」
美月は小さく言った。
理久の表情が、少しだけ変わった。
「邪魔?」
「はい」
「美月が?」
美月は視線を落とした。
「父のこともあります。私のことで、理久の選択が難しくなるなら、それは嫌です」
理久はすぐには答えなかった。
その沈黙が怖くて、美月はマグカップに手を伸ばした。
中身はもう冷めている。
理久は、ゆっくり言った。
「難しくはなると思う」
美月の胸が、きゅっと縮んだ。
けれど、理久は続けた。
「でも、それは美月が悪いからじゃない」
美月は顔を上げた。
理久は資料に視線を落としたまま、静かに言った。
「俺が、美月のいる未来まで考えるようになったから」
美月は、息を止めた。
一瞬、意味が分からなかった。
分からなかったのに、胸の奥だけが先に熱くなる。
理久は顔を上げた。
「俺も迷ってる」
「理久も?」
「うん」
理久は資料の端に指を置いた。
「全部整えてから話すべきなのか、まだ決まっていない段階で話すべきなのか。俺も迷った」
美月は黙って聞いていた。
「でも、整ってから話したら、たぶん報告になる」
「……報告」
「うん。俺だけが先に決めた未来を、美月にあとから渡すことになる」
その言葉は、美月の胸に静かに落ちた。
それも怖い。
何も知らないまま、理久の未来だけが先に進んでしまうのは怖い。
でも、今こうして未完成の未来を渡されるのも怖い。
どちらも、怖い。
「美月を置いて決めたくない」
理久は言った。
「でも、美月を連れていく前提にもしたくない」
美月は何も言えなかった。
置いていかれたくない。
でも、連れていかれるだけにもなりたくない。
その両方を、理久が分かっている。
それが、少し苦しくて。
少しだけ、救いでもあった。
「だから、今は答えじゃなくて」
理久は美月を見た。
「迷っていることを話したかった」
「迷っていることを」
「うん」
理久の声は静かだった。
「一緒に考えてほしい」
それは、ついてきてほしい、ではなかった。
待っていてほしい、でもなかった。
けれど、何も関係ないと言われたわけでもなかった。
美月は、すぐには答えられなかった。
考える。
その言葉が、思っていたより重い。
父から逃げるためでも、理久の邪魔をしないためでもなく。
自分がどうしたいのかを考える。
そんなことを、今まで本当にしてきただろうか。
「今は」
美月はようやく言った。
「何も言えません」
「うん」
「父のことも、まだ整理できていません」
理久は頷いた。
「理久の留学のことも、正直、怖いです」
「うん」
「でも」
美月は、少しだけ息を吸った。
「考えます」
その声は頼りなかった。
それでも、逃げるとは言わなかった。
理久は小さく頷いた。
「うん。ありがとう」
それ以上、何も求めなかった。
美月はテーブルの上の資料を見た。
まだ何も決まっていない未来。
怖い。
でも、知らないまま置いていかれるよりは、きっといい。
まだ、そう言い切ることはできなかったけれど。
美月はマグカップを両手で包んだ。
冷めた陶器の感触だけが、妙にはっきりしていた。
理久の未来。
自分の未来。
父の名前。
逃げてきた場所。
向き合わなければならないものが、少しずつ増えていく。
まだ答えは出ない。
それでも、背を向けるわけにはいかないのだと思った。
一緒に考えてほしい。
その言葉だけが、静かに残っていた。
いつものように論文を読んでいるのだと思った。
けれど、テーブルの上に広がっていたのは、学会でもらった資料と、いくつかのメモだった。
行き先。
期間。
研究テーマ。
受け入れ先。
帰国後。
その中のひとつの文字に、美月の目が止まった。
留学。
指先が、少しだけ止まる。
「……何の資料ですか」
理久はペンを置いた。
「留学の候補」
美月は、すぐに返事ができなかった。
留学。
突然、現実の言葉として目の前に置かれた気がした。
理久は、先に言った。
「まだ、何も決まってない」
美月は顔を上げる。
「……はい」
「行き先も、期間も、研究テーマも、これから詰める段階」
「はい」
「研究留学だよ」
理久は静かに言った。
「患者を受け持ったり、執刀したりするためのものじゃない」
美月は何も言えなかった。
「でも、黙って進めるのは違うと思った」
留学が、理久にとって大きな機会であることは分かる。
父の周りには、留学を経て戻ってきた医師がたくさんいた。
美月自身にも、幼い頃、父の留学先で過ごした時期がある。
ただ、その記憶ははっきりしていない。
聞き取れない言葉。
知らない匂い。
広すぎる建物。
大人たちの声。
断片だけが、ぼんやり残っている。
それでも、外へ出ることが医師として何かを変えることがあるのだと、美月は知っていた。
だから、止めるようなことは言えない。
言えるはずがない。
「チャンス、なんですよね」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
理久は少しだけ目を伏せた。
「たぶん」
「なら、考えた方がいいと思います」
言ってから、美月は胸の奥が少し痛くなった。
正しいことを言った。
たぶん、正しい。
でも、正しいことを言うほど、自分がどこかへ置いていかれるような気がした。
理久は静かに美月を見ていた。
「美月」
「はい」
「今、何かを決めてほしいわけじゃない」
美月は頷いた。
「分かっています」
分かっている。
分かっているのに、うまく受け止められない。
理久が留学するかもしれない。
それは理久の人生にとって必要なことかもしれない。
なら、自分はどうすればいいのか。
邪魔はしたくない。
でも、関係ない顔もできない。
待つとか。
ついていくとか。
そういう言葉は頭の端に浮かんで、すぐに消えた。
そんなことを口にするには、何もかも早すぎる。
「理久の邪魔は、したくないです」
美月は小さく言った。
理久の表情が、少しだけ変わった。
「邪魔?」
「はい」
「美月が?」
美月は視線を落とした。
「父のこともあります。私のことで、理久の選択が難しくなるなら、それは嫌です」
理久はすぐには答えなかった。
その沈黙が怖くて、美月はマグカップに手を伸ばした。
中身はもう冷めている。
理久は、ゆっくり言った。
「難しくはなると思う」
美月の胸が、きゅっと縮んだ。
けれど、理久は続けた。
「でも、それは美月が悪いからじゃない」
美月は顔を上げた。
理久は資料に視線を落としたまま、静かに言った。
「俺が、美月のいる未来まで考えるようになったから」
美月は、息を止めた。
一瞬、意味が分からなかった。
分からなかったのに、胸の奥だけが先に熱くなる。
理久は顔を上げた。
「俺も迷ってる」
「理久も?」
「うん」
理久は資料の端に指を置いた。
「全部整えてから話すべきなのか、まだ決まっていない段階で話すべきなのか。俺も迷った」
美月は黙って聞いていた。
「でも、整ってから話したら、たぶん報告になる」
「……報告」
「うん。俺だけが先に決めた未来を、美月にあとから渡すことになる」
その言葉は、美月の胸に静かに落ちた。
それも怖い。
何も知らないまま、理久の未来だけが先に進んでしまうのは怖い。
でも、今こうして未完成の未来を渡されるのも怖い。
どちらも、怖い。
「美月を置いて決めたくない」
理久は言った。
「でも、美月を連れていく前提にもしたくない」
美月は何も言えなかった。
置いていかれたくない。
でも、連れていかれるだけにもなりたくない。
その両方を、理久が分かっている。
それが、少し苦しくて。
少しだけ、救いでもあった。
「だから、今は答えじゃなくて」
理久は美月を見た。
「迷っていることを話したかった」
「迷っていることを」
「うん」
理久の声は静かだった。
「一緒に考えてほしい」
それは、ついてきてほしい、ではなかった。
待っていてほしい、でもなかった。
けれど、何も関係ないと言われたわけでもなかった。
美月は、すぐには答えられなかった。
考える。
その言葉が、思っていたより重い。
父から逃げるためでも、理久の邪魔をしないためでもなく。
自分がどうしたいのかを考える。
そんなことを、今まで本当にしてきただろうか。
「今は」
美月はようやく言った。
「何も言えません」
「うん」
「父のことも、まだ整理できていません」
理久は頷いた。
「理久の留学のことも、正直、怖いです」
「うん」
「でも」
美月は、少しだけ息を吸った。
「考えます」
その声は頼りなかった。
それでも、逃げるとは言わなかった。
理久は小さく頷いた。
「うん。ありがとう」
それ以上、何も求めなかった。
美月はテーブルの上の資料を見た。
まだ何も決まっていない未来。
怖い。
でも、知らないまま置いていかれるよりは、きっといい。
まだ、そう言い切ることはできなかったけれど。
美月はマグカップを両手で包んだ。
冷めた陶器の感触だけが、妙にはっきりしていた。
理久の未来。
自分の未来。
父の名前。
逃げてきた場所。
向き合わなければならないものが、少しずつ増えていく。
まだ答えは出ない。
それでも、背を向けるわけにはいかないのだと思った。
一緒に考えてほしい。
その言葉だけが、静かに残っていた。