光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第41話 約束の前に

週末の午後、玄関に立つ理久は、いつもよりずっと端正に整っていた。

白いシャツに、薄いグレーのジャケット。

ネクタイはしていないのに、どこか改まった空気がある。

仕事の時に見せる整った顔とも、家で二人きりの時に見せる柔らかさとも違う。

今日の理久は、どこか特別だった。

美月は玄関先で靴を履きながら、理久を見上げた。

「今日、どこに行くんですか」

「買い物」

「買い物?」

「うん」

理久はそれ以上、詳しく言わなかった。

美月は少しだけ警戒した。

理久の言う買い物は、たいてい普通では終わらない。

表参道でネックレスを買ってもらった記憶が、まだ鮮明に残っている。

「また、何か変なことを考えていませんか」

「変なことは考えてない」

「本当ですか」

「うん。必要なものを見に行くだけ」

必要なもの。

その言葉が、少し引っかかった。

けれど、美月はそれ以上聞けなかった。

外へ出ると、理久は車ではなくタクシーを呼んでいた。

「今日は車じゃないんですね」

「うん」

「珍しいですね」

「あとで食事もするから」

「食事?」

「うん」

理久がそこで会話を切るように視線を外した時、タクシーのドアが開いた。

買い物。

食事。

必要なもの。

どれも一つずつなら普通の言葉なのに、理久が言うと、普通では済まない気がした。

* * *

タクシーが停まったのは、都心の通りから少し奥まったブティックの前だった。

大きなロゴはない。

店内には柔らかい照明が落ち、外の賑やかさが嘘のように静かだった。

美月は入口で一度、足を止めた。

理久が振り返る。

「美月」

呼ばれて、顔を上げた。

理久は何も言わず、ただ小さく微笑んだ。

急かされているわけではない。

でも、ここへ連れてきた理由が、理久の中にはちゃんとあるのだと分かった。

美月は小さく息を吸って、理久の隣に並んだ。

店内に入ると、店員が理久に気づいて近づいてきた。

「藤崎様、お待ちしておりました」

美月は思わず理久を見た。

予約していた。

つまり、思いつきではない。

最初から、ここへ連れてくるつもりだった。

理久は穏やかな声で言った。

「彼女に似合うものを、いくつか見せていただけますか」

彼女。

その言葉に、美月の耳が少し熱くなる。

何度聞いても、まだ慣れない。

店員は美月を見て、柔らかく微笑んだ。

「かしこまりました。上品な雰囲気のものがお似合いになりそうですね」

美月は会釈を返した。

何か言うべきなのに、うまく言葉が出てこなかった。

奥のソファに案内される。

理久は隣ではなく、少し離れた椅子に座った。

視線は届く。

けれど、近すぎない。

美月が店員と話す余白を残すような距離だった。

店員が何着か持ってきた。

淡い色のワンピース。

柔らかい生地のセットアップ。

控えめな光沢のあるドレス。

どれも、美月が普段自分で選ぶものよりずっと上品で、少しだけ非日常だった。

「これは……」

美月が小さく呟くと、理久が言った。

「似合うと思う」

「まだ着てません」

「見れば分かる」

「分からないです」

「じゃあ、着てみて」

そう言われてしまうと、断る理由が見つからない。

けれど、不思議と嫌ではなかった。

美月は試着室に入り、最初のワンピースに袖を通した。

柔らかい布が肌に触れる。

鏡の中にいるのは、普段の延長にいる自分ではなかった。

誰かに会うために、丁寧に整えられた自分。

美月は少し落ち着かない気持ちでカーテンを開けた。

理久が顔を上げる。

その瞬間、ほんの少しだけ表情が止まった。

美月は視線を逸らした。

「……変ですか」

「全然」

「では、なぜ黙るんですか」

「想像より似合ってた」

まっすぐ言われて、美月は言葉に詰まった。

店員が少し微笑んでいる。

美月はそれ以上何も言えず、もう一度試着室へ戻った。

何着か試した。

そのたびに、理久はきちんと見る。

似合うものは、似合うと言う。

少し違うものには、無理に褒めない。

美月を飾るためではなく、美月が無理をしない服を探しているように見えた。

華やかすぎない。

幼く見えない。

でも、地味ではない。

美月が、美月のまま、きちんと立てる服。

最後に残ったのは、淡いブルーグレーのワンピースだった。

首元は開きすぎず、袖も控えめで、ラインは柔らかい。

派手ではない。

けれど鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びた。

理久は静かに言った。

「それがいい」

美月も、同じことを思っていた。

けれど、値札を見た瞬間、指先が止まった。

理久はそれに気づいたはずなのに、何も言わなかった。

話が進んでいく。

美月は、すぐには口を挟めなかった。

値札を見た指先は止まったままだったけれど、鏡の中の自分から目を逸らせなかった。

自分で選んだら、きっと手に取らなかった服。

けれど、今の自分から浮いているわけではない。

淡いブルーグレーのワンピースは、派手ではないのに、背筋を少しだけ伸ばしてくれる。

理久はきっと、何かのためにこの服を選んだ。

その何かに、美月は少しずつ気づき始めていた。

胸が落ち着かない。

けれど、嫌ではなかった。

美月は小さく息を吸った。

「……これで、お願いします」

理久はそこで初めて、店員へ静かに頷いた。

「こちらでお願いします。靴も合わせていただけますか」

しばらくして、店員が言った。

「よろしければ、このままお召しになっていかれますか」

美月は理久を見た。

「このまま、ですか」

理久は頷く。

「この服で、美月と行きたい場所がある」

その言葉に、美月は返事を失った。

行きたい場所。

理久がそう言うだけで、胸の奥が小さく跳ねる。

期待してはいけないと思う。

でも、期待していないと言えば嘘になる。

「どこへ行くんですか」

「あとで分かる」

「理久」

少しだけ責めるような声になった。

理久は笑わなかった。

「今日は、ちゃんと美月と選びたかった」

その言葉が、静かに胸へ落ちた。

何を。

聞きたいのに、聞けなかった。

聞いてしまったら、今かろうじて保っているものが崩れてしまいそうだった。

美月は鏡の中の自分を見た。

淡いブルーグレーのワンピース。

合わせてもらった靴。

少しだけ高くなった視線。

自分ではない誰かになったようで、それでも、完全に自分ではなくなったわけではない。

むしろ、知らなかった自分を先に見せられているようだった。

美月は小さく頷いた。

「……このままで行きます」

店を出る時、美月は選んだワンピースを着ていた。

靴も、ワンピースに合わせてもらったものだった。

歩き慣れない高さのヒールに、足元が少し頼りない。

理久はさりげなく歩幅を落とした。

手は取らない。

けれど、美月が無理なく歩ける速さで隣にいる。

それだけで、なぜか胸が落ち着かなかった。

* * *

次のタクシーが停まったのは、都心のホテルだった。

美月は、思わず建物を見上げた。

高く伸びたガラスの壁に、夕方の光が淡く映っている。

「……食事、ここですか」

「うん」

理久はそう答えたけれど、すぐにレストランへ向かう様子はなかった。

エントランスを抜け、静かなロビーを進む。

磨かれた床。

低く落とされた照明。

行き交う人たちの声まで、どこか遠く聞こえる。

美月は、淡いブルーグレーのワンピースの裾を、指先でそっと押さえた。

この服を着ているから、少しだけ息ができる気がした。

エレベーターは、上層階へ向かって静かに上がっていく。

扉が開くと、スタッフが理久に向かって丁寧に頭を下げた。

「藤崎様、お待ちしておりました」

また、予約。

美月はもう驚くより先に、胸の奥が落ち着かなくなった。

案内されたのは、レストランではなかった。

大きな窓のある、静かなプライベートサロンだった。

広すぎない部屋。

低いソファ。

小さなテーブル。

控えめに飾られた花。

窓の向こうには、夕方の東京が広がっていた。

ビルの輪郭が、傾いた光の中で少しずつ柔らかくなっている。

遠くに、東京タワーが見えた。

夕方の空は、少しずつ夜の色を含み始めていた。



美月は、初めて足を踏み入れるその空間に、しばらく言葉を失った。

食事の席というより、誰かを静かに迎えるための部屋のようだった。

理久はスタッフに短く礼を言い、扉が閉まるのを待った。

部屋に、二人だけの静けさが落ちる。

美月は窓の外を見たまま、小さく息を吸った。

ここまで整えられた理由が、もう分からないふりはできなかった。

胸が高鳴る。

怖い。

けれど、それだけではなかった。

期待しているのかもしれない。

そう気づいた瞬間、美月は指先に力を入れた。

理久が、静かに名前を呼んだ。

「美月」

振り返ると、理久はまっすぐこちらを見ていた。

いつもの余裕はある。

けれど、それだけではない。

今日の理久は、どこか覚悟を決めた人の顔をしていた。

「食事の前に、少し話したいことがある」

その言葉で、美月の呼吸が止まった。
< 41 / 68 >

この作品をシェア

pagetop