光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第47話 藤崎家の予習

綾瀬家への挨拶を終えて、数日が過ぎた。

夕食のあと、理久はめずらしく少しだけ言いにくそうな顔をした。

「美月」

「はい」

「姉が、美月に会いたいって」

美月は手にしていたカップを止めた。

「お姉さん、ですか」

「うん」

「ご実家に伺う前に?」

「そう」

理久の表情が、わずかに曇る。

美月はそれを見逃さなかった。

「……理久」

「何」

「もしかして、苦手なんですか」

「苦手ではない」

答えが早かった。

早すぎる。

美月はじっと理久を見る。

「苦手ではないけれど、会わせるのは気が進まない、ということですか」

理久はカップを置いた。

「姉さんは、悪い人ではない」

「はい」

「ただ、強い」

「強い」

「そして、遠慮がない」

美月は少しだけ緊張した。

理久がそこまで言う相手。

それは、相当手強いのではないだろうか。

「怖い方なんですか」

「怖くはない」

理久は少し考えてから言った。

「逃げ場がないだけ」

「それは怖いのでは」

「否定しきれない……かな」

美月は思わず黙った。

理久は小さく息を吐く。

「でも、大丈夫。美月を困らせるために会いたいわけじゃないと思う」

「思う?」

「そこは断言しにくいかな」

「理久」

「ごめん」

謝り方が早い。

その時点で、美月はますます不安になった。

けれど、理久の姉。

理久を育てた家の人。

いずれ会う相手なら、先に会う方がいいのかもしれない。

美月はカップを置き、静かに頷いた。

「お会いします」

理久が少しだけ目を細める。

「無理しなくていいよ」

「無理ではありません」

「本当に?」

「はい」

美月は一拍置いた。

「ただ、かなり緊張しています」

理久は少し笑った。

「正直でいいね」

「理久がそこまで警戒している方なので」

「警戒はしてないよ」

「では、何ですか」

「対策」

「もっと怖いです」

理久は、否定しなかった。

* * *

数日後、美月は理久に連れられて、青山の静かな通りを歩いていた。

行き先は、怜子が指定したという予約制のサロンだった。

表に大きな看板はない。

ガラス越しに見えるのは、落ち着いた照明と、整えられた服、奥に続く白い廊下。

一人なら、きっと通り過ぎてしまう場所だと思った。

「……ここですか」

「うん」

「お姉さんが指定されたんですよね」

「そう」

「やはり、とても強い方なのですね」

「強いって言ったでしょ」

理久は扉に手をかけた。

その時、内側からスタッフが静かに扉を開けた。

「藤崎様、お待ちしておりました」

美月は背筋を伸ばした。

中へ入ると、柔らかな照明の奥に、ひとりの女性が立っていた。

綺麗な人だった。

華やかなのに、派手ではない。

穏やかに立っているだけで、その場の空気が自然と整う。

彼女は美月を見ると、にこりと微笑んだ。

「あなたが美月さんね」

美月はすぐに頭を下げた。

「はじめまして。綾瀬美月と申します」

「藤崎怜子です。理久の姉です」

声まで美しかった。

柔らかいのに、隙がない。

美月は一瞬で思った。

これは、手強い。

怜子は理久をちらりと見た。

「やっと会わせてくれたわね」

「姉さん」

理久の声が、少し低くなる。

怜子は少しも動じなかった。

「何?」

「初対面から圧をかけないで」

「圧ではないわ。挨拶よ」

「その挨拶が強いんだよ」

「弱い挨拶をする家ではないでしょう」

美月は、少し笑いそうになった。

いつも余裕があって、何でも先に整えてしまう理久が、怜子の前では少しだけ弟の顔になる。

それだけで、緊張がほんの少し緩んだ。

怜子は美月へ向き直る。

「今日は来てくださってありがとう」

「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」

「そんなに固くならなくて大丈夫よ。今日は面接ではないもの」

美月は少しだけ息を呑む。

怜子はその反応に気づいたように、楽しそうに目を細めた。

「本当に違うわ。今日は、藤崎家へ来る前の予習」

「予習、ですか」

「ええ」

怜子はさらりと言った。

「うちは、少し面倒なの」

「姉さん」

理久がすぐに口を挟む。

「何?」

「その言い方」

「事実でしょう」

「もう少し柔らかく言えない?」

「言えるわ」

怜子は美月を見て、にこりと微笑んだ。

「藤崎家は、一般的なご家庭より、少しだけ見るところが多いの」

美月は返事に迷った。

柔らかい。

けれど、意味はほとんど変わっていない。

「親族付き合いも多いし、場に慣れていないと疲れると思うわ」

怜子は、軽く肩をすくめた。

「私も一度は通った道だから」

美月は思わず怜子を見た。

「怜子さんも、ですか」

「ええ。藤崎家にいる側の私でも、結婚の時はそれなりに面倒だったもの」

怜子は涼しい顔で言った。

「うちの夫なんて、弁護士なのに最初は言葉を選んでいたわ」

「弁護士の方でも、ですか」

「ええ。職業はあまり関係ないわ。藤崎家の親族の前では、誰でも少しは姿勢がよくなるの」

理久が小さく息を吐く。

「だから強いって言ったよね」

「理久」

今度は怜子が理久をたしなめる。

「美月さんの前で姉の悪口を言わないの」

「悪口ではないよ」

「事実でも、言い方というものがあるでしょう」

「どの口が言うの」

怜子は涼しい顔で微笑んだ。

美月は、今度こそ少しだけ笑ってしまった。

怜子がそれを見て、満足そうに頷く。

「笑えるなら大丈夫ね」

「……すみません」

「謝らなくていいわ。理久が家でどういう顔をしているのか、私も少し見たかったし」

「姉さん」

理久の声が、また低くなる。

怜子は美月を見たまま言った。

「それにしても、本当にやっと会えたわ」

「私を、ですか」

「ええ。ずっと気になっていたの」

「ずっと……?」

怜子は悪びれもせず、さらりと言った。

「火事のあと、理久の生活に誰かが入ったのは分かっていたわ」

美月は息を止めた。

思わず理久を見る。

理久が、はっきり嫌そうな顔をした。

「……なんでそこまで分かるの」

「姉の勘よ」

「信用ならないな」

「失礼ね」

怜子は楽しそうに笑った。

美月も聞きたかった。

けれど、理久の顔を見た瞬間、それ以上聞いてはいけない気がした。

怜子は、そんな二人を見て、少しだけ目元を柔らかくした。

「理久が、自分の生活の中に誰かを入れるなんて、今までなかったもの」

その声は軽かった。

けれど、からかいだけではなかった。

「だから、どんな方なのか気になっていたの。早く会いたいと思っていたわ」

美月は、理久を見る。

理久は視線を逸らした。

「……理久」

「何」

「そうだったんですか」

「姉さんが会いたがっていたのは事実」

「理久が全然取り合ってくれなかったのも事実よ」

怜子がすぐに言う。

理久は、低く息を吐いた。

「会わせる必要がある段階じゃなかった」

「そういうところよ」

「何が」

「大事にしているものほど、ぎりぎりまで隠すところ」

理久は黙った。

怜子は、そんな弟を見て少しだけ微笑む。

「でも、もう隠せないでしょう」

理久は怜子を見た。

「隠すつもりはないよ」

その声は静かだった。

怜子は一瞬だけ黙り、それから満足そうに目を細めた。

「なら、よかった」

美月は、そのやり取りを黙って見ていた。

怜子の言葉は鋭い。

けれど、突き放すためのものではなかった。

理久が何を隠して、何を守ろうとしているのか。

その奥まで分かった上で、あえて踏み込んでいる。

そういう人なのだと思った。

怜子は、すぐに空気を切り替えるように手を叩いた。

「では、本題に入りましょう」

「本題」

美月は背筋を伸ばす。

怜子は楽しそうに頷いた。

「藤崎家へ来る日の服を見ましょう」

「服、ですか」

「ええ」

怜子は美しく微笑んだ。

「理久は、あなたに似合う服を選ぶのは上手でしょう。でも、初めて家に来る日の服は、少し意味が違うの」

美月は黙って怜子を見る。

「華やかである必要はないわ。でも、萎縮して見える服はだめ」

その声は優しい。

けれど、はっきりしていた。

「あなたが藤崎家に合わせる必要はない。でも、場に飲まれる必要もないわ」

美月は胸の奥で、その言葉を受け止めた。

藤崎家。

まだ見たことのない家。

理久が育った場所。

そこへ行くことを考えるだけで、少し息が詰まる。

怜子は、それを見抜いたように続けた。

「服は、相手に勝つために着るものではないわ」

美月は顔を上げた。

「自分がその場で呼吸をするために着るものよ」

美月は、ゆっくり頷いた。

「……お願いします」

怜子が選んだのは、淡いグレージュのワンピースだった。

華やかではない。

けれど、鏡の前に立つと、背筋が自然に伸びる。

深いネイビーのジャケットを羽織ると、さらに落ち着いた。

怜子は美月の後ろに立ち、肩の位置を少しだけ整えた。

「似合っているわ」

「ありがとうございます」

「理久」

「何」

「黙っていないで、あなたも言いなさいよ」

美月は息を止めた。

理久は少しだけ視線を逸らし、それから静かに言った。

「似合ってる」

怜子が満足そうに微笑む。

「最初からそう言えばいいのに」

「言おうとしてたよ」

「遅いのよ」

「姉さん」

「何?」

「美月の前で全部言わないで」

「全部は言っていないわ」

理久はそれ以上言い返さなかった。

美月は、鏡越しに理久を見る。

少し困ったような。

けれど、どこか諦めたような顔。

その表情が新鮮で、少しだけ可愛かった。

いつもの理久にも、敵わない人がいる。

そう思うだけで、藤崎家という場所が、少しだけ遠くなくなった気がした。

服を決めたあと、怜子は手土産にちょうどいい店をいくつか教えてくれた。

「無理に高いものを選ばなくていいわ」

「でも」

「高いものは、うちでは珍しくないから」

美月は一瞬固まった。

理久が横で低く言う。

「姉さん」

「事実でしょう」

怜子は悪びれない。

けれど、その言い方に嫌味はなかった。

「だからこそ、値段で勝とうとしなくていいの」

怜子は、美月を見て静かに微笑んだ。

「手土産は、値段ではなく、その家を訪ねる時の挨拶よ。相手の好みを少し考えたもの。季節に合うもの。重すぎず、負担にならないもの」

「挨拶……」

「ええ。完璧な答えを出す必要はないわ」

怜子は、理久をちらりと見た。

「この人は何でも先に整えたがるけれど」

「姉さん」

「でも、あなたまで全部整っている必要はないの」

美月は、怜子を見る。

「分からないことは、分からないと言っていいわ」

怜子は続けた。

「藤崎家に合わせようとしすぎなくていい。でも、何も知らないまま不安になる必要もない」

美月は、ゆっくり頷いた。

「……ありがとうございます」

怜子は満足そうに微笑んだ。

「いいの。理久がやっと連れてきた人だもの。少し世話を焼かせて」

理久が小さく息を吐く。

「焼きすぎないで」

「努力するわ」

「信用できないな」

「それは残念」

怜子は、少しも残念そうではなかった。

美月はまた、少し笑ってしまった。

帰り際、怜子は美月に紙袋を渡した。

今日選んだ服。

そして、手土産にちょうどいい店のメモ。

「困ったら、ここから選んで」

「こんなにしていただいて……」

「いいの。これは私がしたかったことだから」

怜子は美しく微笑んだ。

「それに、藤崎家では最初に味方を一人作っておいた方がいいわ」

美月は目を瞬いた。

「味方、ですか」

「ええ」

怜子はにこりと笑った。

「私よ」

その言い方があまりに迷いなくて、美月はまた少し笑ってしまった。

理久は隣で、諦めたように息を吐く。

「頼もしいけど、強引なんだよね」

「頼もしいなら十分でしょう」

「否定はしないかな」

怜子は満足そうに頷いた。

「なら、いいわ」

サロンを出ると、外の空気は少しだけ冷たかった。

帰りの車の中、美月は、膝の上で紙袋をそっと抱えていた。

怜子が選んでくれた服。

教えてくれた言葉。

藤崎家へ行く日は、まだ怖い。

けれど、もうただ怖いだけではなかった。

「理久」

「うん」

「怜子さん、とても素敵な方ですね」

理久は少しだけ苦笑した。

「強かったでしょ」

「はい」

美月は迷わず頷いた。

「でも、優しい方でした」

理久は前を見たまま、ほんの少し表情を和らげた。

「昔から、ああなんだ」

「理久にも、敵わない人がいるんですね」

「いるよ」

理久は即答した。

「しかも、一生勝てないと思う」

美月は小さく笑った。

その笑いに、理久も少しだけ笑う。

藤崎家へ行く日は、まだ緊張する。

でも、怜子の顔を思い出せば、少しだけ息ができる気がした。
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