光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第46話 父への挨拶

シンポジウム会場から車で少し離れた日本料理店。

理久が予約していたのは、奥の静かな個室だった。

個室に入るまでの動線も、人の目が気にならないように配慮されている。

そういうところまで、理久はきっと考えていた。

窓の外には、都心の灯りが見える。

会場のざわめきから離れると、急に空気が重くなった気がした。

父と母が奥に座り、その向かいに美月と理久が座る。

料理が運ばれ、最初のうちはシンポジウムの話が少しだけ続いた。

けれど父は、理久の質問内容を細かく聞き直すことはしなかった。

会場で、外科医としての藤崎理久はすでに見ている。

今日ここで父が見るのは、たぶん別のものだ。

娘の隣に立つ人としての、理久。

料理が一段落したところで、母が箸を置いた。

父もそれに気づいたように、ゆっくり姿勢を正す。

「さて」

父が言った。

「そろそろ本題か」

美月の心臓が大きく鳴った。

理久は、隣で静かに息を整えたように見えた。

美月は口を開いた。

「お父さん、お母さん」

二人の視線が美月に向く。

「私、藤崎理久さんと結婚したいと思っています」

言った。

言えた。

部屋の空気が静かになる。

母は小さく息を呑み、父は理久を見た。

理久はその視線を受け、ゆっくり姿勢を正した。

そして、深く頭を下げる。

「藤崎理久と申します」

その声は、静かで、揺るがなかった。

「先日、美月さんに結婚を申し込み、受けていただきました。本日は、そのご報告とご挨拶に参りました」

父はしばらく何も言わなかった。

母も黙っていた。

美月は、自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。

やがて母が、美月を見る。

「美月」

「うん」

「あなたが選んだのね」

美月は頷いた。

「うん」

母はそれ以上何も言わなかった。

ただ、少しだけ目元を柔らかくした。

父は、理久から視線を外さなかった。

「藤崎先生」

「はい」

「君か」

その一言には、驚きと、納得と、警戒が混じっていた。

理久は逃げずに答える。

「はい」

父は美月へ視線を向ける。

「私に先に名前を知らせなかったのは、私が動くと思ったからか」

美月は喉が少し乾くのを感じた。

でも、今日は逃げない。

「そうです」

父の眉がわずかに動いた。

美月は続ける。

「お父さんは、名前を聞いたら調べると思ったから」

父は数秒、美月を見た。

そして、低く笑った。

「よく分かっている」

母が横で小さく息を吐く。

父は再び理久を見る。

「いつからだ」

美月が答えようとすると、理久が先に口を開いた。

「正式に交際を始めたのは、今年に入ってからです」

父の目が細くなる。

「正式に、という言い方をするんだな」

「はい」

「その前から感情はあったと?」

美月は息を止めた。

理久は、少しも慌てなかった。

「ありました」

父は理久をじっと見た。

「同じ病院の看護師にか」

空気が少し冷えた。

母が父を見る。

美月は思わず手を握りしめた。

来た。

やはり、そこを突く。

理久は静かに頷いた。

「はい」

「自分の立場を分かっているのか」

「分かっています」

「本当に?」

父の声が低くなる。

「大学病院の外科医。留学の話も進めている。その立場で、同じ病院の看護師と交際する意味を、分かっているのか」

美月は言葉を挟みそうになった。

けれど、理久が先に答えた。

「完全に分かっていると軽々しく言えるほど、簡単な問題ではないと思っています」

父の表情が少し変わった。

理久は続ける。

「だからこそ、曖昧な形にはしないと決めました」

「曖昧な形?」

「院内の噂に晒されるだけの関係にも、美月さんだけが立場を悪くする関係にもしたくありませんでした」

父は黙っている。

「留学の話を進める中で、自分の将来だけではなく、美月さんの人生も関わってくるのだと考えました」

理久の声は静かだった。

「恋人のまま曖昧に未来を差し出すのは違うと思いました。だから、正式にプロポーズしました」

父は理久を見ている。

理久は一度、美月へ視線を向けた。

「もちろん、それだけが理由ではありません」

美月の胸が、小さく震えた。

「美月さんと、この先を一緒に考えたいと思ったからです」

父は、しばらく何も言わなかった。

その沈黙の中で、美月は理久の横顔を見る。

理久は逃げていない。

言葉を選びながら、それでも父の視線をまっすぐ受け止めている。

父は、理久から視線を外さなかった。

「つまり、二人の間ではもう決めたということだな」

「はい」

理久は逃げずに答えた。

「まず、美月さんの意思を確認しました」

父の目がわずかに動く。

「その上で、今日ここへ来た」

「はい」

理久は静かに頷いた。

「ご両親にきちんとお話しする前に、私だけで未来を決めることはできません。ただ、美月さん自身が望んでいない未来を、先にご両親へお願いすることもできないと思いました」

父は黙った。

「だから、まず美月さんに聞きました。その上で、本日ご挨拶に伺いました」

個室に、静かな沈黙が落ちた。

父はしばらく理久を見ていた。

その目は厳しかった。

けれど、怒ってはいなかった。

「筋は通っているな」

父が低く言った。

「ありがとうございます」

「褒めたわけではない」

「承知しています」

父は理久を見たまま、少しだけ黙った。

それから、姿勢を変えた。

「留学の話は、まだ正式には決まっていないんだったな」

「はい」

「その段階で、結婚を申し込んだのか」

理久は一拍置いた。

「はい」

父の眉がわずかに動く。

理久は続ける。

「決まってから話せば、報告になります。美月さんに選ぶ余地を残しているようで、実際には私が決めた未来を渡すことになると思いました」

父は黙っている。

「だから、決まる前に話しました」

「綺麗なことを言うな」

美月は唇を噛みそうになった。

けれど、理久は動じなかった。

「はい。綺麗ごとです」

父の目がわずかに動く。

「ですが、綺麗ごとを現実にする努力をしなければ、美月さんと未来を考える資格はないと思っています」

個室の空気が、静かに変わった。

父は、理久をじっと見た。

「現実には、君のキャリアが中心になる。留学するのは君だ。美月はどうしても、君の予定に影響される」

「はい」

理久は否定しなかった。

「おっしゃる通りです」

父は少し黙る。

「だからこそ、私がその重みを軽く扱ってはいけないと思っています」

美月は、隣の理久を見る。

この人は、分かっている。

自分が何を手放すか。

何を恐れているか。

どこに引っかかっているか。

その上で、ここにいる。

父は、今度は少し角度を変えた。

「藤崎先生」

「はい」

「君は、私に気に入られれば得をする立場だな」

美月は息を止めた。

来た。

父はこういうところを見逃さない。

理久は静かに答えた。

「そうかもしれません」

「否定しないのか」

「否定しても、嘘になります」

父の口元がわずかに動く。

「私の人脈や立場を利用する気はあるか」

母が少しだけ眉を寄せた。

「あなた」

父は母を見ない。

理久だけを見ている。

理久は、まっすぐ父を見た。

「利用、という言葉を使うなら、あります」

美月は思わず理久を見た。

父の目が光る。

「ほう」

理久は続けた。

「綾瀬教授の立場も、人脈も、外科医としての見識も、私にとって学ぶべきものです。必要なら頼ることもあると思います」

父は黙っている。

「ただ、美月さんとの結婚を、そのための手段にするつもりはありません」

父の笑みが消える。

理久の声は、少しだけ低くなった。

「私は美月さんと家族になりたいから、ここにいます」

美月は胸がいっぱいになった。

母がそっと美月を見る。

その目は、少し潤んでいるようにも見えた。

父はしばらく黙っていた。

そして、美月に視線を向ける。

「美月」

「はい」

「お前はどうなんだ」

ついに来た。

今度は理久ではなく、自分が答える番だった。

美月は背筋を伸ばした。

「私は」

声が少し震えた。

でも、逃げない。

「理久と結婚したい」

父は黙っている。

「留学のことも、一緒に考えるつもりです」

「仕事は」

「まだ考えています」

父の声が少し厳しくなる。

「甘いな」

痛い。

でも、美月は目を伏せなかった。

「甘いと思う」

父の眉が動く。

美月は続ける。

「今すぐ全部決められるほど、私は強くない。でも、理久についていくだけのつもりもない」

理久は隣で静かに聞いている。

「仕事も、もし向こうへ行くことになった時の生活も、帰ってきてからのことも、ちゃんと考える。逃げない」

美月は父をまっすぐ見た。

「でも、それはお父さんに決めてもらうことじゃない」

母が小さく息を呑んだ。

父の顔が、わずかに動く。

美月は、自分でも驚くほどはっきりと言った。

「私が決めること」

個室に沈黙が落ちた。

美月の心臓はうるさかった。

父にこんなふうに言ったことがあっただろうか。

たぶん、ない。

父はゆっくり椅子に背を預けた。

そして、ふっと笑った。

「言うようになったな」

その声は、怒っていなかった。

呆れてもいなかった。

どこか、面白がっているような。

いや。

少しだけ、嬉しそうな。

母が静かに微笑んだ。

父は理久を見る。

「藤崎先生」

「はい」

「娘は、面倒だぞ」

美月は思わず父を見る。

「お父さん」

父は無視した。

「理屈っぽい。頑固だ。自分で決めたがるくせに、認められないと傷つく」

美月は何も言えなくなった。

当たりすぎている。

理久は少しだけ笑った。

「分かっているつもりです」

美月は理久を見る。

「理久」

理久は穏やかな顔で続けた。

「そこも含めて、美月さんです」

父は理久をじっと見る。

「うまいことを言う」

「本心です」

「本心なら、厄介だな」

父は低く笑った。

それから、少しだけ表情を改めた。

「私は、娘を利用されるのが嫌いだ」

その言葉に、美月は胸が詰まった。

父は理久を見据える。

「たとえ相手がどれだけ優秀でも、家柄が良くても、将来性があっても。娘を踏み台にするなら許さん」

理久は、すぐに深く頭を下げた。

「承知しています」

「だが」

父は少し間を置いた。

「娘が自分で選んだなら、それは娘の人生だ」

美月は息を止めた。

父は美月を見る。

「美月」

「……はい」

「本当にいいんだな」

その問いは、さっきまでの試すような声ではなかった。

父親の声だった。

美月は、しっかり頷いた。

「うん」

父は、ほんの少しだけ目を伏せた。

それから、理久へ向き直る。

「藤崎先生」

「はい」

「娘をよろしく頼む」

理久は深く頭を下げた。

「必ず大切にします」

その声は、静かだった。

けれど、揺るがなかった。

母がそっとハンカチで目元を押さえた。

美月は、ようやく息を吐いた。

父は湯呑みを手に取り、ひと口飲んだ。

そして言った。

「ただし」

全員が父を見る。

「留学の話は、今度きっちり聞かせてもらう。研究内容、期間、帰国後の見通し、美月の生活設計も含めてだ」

美月は思わず肩を落とした。

やはり、父は父だった。

理久は少しだけ笑って答えた。

「もちろんです」

父は満足そうに頷く。

「それと、藤崎先生」

「はい」

「今後は、会場ではなく、食事の席で話そう」

理久は静かに頷いた。

「ぜひ、お願いいたします」

母が小さく笑う。

「あなた、本当に面接みたい」

「当然だろう」

父は何食わぬ顔で言う。

「娘の結婚相手だぞ」

その言葉に、美月の胸が少しだけ温かくなった。

父は父なりに、娘の結婚相手として理久を見てくれていたのだ。

食事を終え、個室を出る。

店の廊下は静かだった。

父と母が少し前を歩く。

美月は隣の理久を見た。

理久は、いつものように穏やかな顔をしている。

でも、ほんの少しだけ肩の力が抜けているようにも見えた。

「理久」

小さく呼ぶ。

「うん」

「ありがとう」

理久は美月を見る。

「美月が言ったんだよ」

「え?」

「私が決めること、って」

美月は少しだけ顔が熱くなった。

理久は柔らかく笑う。

「かっこよかった」

「……やめて」

「本当」

美月は前を歩く父と母の背中を見る。

父は、まだ理久を簡単に許したわけではない。

けれど、拒まなかった。

母は、横にいてくれた。

理久は、逃げなかった。

そして自分も。

初めて、父の前で自分の人生を自分で決めると言えた。

美月は胸の奥が静かに震えるのを感じながら、理久の隣を歩いた。

指輪は、まだバッグの中にある。

けれどその重みは、確かに自分の中にあった。
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