光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第49話 戦友のはじまり
及川蒼真は、自分を特別に不幸だと思ったことはなかった。
医者の家に生まれたわけではない。
けれど、両親には大事に育てられ、望んだ道へ進ませてもらった。
第一志望の国立医学部には届かなかった。
それでも、私大では最難関と言われる医学部に入った。
両親は少しも嫌な顔をしなかった。
「蒼真が行きたいなら、行きなさい」
そう言ってくれた。
そのことには、今でも感謝している。
性格上、人と話すのに困ったことはない。
場の空気を読むのも、人との距離を測るのも、たぶん下手ではなかった。
軽い、と言われることはある。
けれど、学生時代から付き合っている彼女がいて、他へ目を向けようと思ったことはなかった。
軽く見えることと、不誠実であることは違う。
失って困るものまで軽く扱うほど、及川は馬鹿ではなかった。
卒業後、及川はそのまま大学病院の前期研修医になった。
自分の大学だ。
馴染みのある廊下。
馴染みのあるナースステーション。
部活の先輩もいれば、顔見知りの医師や看護師もいる。
完全なアウェイではない。
最初に10A病棟を回ることになった時も、そこまで緊張はしなかった。
10Aは内科病棟だった。
忙しい。
検査も入退院も多い。
内服の変更、点滴、血糖管理、急な発熱や呼吸状態の変化。
一つひとつは地味に見えるのに、確認を一つ落とすだけで簡単に患者へ影響する。
看護師は鋭い。
研修医には当然厳しい。
それくらいは、学生の頃から聞いていた。
実際、10Aは容赦がなかった。
「及川先生、指示簿のここ、確認しました?」
「すみません、今見ます」
「今じゃ遅いです。患者さん、もう検査に出ます」
「はい、すぐ直します」
「すぐ、じゃなくて、次から前日に確認してください」
「はい、次から前日に確認します」
そう返すと、ベテラン看護師は少しだけ目を細めた。
「返事はいいですね」
「返事だけにならないように頑張ります」
「本当にお願いします」
厳しい。
けれど、理不尽ではない。
及川はそう感じていた。
言われたことを直せばいい。
分からなければ聞けばいい。
怒られたら謝って、次に活かせばいい。
そのくらいの明るさと図太さは、及川の長所だった。
その年、10Aには新人看護師が三人いた。
柏木香澄。
よく走り、よく怒られ、それでもすぐに立ち直るタイプ。
小野寺真帆。
注意されるとすぐに涙が溜まり、周りが放っておけなくなるタイプ。
そして、綾瀬美月。
他大出身。
人目を引く顔立ちをしていた。
けれど、本人はそれを武器にする気など少しもなさそうだった。
むしろ、近づくな、と全身で言っているような雰囲気があった。
目が鋭い。
声は落ち着いている。
でも、言葉に棘がある。
病棟にも、あまり馴染んでいるようには見えなかった。
先輩に囲まれて笑う香澄とも、心配されながら守られる真帆とも違う。
美月は、ひとりで立っていた。
立とうとしている、というより、誰にも頼らないと決めているようにも見えた。
そのくせ、仕事はよく見ていた。
研修医の及川にも容赦がない。
「及川先生」
「はい」
「この患者さん、午後の造影CT前に確認が必要な内服があります。確認済みですか」
「あ、確認します」
「確認します、ではなく、もう時間です」
「すみません」
「患者さんには説明されていますか」
「……まだです」
「では、今お願いします。こちらも準備があるので」
正論だった。
一分の隙もない。
新人看護師のはずなのに、確認事項は的確だった。
先輩の後ろに隠れているわけでもない。
分からないところは必死に調べ、分かるところは怖いくらい真っ直ぐ突いてくる。
及川は、内心で少し感心していた。
相当優秀なんだろうな。
それと同時に、少しだけ不思議でもあった。
どうして、ここまで一人で立とうとするのだろう。
* * *
ある日の午後、及川がナースステーションで電子カルテを開いていると、美月が横に来た。
「及川先生」
「はい、綾瀬さん」
「この指示、内服の中止日が二重になっています」
「え、どれ?」
美月は画面を指差した。
「ここと、こっちです。同じ薬剤で日付がずれています。どちらが正しいですか」
「あー、ほんとだ。古い方が残ってる。消します」
「お願いします。患者さんにそのまま説明すると混乱します」
「それは本当に困る」
及川が素直に頷くと、美月は一瞬、妙な顔をした。
「……怒らないんですね」
「え?」
「指摘されると、不機嫌になる先生もいるので」
「あー」
及川は少し笑った。
「俺、間違ってたら普通に言ってほしい派」
美月は疑わしそうに及川を見た。
「本当にですか」
「本当。むしろ見つけてくれて助かった。ありがとう」
美月は、わずかに視線を逸らした。
「……別に、当然の確認です」
「その当然がありがたいんだって」
「軽いですね」
「よく言われる」
「いい意味ではありません」
「知ってる」
美月は少しだけ黙った。
ほんのわずかに、表情が崩れた気がした。
笑ったわけではない。
でも、棘の先が少しだけ丸くなった。
及川は電子カルテを修正しながら思った。
意外と面白いやつかもしれない。
そんな日々が続いた。
及川は相変わらず看護師に怒られ、注意され、笑って受け止めた。
香澄は走り回りながら怒られ、真帆は泣きながら励まされていた。
美月は怒られても泣かなかった。
むしろ、泣かないことで自分を守っているように見えた。
* * *
ある日の夕方だった。
検査出しと入院対応が重なり、病棟全体が慌ただしかった。
翌日に内視鏡検査を控えた患者がいて、本来なら、検査前の内服休薬と食事指示を先輩と一緒に確認する必要があった。
けれど、その日は急な発熱対応が入り、別の患者の点滴変更も重なった。
美月は、指示変更の一部を拾いきれていなかった。
患者へ影響が出る前に、先輩が気づいた。
大きな事故にはならなかった。
だが、10Aではそれで済まない。
「綾瀬さん、これ確認した?」
「……すみません。確認が抜けていました」
「すみませんじゃなくて。検査前の休薬確認は、誰が見ても分かるようにしておかないと」
「はい」
「患者さんに影響が出る可能性があるって分かってる?」
「はい」
「忙しいのは全員同じ。忙しいから確認が抜けるなら、この病棟では危ない」
声は大きくなかった。
けれど、きつかった。
美月は立ったまま、じっと聞いていた。
言い訳はしない。
泣きもしない。
ただ、顔色が少しずつ白くなっていく。
及川はナースステーションの脇で、その場面を見てしまった。
見ていいものではない気がして、すぐにカルテへ視線を戻した。
けれど、美月の横顔が目に残った。
その日の仕事が少し落ち着いた頃、美月は病棟を出ていった。
足早ではなかった。
でも、誰にも見られたくないような歩き方だった。
及川は手元の仕事を片づけ、少しだけ迷った。
追いかける義理はない。
相手は新人看護師で、自分は研修医だ。
しかも、たいして親しいわけでもない。
下手に声をかければ、余計なお世話だと言われる可能性の方が高い。
けれど、及川は立ち上がった。
売店の自販機で缶コーヒーを二本買う。
一本はブラック。
もう一本は、なんとなく甘いカフェオレにした。
病棟のある階から少し離れた、人気の少ない渡り廊下の端に、美月は座っていた。
窓際のベンチ。
外はもう薄暗くなり始めている。
美月は俯いていた。
及川が近づくと、美月はすぐに顔を上げた。
睨むような目だった。
けれど、その目には涙が溜まっていた。
「何ですか」
声は硬かった。
及川は何も言わず、カフェオレの缶を差し出した。
美月は受け取らない。
「いりません」
「まあまあ」
「まあまあ、ではありません」
「じゃあ、置いとく」
及川はベンチの端に缶を置き、自分は少し距離を空けて隣に座った。
プルタブを開ける音が、やけに大きく響いた。
美月は顔を背けた。
及川は何も言わず、ブラックコーヒーを一口飲んだ。
苦い。
思ったより苦かった。
「……何しに来たんですか」
美月が先に言った。
「コーヒー飲みに」
「ここで?」
「うん。穴場かなって」
「嘘が下手ですね」
「よく言われる」
「いい意味ではありません」
「それも知ってる」
美月は黙った。
及川も黙った。
しばらく、二人の間に何もない時間が落ちた。
美月は膝の上で手を握っていた。
爪が食い込みそうなくらい強い。
及川は窓の外を見ながら言った。
「うまくいかない時ってあるよね」
美月の肩がわずかに動く。
「私が悪いので」
「うん」
美月は、少しだけ及川を見た。
同情されると思っていたのかもしれない。
及川は続けた。
「確認が抜けた。そこは次から直す。以上」
「簡単に言いますね」
「簡単には言ってないよ。俺も毎日怒られてるし」
「それは、先生がよく抜けているからでは」
「え、急に刺すじゃん」
美月は口を閉じた。
けれど、さっきより少しだけ空気が動いた。
及川は苦笑した。
「まあ、否定はできない」
「……」
「でも、怒られた分だけ直せばいいじゃん。俺もそうしてる」
美月は下を向いたまま、低く言った。
「私は、先生とは違います」
「うん?」
「私は、失敗したら終わりなんです」
及川は缶を持つ手を止めた。
「終わり?」
美月はしばらく黙っていた。
及川が隣に座っている。
ただそれだけなのに、美月は何かを警戒するように肩を固くしていた。
まるで、叱責とは別のものからも自分を守ろうとしているみたいに。
それから、吐き出すように言った。
「好意を向けられても困ります」
及川は、数秒、完全に固まった。
「……え?」
意味が分からなかった。
今、何の話だ。
好意。
誰が。
誰に。
及川は美月を見る。
美月は涙を溜めた目で、まっすぐこちらを睨んでいた。
まるで、先に防御線を引いているようだった。
「私に近づいても、何もありません」
「いや、待って」
及川は思わず手を上げた。
「急に何の話?」
美月は唇を結んだ。
「そういうの、何度もあったので」
「そういうのって」
美月は少しだけ唇を噛んだ。
「……父が、医師なんです」
「うん」
「名の知られた教授です」
及川は黙った。
美月は窓の外に目を向けたまま、続けた。
「父の名前を知ると、急に態度が変わる人がいます。私を見ているのか、父を見ているのか、分からなくなる」
「……」
「だから、先に言っておきます。私に近づいても、何もありません」
話を聞いて、及川はようやく少しだけ理解した。
美月の父親は、名の知れた教授らしい。
その父に近づくために、美月へ近づいてくる人がいた。
及川には、それがどれほど厄介なことなのか、まだ実感としては分からなかった。
医者家系でもない。
教授の娘という立場がどれほど重いものなのかも、正直ぴんと来ていない。
ただ、美月がそれをひどく面倒なものとして背負っていることだけは分かった。
新人看護師が、泣きそうな顔で、自分から父親の存在を盾のように出している。
いや、盾ではない。
牽制だ。
近づくな。
期待するな。
利用するな。
そう言っている。
及川は少しだけ息を吐いた。
「なるほど」
美月の目が鋭くなる。
「何が、なるほど、ですか」
「いや、綾瀬さん、めちゃくちゃ面倒くさいなと思って」
美月が固まった。
「……は?」
「いい意味ではないからね」
「分かっています」
「でも、ちょっと分かった」
及川は缶コーヒーを手の中で回した。
「俺さ、綾瀬さんのお父さんのこと、正直全然知らないんだよね」
美月は黙る。
「教授なんだ。はいはい、なんとなく理解、くらい」
「……軽いですね」
「ごめん。でも本当にその程度」
及川は窓の外を見た。
「俺、医者家系じゃないし、そういう人脈とか派閥とか、まだ全然分かってない」
「……」
「だから、綾瀬さんに近づいて得しようとか、そういう頭がそもそもない」
美月は少しだけ視線を落とした。
「じゃあ、何で来たんですか」
「泣きそうだったから」
美月の肩が揺れた。
「泣いていません」
「今のところは」
「泣きません」
「それはそれで、しんどくない?」
美月は答えなかった。
及川は、少しだけ声を軽くした。
「ていうかさ、綾瀬さん」
「何ですか」
「ここでは、自分らしくやればいいじゃん」
美月はゆっくり及川を見た。
「自分らしく?」
「うん。失敗しながらやろうよ。俺も失敗だらけだし」
美月は数秒、及川を見ていた。
その視線が、さっきより少しだけ柔らかくなった。
及川は缶コーヒーを持ち直し、ふと口にした。
「綾瀬」
美月の眉が動いた。
「……今、呼び捨てにしました?」
「あ、ごめん。嫌なら戻す」
美月は少し黙った。
それから、視線を逸らして言った。
「別に。先生も、あまり先生らしくないので」
「医師免許はちゃんと持ってるけど」
「当たり前です」
「ていうか、さっき好意とか言ってたけど、そっちこそ俺に惚れたり——」
「しません」
即答だった。
「医者全般、お断りです」
「最後まで言わせてもらえないんだ」
「言わせる必要がありません」
「だろうね」
及川は思わず笑った。
美月の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑った。
たぶん。
少なくとも、及川にはそう見えた。
美月は、ベンチの端に置かれていたカフェオレの缶を手に取った。
「……缶コーヒー、いただきます」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
美月は缶を開けた。
小さな音が、静かな渡り廊下に響いた。
それから二人は、しばらく何も言わずに缶コーヒーを飲んだ。
慰めたわけではない。
励ましたわけでもない。
及川は、ただ隣でコーヒーを飲んだだけだった。
でも、その日から少しだけ変わった。
及川は美月を、綾瀬と呼ぶようになった。
もちろん、患者の前や、改まった場では綾瀬さん。
けれど、ナースステーションの端で指示を確認する時や、廊下ですれ違う時には、及川は軽く声をかけた。
「綾瀬、生きてる?」
「先生こそ、顔色が悪いです」
「それは当直明けだから」
「なら、早く寝てください」
「優しい」
「業務上の助言です」
そんな短いやり取りが、少しずつ病棟の空気にも混ざっていった。
* * *
ある日、美月が先輩看護師に指摘を受けていた。
「綾瀬さん、これ間違ってるわよ」
「すみません。直します」
美月がすぐに頭を下げる。
その横で、及川が電子カルテを覗き込みながら言った。
「綾瀬が間違えてる」
美月は顔を上げ、及川を睨んだ。
「及川先生は、よく間違えていますけどね」
「え、急に刺すじゃん」
先輩看護師が思わず笑った。
「でも、綾瀬さんの方が優秀よ」
及川はすぐに乗った。
「綾瀬、ほめられた」
「及川先生と比べられても意味がありません」
「うわっ、また刺された」
「刺していません」
「心の傷になった」
「どこがですか」
先輩看護師が、今度ははっきり笑った。
「二人、仲いいのね」
「仲良くないです」
美月は即答した。
及川はわざと傷ついた顔をして、周りにいた看護師たちへ視線を向ける。
「綾瀬、冷たいと思いません?」
「それは及川先生がお調子者だからでしょ」
別の先輩が笑いながら言った。
「綾瀬さんは10Aのホープなんだから、及川先生、ちょっかい出さないでね」
「だってさ、綾瀬」
及川は美月を見る。
「10Aのホープ」
美月は一瞬、言葉に詰まった。
「……そういうの、やめてください」
「あ、照れてる」
「照れていません」
「いや、今のは照れてた」
「違います」
否定する美月の声は硬かった。
けれど、その場の空気は柔らかかった。
先輩看護師たちは笑っていて、誰も美月を突き放していなかった。
美月はその時、少しだけ息がしやすくなった気がした。
うまく感情を出すのは、まだ難しい。
素直に笑うことも、頼ることも、簡単にはできない。
それでも、及川が軽く話を振るたびに、先輩たちの中に美月の居場所が少しずつできていった。
厳しいだけの10Aではなく。
失敗すれば叱られるけれど、それでも次に進ませてくれる場所。
美月は少しずつ、そこに馴染んでいった。
及川が10Aを離れたあとも、院内で顔を合わせることはあった。
廊下で。
売店で。
当直明けのエレベーターで。
立ち止まれる時には、少しだけ話した。
患者のこと。
当直のこと。
病棟の忙しさ。
どうでもいいようで、その日をどうにか越えるために必要なこと。
美月はしばらく、及川のことを及川先生と呼び続けた。
病棟では、それが自然だった。
研修医と看護師。
医師と病棟スタッフ。
その線は、簡単になくならない。
それでも、いつの間にか、美月の呼び方も変わっていた。
「及川先生」ではなく、「及川くん」。
恋でもない。
友情と言うには、少し仕事に寄りすぎている。
けれど、同じ病棟で怒られ、失敗し、患者を見て、どうにか一日を終える。
そういう時間を知っている相手だった。
及川にとって美月は、最初の戦友だった。
医者の家に生まれたわけではない。
けれど、両親には大事に育てられ、望んだ道へ進ませてもらった。
第一志望の国立医学部には届かなかった。
それでも、私大では最難関と言われる医学部に入った。
両親は少しも嫌な顔をしなかった。
「蒼真が行きたいなら、行きなさい」
そう言ってくれた。
そのことには、今でも感謝している。
性格上、人と話すのに困ったことはない。
場の空気を読むのも、人との距離を測るのも、たぶん下手ではなかった。
軽い、と言われることはある。
けれど、学生時代から付き合っている彼女がいて、他へ目を向けようと思ったことはなかった。
軽く見えることと、不誠実であることは違う。
失って困るものまで軽く扱うほど、及川は馬鹿ではなかった。
卒業後、及川はそのまま大学病院の前期研修医になった。
自分の大学だ。
馴染みのある廊下。
馴染みのあるナースステーション。
部活の先輩もいれば、顔見知りの医師や看護師もいる。
完全なアウェイではない。
最初に10A病棟を回ることになった時も、そこまで緊張はしなかった。
10Aは内科病棟だった。
忙しい。
検査も入退院も多い。
内服の変更、点滴、血糖管理、急な発熱や呼吸状態の変化。
一つひとつは地味に見えるのに、確認を一つ落とすだけで簡単に患者へ影響する。
看護師は鋭い。
研修医には当然厳しい。
それくらいは、学生の頃から聞いていた。
実際、10Aは容赦がなかった。
「及川先生、指示簿のここ、確認しました?」
「すみません、今見ます」
「今じゃ遅いです。患者さん、もう検査に出ます」
「はい、すぐ直します」
「すぐ、じゃなくて、次から前日に確認してください」
「はい、次から前日に確認します」
そう返すと、ベテラン看護師は少しだけ目を細めた。
「返事はいいですね」
「返事だけにならないように頑張ります」
「本当にお願いします」
厳しい。
けれど、理不尽ではない。
及川はそう感じていた。
言われたことを直せばいい。
分からなければ聞けばいい。
怒られたら謝って、次に活かせばいい。
そのくらいの明るさと図太さは、及川の長所だった。
その年、10Aには新人看護師が三人いた。
柏木香澄。
よく走り、よく怒られ、それでもすぐに立ち直るタイプ。
小野寺真帆。
注意されるとすぐに涙が溜まり、周りが放っておけなくなるタイプ。
そして、綾瀬美月。
他大出身。
人目を引く顔立ちをしていた。
けれど、本人はそれを武器にする気など少しもなさそうだった。
むしろ、近づくな、と全身で言っているような雰囲気があった。
目が鋭い。
声は落ち着いている。
でも、言葉に棘がある。
病棟にも、あまり馴染んでいるようには見えなかった。
先輩に囲まれて笑う香澄とも、心配されながら守られる真帆とも違う。
美月は、ひとりで立っていた。
立とうとしている、というより、誰にも頼らないと決めているようにも見えた。
そのくせ、仕事はよく見ていた。
研修医の及川にも容赦がない。
「及川先生」
「はい」
「この患者さん、午後の造影CT前に確認が必要な内服があります。確認済みですか」
「あ、確認します」
「確認します、ではなく、もう時間です」
「すみません」
「患者さんには説明されていますか」
「……まだです」
「では、今お願いします。こちらも準備があるので」
正論だった。
一分の隙もない。
新人看護師のはずなのに、確認事項は的確だった。
先輩の後ろに隠れているわけでもない。
分からないところは必死に調べ、分かるところは怖いくらい真っ直ぐ突いてくる。
及川は、内心で少し感心していた。
相当優秀なんだろうな。
それと同時に、少しだけ不思議でもあった。
どうして、ここまで一人で立とうとするのだろう。
* * *
ある日の午後、及川がナースステーションで電子カルテを開いていると、美月が横に来た。
「及川先生」
「はい、綾瀬さん」
「この指示、内服の中止日が二重になっています」
「え、どれ?」
美月は画面を指差した。
「ここと、こっちです。同じ薬剤で日付がずれています。どちらが正しいですか」
「あー、ほんとだ。古い方が残ってる。消します」
「お願いします。患者さんにそのまま説明すると混乱します」
「それは本当に困る」
及川が素直に頷くと、美月は一瞬、妙な顔をした。
「……怒らないんですね」
「え?」
「指摘されると、不機嫌になる先生もいるので」
「あー」
及川は少し笑った。
「俺、間違ってたら普通に言ってほしい派」
美月は疑わしそうに及川を見た。
「本当にですか」
「本当。むしろ見つけてくれて助かった。ありがとう」
美月は、わずかに視線を逸らした。
「……別に、当然の確認です」
「その当然がありがたいんだって」
「軽いですね」
「よく言われる」
「いい意味ではありません」
「知ってる」
美月は少しだけ黙った。
ほんのわずかに、表情が崩れた気がした。
笑ったわけではない。
でも、棘の先が少しだけ丸くなった。
及川は電子カルテを修正しながら思った。
意外と面白いやつかもしれない。
そんな日々が続いた。
及川は相変わらず看護師に怒られ、注意され、笑って受け止めた。
香澄は走り回りながら怒られ、真帆は泣きながら励まされていた。
美月は怒られても泣かなかった。
むしろ、泣かないことで自分を守っているように見えた。
* * *
ある日の夕方だった。
検査出しと入院対応が重なり、病棟全体が慌ただしかった。
翌日に内視鏡検査を控えた患者がいて、本来なら、検査前の内服休薬と食事指示を先輩と一緒に確認する必要があった。
けれど、その日は急な発熱対応が入り、別の患者の点滴変更も重なった。
美月は、指示変更の一部を拾いきれていなかった。
患者へ影響が出る前に、先輩が気づいた。
大きな事故にはならなかった。
だが、10Aではそれで済まない。
「綾瀬さん、これ確認した?」
「……すみません。確認が抜けていました」
「すみませんじゃなくて。検査前の休薬確認は、誰が見ても分かるようにしておかないと」
「はい」
「患者さんに影響が出る可能性があるって分かってる?」
「はい」
「忙しいのは全員同じ。忙しいから確認が抜けるなら、この病棟では危ない」
声は大きくなかった。
けれど、きつかった。
美月は立ったまま、じっと聞いていた。
言い訳はしない。
泣きもしない。
ただ、顔色が少しずつ白くなっていく。
及川はナースステーションの脇で、その場面を見てしまった。
見ていいものではない気がして、すぐにカルテへ視線を戻した。
けれど、美月の横顔が目に残った。
その日の仕事が少し落ち着いた頃、美月は病棟を出ていった。
足早ではなかった。
でも、誰にも見られたくないような歩き方だった。
及川は手元の仕事を片づけ、少しだけ迷った。
追いかける義理はない。
相手は新人看護師で、自分は研修医だ。
しかも、たいして親しいわけでもない。
下手に声をかければ、余計なお世話だと言われる可能性の方が高い。
けれど、及川は立ち上がった。
売店の自販機で缶コーヒーを二本買う。
一本はブラック。
もう一本は、なんとなく甘いカフェオレにした。
病棟のある階から少し離れた、人気の少ない渡り廊下の端に、美月は座っていた。
窓際のベンチ。
外はもう薄暗くなり始めている。
美月は俯いていた。
及川が近づくと、美月はすぐに顔を上げた。
睨むような目だった。
けれど、その目には涙が溜まっていた。
「何ですか」
声は硬かった。
及川は何も言わず、カフェオレの缶を差し出した。
美月は受け取らない。
「いりません」
「まあまあ」
「まあまあ、ではありません」
「じゃあ、置いとく」
及川はベンチの端に缶を置き、自分は少し距離を空けて隣に座った。
プルタブを開ける音が、やけに大きく響いた。
美月は顔を背けた。
及川は何も言わず、ブラックコーヒーを一口飲んだ。
苦い。
思ったより苦かった。
「……何しに来たんですか」
美月が先に言った。
「コーヒー飲みに」
「ここで?」
「うん。穴場かなって」
「嘘が下手ですね」
「よく言われる」
「いい意味ではありません」
「それも知ってる」
美月は黙った。
及川も黙った。
しばらく、二人の間に何もない時間が落ちた。
美月は膝の上で手を握っていた。
爪が食い込みそうなくらい強い。
及川は窓の外を見ながら言った。
「うまくいかない時ってあるよね」
美月の肩がわずかに動く。
「私が悪いので」
「うん」
美月は、少しだけ及川を見た。
同情されると思っていたのかもしれない。
及川は続けた。
「確認が抜けた。そこは次から直す。以上」
「簡単に言いますね」
「簡単には言ってないよ。俺も毎日怒られてるし」
「それは、先生がよく抜けているからでは」
「え、急に刺すじゃん」
美月は口を閉じた。
けれど、さっきより少しだけ空気が動いた。
及川は苦笑した。
「まあ、否定はできない」
「……」
「でも、怒られた分だけ直せばいいじゃん。俺もそうしてる」
美月は下を向いたまま、低く言った。
「私は、先生とは違います」
「うん?」
「私は、失敗したら終わりなんです」
及川は缶を持つ手を止めた。
「終わり?」
美月はしばらく黙っていた。
及川が隣に座っている。
ただそれだけなのに、美月は何かを警戒するように肩を固くしていた。
まるで、叱責とは別のものからも自分を守ろうとしているみたいに。
それから、吐き出すように言った。
「好意を向けられても困ります」
及川は、数秒、完全に固まった。
「……え?」
意味が分からなかった。
今、何の話だ。
好意。
誰が。
誰に。
及川は美月を見る。
美月は涙を溜めた目で、まっすぐこちらを睨んでいた。
まるで、先に防御線を引いているようだった。
「私に近づいても、何もありません」
「いや、待って」
及川は思わず手を上げた。
「急に何の話?」
美月は唇を結んだ。
「そういうの、何度もあったので」
「そういうのって」
美月は少しだけ唇を噛んだ。
「……父が、医師なんです」
「うん」
「名の知られた教授です」
及川は黙った。
美月は窓の外に目を向けたまま、続けた。
「父の名前を知ると、急に態度が変わる人がいます。私を見ているのか、父を見ているのか、分からなくなる」
「……」
「だから、先に言っておきます。私に近づいても、何もありません」
話を聞いて、及川はようやく少しだけ理解した。
美月の父親は、名の知れた教授らしい。
その父に近づくために、美月へ近づいてくる人がいた。
及川には、それがどれほど厄介なことなのか、まだ実感としては分からなかった。
医者家系でもない。
教授の娘という立場がどれほど重いものなのかも、正直ぴんと来ていない。
ただ、美月がそれをひどく面倒なものとして背負っていることだけは分かった。
新人看護師が、泣きそうな顔で、自分から父親の存在を盾のように出している。
いや、盾ではない。
牽制だ。
近づくな。
期待するな。
利用するな。
そう言っている。
及川は少しだけ息を吐いた。
「なるほど」
美月の目が鋭くなる。
「何が、なるほど、ですか」
「いや、綾瀬さん、めちゃくちゃ面倒くさいなと思って」
美月が固まった。
「……は?」
「いい意味ではないからね」
「分かっています」
「でも、ちょっと分かった」
及川は缶コーヒーを手の中で回した。
「俺さ、綾瀬さんのお父さんのこと、正直全然知らないんだよね」
美月は黙る。
「教授なんだ。はいはい、なんとなく理解、くらい」
「……軽いですね」
「ごめん。でも本当にその程度」
及川は窓の外を見た。
「俺、医者家系じゃないし、そういう人脈とか派閥とか、まだ全然分かってない」
「……」
「だから、綾瀬さんに近づいて得しようとか、そういう頭がそもそもない」
美月は少しだけ視線を落とした。
「じゃあ、何で来たんですか」
「泣きそうだったから」
美月の肩が揺れた。
「泣いていません」
「今のところは」
「泣きません」
「それはそれで、しんどくない?」
美月は答えなかった。
及川は、少しだけ声を軽くした。
「ていうかさ、綾瀬さん」
「何ですか」
「ここでは、自分らしくやればいいじゃん」
美月はゆっくり及川を見た。
「自分らしく?」
「うん。失敗しながらやろうよ。俺も失敗だらけだし」
美月は数秒、及川を見ていた。
その視線が、さっきより少しだけ柔らかくなった。
及川は缶コーヒーを持ち直し、ふと口にした。
「綾瀬」
美月の眉が動いた。
「……今、呼び捨てにしました?」
「あ、ごめん。嫌なら戻す」
美月は少し黙った。
それから、視線を逸らして言った。
「別に。先生も、あまり先生らしくないので」
「医師免許はちゃんと持ってるけど」
「当たり前です」
「ていうか、さっき好意とか言ってたけど、そっちこそ俺に惚れたり——」
「しません」
即答だった。
「医者全般、お断りです」
「最後まで言わせてもらえないんだ」
「言わせる必要がありません」
「だろうね」
及川は思わず笑った。
美月の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑った。
たぶん。
少なくとも、及川にはそう見えた。
美月は、ベンチの端に置かれていたカフェオレの缶を手に取った。
「……缶コーヒー、いただきます」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
美月は缶を開けた。
小さな音が、静かな渡り廊下に響いた。
それから二人は、しばらく何も言わずに缶コーヒーを飲んだ。
慰めたわけではない。
励ましたわけでもない。
及川は、ただ隣でコーヒーを飲んだだけだった。
でも、その日から少しだけ変わった。
及川は美月を、綾瀬と呼ぶようになった。
もちろん、患者の前や、改まった場では綾瀬さん。
けれど、ナースステーションの端で指示を確認する時や、廊下ですれ違う時には、及川は軽く声をかけた。
「綾瀬、生きてる?」
「先生こそ、顔色が悪いです」
「それは当直明けだから」
「なら、早く寝てください」
「優しい」
「業務上の助言です」
そんな短いやり取りが、少しずつ病棟の空気にも混ざっていった。
* * *
ある日、美月が先輩看護師に指摘を受けていた。
「綾瀬さん、これ間違ってるわよ」
「すみません。直します」
美月がすぐに頭を下げる。
その横で、及川が電子カルテを覗き込みながら言った。
「綾瀬が間違えてる」
美月は顔を上げ、及川を睨んだ。
「及川先生は、よく間違えていますけどね」
「え、急に刺すじゃん」
先輩看護師が思わず笑った。
「でも、綾瀬さんの方が優秀よ」
及川はすぐに乗った。
「綾瀬、ほめられた」
「及川先生と比べられても意味がありません」
「うわっ、また刺された」
「刺していません」
「心の傷になった」
「どこがですか」
先輩看護師が、今度ははっきり笑った。
「二人、仲いいのね」
「仲良くないです」
美月は即答した。
及川はわざと傷ついた顔をして、周りにいた看護師たちへ視線を向ける。
「綾瀬、冷たいと思いません?」
「それは及川先生がお調子者だからでしょ」
別の先輩が笑いながら言った。
「綾瀬さんは10Aのホープなんだから、及川先生、ちょっかい出さないでね」
「だってさ、綾瀬」
及川は美月を見る。
「10Aのホープ」
美月は一瞬、言葉に詰まった。
「……そういうの、やめてください」
「あ、照れてる」
「照れていません」
「いや、今のは照れてた」
「違います」
否定する美月の声は硬かった。
けれど、その場の空気は柔らかかった。
先輩看護師たちは笑っていて、誰も美月を突き放していなかった。
美月はその時、少しだけ息がしやすくなった気がした。
うまく感情を出すのは、まだ難しい。
素直に笑うことも、頼ることも、簡単にはできない。
それでも、及川が軽く話を振るたびに、先輩たちの中に美月の居場所が少しずつできていった。
厳しいだけの10Aではなく。
失敗すれば叱られるけれど、それでも次に進ませてくれる場所。
美月は少しずつ、そこに馴染んでいった。
及川が10Aを離れたあとも、院内で顔を合わせることはあった。
廊下で。
売店で。
当直明けのエレベーターで。
立ち止まれる時には、少しだけ話した。
患者のこと。
当直のこと。
病棟の忙しさ。
どうでもいいようで、その日をどうにか越えるために必要なこと。
美月はしばらく、及川のことを及川先生と呼び続けた。
病棟では、それが自然だった。
研修医と看護師。
医師と病棟スタッフ。
その線は、簡単になくならない。
それでも、いつの間にか、美月の呼び方も変わっていた。
「及川先生」ではなく、「及川くん」。
恋でもない。
友情と言うには、少し仕事に寄りすぎている。
けれど、同じ病棟で怒られ、失敗し、患者を見て、どうにか一日を終える。
そういう時間を知っている相手だった。
及川にとって美月は、最初の戦友だった。