光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第50話 決める前に

朝の10Aは、いつも通り慌ただしかった。

夜勤者からの申し送り。

検査予定の確認。

内服変更。

点滴更新。

入院予定のベッド調整。

廊下を行き交う看護師の足音と、ナースコールの音。

電子カルテの画面に並ぶ情報。

そのすべてが、美月にはもう身体に染みついていた。

新人の頃は、朝の申し送りだけで息が詰まりそうだった。

何を聞き漏らしてはいけないのか。

どこに線を引けばいいのか。

どの患者の何を優先すべきなのか。

分からないことばかりだった。

今は違う。

申し送りを聞きながら、今日の流れを頭の中で組み立てる。

午前の検査出し。

午後の家族面談。

血糖変動のある患者。

退院調整中の患者。

新人がつく処置。

美月は、手元のメモに必要なことだけを書き足した。

「綾瀬さん、今日、山田さんの検査出し、私が行くんですよね」

隣で後輩の看護師が小声で確認してきた。

「うん。造影CTだから、ルートと同意書、あと内服の確認を先に見ておいて」

「はい」

「不安なら、一回一緒に確認する」

「お願いします」

後輩は、少しほっとした顔をした。

その表情を見て、美月はふと、自分の新人時代を思い出した。

確認が抜けて、先輩に厳しく注意された日。

渡り廊下のベンチ。

あの頃は、ここに立っているだけで必死だった。

誰にも頼らないように。

弱く見えないように。

父の名前に寄りかかっていると思われないように。

ずっと肩に力が入っていた。

その自分が今、後輩に「一緒に確認する」と言っている。

そのことが少し不思議で、少しだけ胸に残った。

「綾瀬さん?」

後輩が不思議そうに見る。

美月は小さく首を振った。

「ごめん。あとで一緒に確認しようか」

「はい」

業務は容赦なく進んでいった。

検査に出る患者に声をかけ、医師に指示の確認をし、患者家族からの質問に答える。

昼前には急な発熱対応が入り、午後には退院前カンファレンスがあった。

新人の頃、10Aの厳しさはただ怖かった。

迷えば遅いと言われ、分からないまま動けば危ないと言われる。

そのたびに、美月は自分の足元ばかり見ていた。

けれど今は、その厳しさの意味が少し分かる。

誰かを責めるためではなく、患者を守るためにある厳しさ。

その中で、美月は少しずつ看護師になっていった。

午後の処置が一段落した頃、及川がナースステーションに顔を出した。

今ではもう、初期研修医ではない。

それなりに経験を積み、病棟でも医師としての顔が板についている。

それでも、美月から見れば、あの頃の軽さもどこか残っていた。

「綾瀬」

「はい」

「外科で併診してる患者さん、午後の尿量を見てから利尿剤の調整を相談したい。記録、後で確認させて」

「分かりました。今のところ尿量は安定しています」

「助かる」

及川は電子カルテを覗き込んだ。

美月も記録を開く。

業務の話をしているはずなのに、及川はふと、美月を見る。

「綾瀬」

「何ですか」

「今日、妙に静かじゃない?」

美月は手を止めた。

「仕事中です」

「いや、それはいつもそうだけど」

「では、いつも通りです」

「そう言われると、そうじゃない気がする」

「曖昧ですね」

「俺の勘、けっこう当たるよ」

「外れることも多いですよね」

「そこは否定しないけど」

及川は軽く笑った。

けれど、それ以上は踏み込まなかった。

視線を患者の記録へ戻す。

「ここまで見れば大丈夫。午後の尿量が出たら教えて」

「はい。こちらから連絡します」

「よろしく」

いつも通りの短いやり取り。

けれど、美月の中では、いつも通りではなかった。

藤崎家へ行った日から、ずっと考えている。

知らないまま怖がるのではなく、知ってから選びたい。

理久の隣に立つ未来を、怖がるだけではなく、ちゃんと見たい。

その気持ちは本物だった。

けれど、それは同時に、10Aを離れる可能性と向き合うことでもあった。

この病棟を離れるかもしれない。

今までと同じ働き方は、できなくなるかもしれない。

そう考えるだけで、胸の奥が重くなる。

自分はここで多くをもらった。

厳しさも。

悔しさも。

同期も。

戦友も。

患者と向き合う時間も。

簡単に手放せるものではなかった。

* * *

夕方、日勤の記録を終え、申し送りまで済ませたあとだった。

美月は更衣室へ向かう前に、少しだけ足を止めた。

誰かに呼ばれたわけではない。

ただ、少し考えたかった。

足が向いたのは、病棟から少し離れた渡り廊下だった。

窓際のベンチ。

新人の頃、何度も自分の感情を置き去りにしてきた場所。

美月はベンチには座らず、窓の前に立った。

外はもう夕方で、ガラスに薄く自分の顔が映っている。

少し疲れて見えた。

「……綾瀬?」

背後から声がした。

振り返ると、及川が立っていた。

白衣のポケットに片手を入れ、少し驚いた顔をしている。

「何してるの」

「少し、考えごとです」

業務外だから、呼び方だけは少し緩む。

及川は窓際のベンチを見て、少しだけ笑った。

「ここに来ると、だいたい何か考えてるよね」

「そうかもしれません」

「昔から」

「……否定できません」

及川は、美月の隣までは来なかった。

少し離れたところで、同じように窓の外を見る。

その距離が、昔と同じだった。

近すぎない。

でも、いなくならない。

「及川くんこそ、どうしてここに?」

「俺も頭を切り替えに来ただけ」

「業務から逃げてきたんですか?」

「人聞き悪いな」

「違うんですか?」

「違うと言い切りたいところではあるけど」

「言い切れないんですね」

「綾瀬、今日も容赦ないね」

いつもの軽さだった。

けれど、その軽さが、今は少しありがたかった。

美月は窓の外を見たまま、静かに言った。

「10Aを離れる可能性を、考えています」

及川はすぐには返事をしなかった。

珍しく、軽い相槌もない。

けれど、驚きすぎた顔もしなかった。

「……そっか」

「まだ決めたわけじゃないです」

「うん」

「でも、考えています」

「そういう顔してた」

美月は及川を見る。

「顔に出てましたか?」

「少し」

「嫌ですね」

「俺くらいしか気づかないと思うよ」

「それはそれで、嫌かも」

「ひどい」

及川は少し笑った。

その笑い方も、昔とあまり変わらない。

「止めてほしいの?」

美月は言葉に詰まった。

止めてほしい。

そう言われると、違う気がした。

でも、何も言われないのも、寂しい気がした。

自分でも面倒だと思う。

「……分からないです」

「じゃあ、止めない」

及川はあっさり言った。

美月は黙った。

「綾瀬が決めることだろ」

その言葉に、美月の胸が少しだけ揺れた。

及川は続ける。

「もちろん、いなくなったら困るよ。綾瀬、仕事できるし。後輩の面倒も見られるし。指示ミスも容赦なく拾ってくれるし」

「最後は及川くんの都合ですね」

「それは大事」

及川は肩をすくめる。

「でも、だから残れとは言わない」

美月は何も言えなかった。

「昔も言ったじゃん。ここでは自分らしくやればいいって」

「覚えてます」

「なら、今も同じだよ」

及川は軽く言った。

「綾瀬が、自分らしく選べばいい」

その言葉は、思ったより深く入ってきた。

自分らしく選ぶ。

それは簡単ではない。

けれど、及川が言うと、少しだけ難しさがほどける。

「及川くん」

「うん」

「軽いですね」

「またそれ?」

「でも、助かります」

及川は一瞬だけ目を丸くした。

それから、少しだけ笑った。

「綾瀬に助かるって言われる日が来るとは」

「取り消します」

「早い早い」

「調子に乗るので」

「乗るよ。全力で」

美月は少しだけ笑った。

その笑いを見て、及川も笑う。

渡り廊下の外は、もう暗くなり始めていた。

あの日の自分は、泣きそうな顔で、誰にも近づかせまいとしていた。

及川の軽さに巻き込まれて。

先輩たちの輪に少しずつ入れてもらって。

厳しさばかりが目についていた10Aが、いつの間にか居場所になっていた。

だから、苦しい。

ここを嫌いになったわけではない。

逃げ出したいわけでもない。

大切だからこそ、ちゃんと考えなければいけない。

「綾瀬」

及川が言った。

「はい」

「師長には?」

美月は、ゆっくり息を吸った。

「相談します」

「そっか」

「決めたわけじゃないから、何をどこまで話すかは考えます」

「うん」

「でも、何も言わずに一人で考えるのは、違う気がするので」

及川は頷いた。

「いいと思う」

その一言は、軽くなかった。

美月は少しだけ頭を下げた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

及川はそこで、いつもの顔に戻る。

「でも、今の俺、ちょっといいこと言ったよね」

美月は目を瞬いた。

「自分で言います?」

「言う。誰も褒めてくれないから」

「褒めるほどではないと思います」

「綾瀬、そういうところ」

美月は呆れたように息を吐いた。

けれど、少し笑っていた。

* * *

翌日、午前の処置が一段落したあと、美月は師長室の前で足を止めた。

扉の前に立つだけで、少しだけ胸が重くなる。

何かが決まったわけではない。

辞めると決めたわけでも、異動を願い出ると決めたわけでもない。

それでも、自分の中にある可能性を言葉にするには、勇気がいった。

美月は一度、深く息を吸った。

そして、扉をノックした。

「どうぞ」

中から師長の声がした。

「失礼します」

美月が入ると、師長は書類から顔を上げた。

「綾瀬さん、どうしたの」

美月は、少しだけ指先に力を入れた。

でも、目は逸らさなかった。

「お時間のある時で構いません」

師長が静かに美月を見る。

美月は続けた。

「今後のことで、ご相談したいことがあります」

師長の表情が、少しだけ真面目になる。

「分かった。今日の午後、少し時間を取ろうか」

「ありがとうございます」

言った瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。

決めたわけではない。

まだ何も終わっていない。

けれど美月は初めて、10Aを離れる可能性を、自分の言葉で誰かに差し出した。

自分の場所を、自分で見直すために。

その一歩を、踏み出した。
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