昨日、僕を殺したのは誰ですか

第六章 犯人を忘れる町

第六章 犯人を忘れる町

「美月!」

 蓮は夜の住宅街を走っていた。息はとうに切れ、冷たい空気を吸い込むたびに肺の奥が痛んだが、それでも足を止めることだけはできなかった。

 さっきまでつながっていた美月との電話は切れたままで、何度かけ直しても呼び出し音が鳴り続けるだけだった。一回、二回、三回と数えるうちに嫌な想像ばかりが膨らみ、蓮はスマートフォンを握りしめながら速度を上げる。

「くそっ……!」

「神谷君!」

 背後から栞の声が聞こえ、その少し後ろには三上と悠真、さらに昨日0組で生まれたという、もう一人の神谷蓮が続いていた。

「先に行って!」

「言われなくても!」

 やがて自宅が見えた。玄関には灯りがついており、外から見る限り異変らしいものはない。それでも蓮の胸を締めつける不安は消えず、門を開けるとそのまま玄関へ駆け込んだ。

「美月!」

 鍵は開いていた。

 勢いよくドアを開け、リビングへ向かうとテレビの音だけがいつも通り流れており、ソファには母の香織が座っていた。

「……母さん?」

「蓮?」

 振り返った香織の額には、第五章の写真で見たものと同じ細い傷跡が残っていた。

「どうしたの、そんなに慌てて」

「美月は?」

「美月?」

 香織が不思議そうに首を傾げた瞬間、蓮の足が止まった。

「……何?」

「誰?」

「母さん」

「何?」

「美月だよ。母さんの娘で、俺の妹だろ」

 香織は困ったように眉を寄せ、しばらく蓮の顔を見つめていたが、やがて本気で心配するような表情になった。

「蓮、あなた一人っ子でしょう?」



 蓮は返事もせずに階段を駆け上がった。

「美月!」

 廊下の突き当たりには確かに妹の部屋がある。しかし、いつもドアに掛けられていた名前入りのプレートがなくなっていた。

 嫌な予感を抱えたまま扉を開ける。

「……何だよ、これ」

 机もベッドもクローゼットもある。ただし、それらはすべて美月のものではなかった。本棚には蓮の漫画が並び、机には古いパソコンが置かれ、壁には蓮の小学生時代の写真まで飾られている。

 まるで最初から、ここが蓮の部屋だったかのように。

「嘘だろ……」

 遅れて栞たちが入ってくると、蓮は部屋の中を指差した。

「ここは美月の部屋だった。この机もベッドもカーテンも、全部美月が使ってた」

 三上は室内を見回しながら、言いにくそうに口を開いた。

「神谷、俺には……最初からお前の部屋だったように見える」

「先生まで?」

「いや、違う。美月という名前は覚えてるんだ。でも、この部屋を見た瞬間、ここは神谷の部屋だって頭が勝手に判断した」

「俺も同じだ」

 悠真も戸惑った顔で言った。

「美月のことは覚えてる。でも、この家は昔から蓮と母さんの二人暮らしだったような気もする」

「ふざけんな!」

「俺だって混乱してんだよ!」

「待って」

 二人の声を遮ったのは栞だった。

 彼女は部屋の中央まで進むと、床を指差した。

「ここ、何か痕が残ってる」

 床板には薄い四角形の線があり、長い間そこに机か何かが置かれていたように見えた。蓮がしゃがみ込んで確認すると、床の端に鉛筆で書かれた小さな文字が残っている。

みづき

「残ってる……」

 蓮は指先でその文字をなぞった。

「美月はいた」

 三上もしゃがみ込み、床に残された痕跡を確認する。

「存在の記録は書き換えられていても、物理的な痕跡までは完全に消えていない。なら、まだ間に合うかもしれない」

 その瞬間だった。

 クローゼットの奥から、コン、と小さな音がした。

 全員が振り返る。

 もう一度。

 コン、コン。

「……美月?」

 蓮が取っ手へ手を伸ばすと、栞が小さく息を呑んだ。

「神谷君、誰かいる」

 蓮は迷わず扉を開いた。

 暗いクローゼットの奥、服と段ボールの隙間で、一人の少女が膝を抱えて震えていた。

「美月!」



「お兄ちゃん……」

 蓮が近づこうとすると、美月は怯えたように顔を上げた。

「来ないで」

「え?」

「どっち?」

 美月の視線が蓮を通り越し、その後ろに立つもう一人の神谷蓮へ向けられる。

「どっちがお兄ちゃんなの?」

 蓮は言葉を失った。

「俺だ。こっち」

「証拠は?」

「……証拠?」

「私の誕生日」

「五月二十二日」

「好きなアイス」

「チョコミント」

「嫌いな食べ物」

「ピーマン」

「小学校の時に私が転んで泣いた公園は?」

「中央公園」

「滑り台の色」

「赤」

 美月は今度、もう一人の蓮を見た。

「そっちは?」

 少年は静かに答えた。

「全部同じ」

 そして本当に、蓮とまったく同じ答えを一つずつ口にしていった。

 美月の顔から血の気が引いていく。

「やっぱり……二人とも、お兄ちゃんの記憶がある」

 蓮は少年を睨んだ。

「お前、俺の家族の記憶まで持ってるのか」

「うん」

「いつから」

「最初から。昨日、作られた時から」

「じゃあ、美月をどう思ってる」

 少年は少しだけ考えたあと、迷いのない声で答えた。

「妹だと思ってる。僕にとっても大事な妹だよ」

 蓮は拳を握った。

 偽物だと言いたかった。自分の記憶を持っているだけの存在だと否定したかったのに、その少年の表情には嘘らしいものが何一つなく、それが余計に蓮を苦しませた。



「美月、さっき誰が玄関にいたの?」

 栞が尋ねると、美月はクローゼットから出ながら答えた。

「お兄ちゃん」

「どっちの?」

「分からない。顔は今のお兄ちゃんだったけど……額に傷があった」

 全員の表情が変わった。

「母さんと同じ場所?」

「うん。同じ場所に傷があった」

 三上が考え込む。

「印なのか、それとも別の記憶に属している人間に共通する特徴なのか……」

「そのお兄ちゃんは何て言った?」

「開けてって。それから、帰ろうって言った」

「どこに?」

「分からない。でも私が返事しなかったら……」

 美月は一度言葉を止めた。

「**『三十四番は返事をしない』**って」

 蓮の背中を冷たいものが走った。

 三十四番。

 十七年前の雨宮栞。そして今回、0組が不足要素候補として選んだ神谷美月。

「0組は、美月を雨宮の代わりにするつもりなのか」

「記憶保持補助者……神谷蓮という存在を覚えておく役割」

 三上の言葉に、悠真が美月を見る。

「妹なら、一番強く蓮を覚えている可能性がある」

「違う」

 突然、もう一人の蓮が言った。

「美月は補助者じゃない」

「じゃあ何なんだ」

「鍵」

「何の?」

「分からない。でも、記憶があるんだ」

 少年は頭を押さえながら目を閉じた。

「昨日、桐島が美月を見て、**『この子だけは対象にするな』って言ってた。それから別の誰かが桐島に、『この子がいないと全員戻れない』**って」

「誰だ」

「顔は思い出せない。でも女の人だった。若くて、高校生くらいで……雨宮さんに似てたけど、雨宮さんじゃない」

「十七年前の雨宮栞?」

「たぶん」



 その夜、香織は何度も美月の存在を忘れた。

 蓮たちは紙に**『神谷美月はあなたの娘です』**と書き、冷蔵庫や壁、スマートフォンの待ち受けにまで残した。それでも数分後には香織が「このメモ、誰が書いたの?」と尋ね、家族写真からは少しずつ美月の姿が消えていった。

「すごいね」

 美月は自分が消えた写真を見ながら、小さく笑った。

「本当に私、いなくなってる」

「見るな」

 蓮は写真を伏せた。

「お兄ちゃん。私が全部消えたら――」

「消えない」

「もし――」

「言うな」

 思った以上に強い声が出て、美月が黙り込む。

「……ごめん」

「ううん」

「絶対に戻すから」

「うん」

 午前三時を過ぎても、誰一人眠ろうとはしなかった。

 そんな中、蓮は四十六歳の神谷蓮について調べ続け、やがて奇妙な記事を見つけた。

 九年前。

『市内で男性会社員が失踪 神谷蓮(37)』

 数日後には学校付近で発見されている。

 さらに十二年前には三十四歳、十四年前には三十二歳の神谷蓮が失踪していた。

 名前と年齢は一人の人生としてつながっているのに、掲載された写真の顔はすべて違っていた。

「記録だけが、一人の人生としてつながってる」

 蓮の言葉に、三上が頷く。

「中身が入れ替わっているんだ」

「それって……今の神谷君と同じじゃない?」

 栞の一言で、全員が黙った。

 しかも失踪が起きるのは、すべて九月一日から三日の間だった。

「新学期……」

 蓮は呟いた。

「学校が名簿を更新する時期だ」

「0組が動く条件が、名簿の確定だと?」

「神谷蓮という名前そのものが、この学校の0組にずっと在籍してるんじゃないか」

 十七年前に消えた神谷蓮も高校二年生。

 現在の蓮も高校二年生。

 0組も二年生相当の名簿だった。

「毎回、神谷蓮は高校二年生として作り直される……」

 そう口にした瞬間、蓮は幼稚園の写真を思い出した。

 自分の位置に書かれていた名前。

高城悠真。

 そして現在、高城悠真として生きている少年。

 自分たちの名前が入れ替わったのは、おそらく小学生の途中だった。



 午前四時十二分。

 玄関から、コン、コン、と音がした。

 蓮たちは息を潜めて玄関へ向かう。

「誰だ」

 返事はなかった。

「桐島?」

 沈黙。

「父さん?」

『違う』

 低い男の声が返ってきた。

「誰だ」

『昨日、屋上にいた』

「どの神谷蓮だ」

『神谷蓮じゃない。倒れていた方だ』

 栞の顔色が変わった。

「昨日の屋上にいた、写真から消えた男……」

『消えた。だから来られた』

 三上が玄関越しに尋ねる。

「名前は?」

『ない。元の名前も覚えていない』

「お前は何者なんだ」

 長い沈黙のあと、男は答えた。

『俺は犯人だった』

「何の」

『十七年前、一人の人間が消えた。俺が消したことになっている』

 三上の表情が強張った。

「雨宮栞か」

『そうだ』

「どうやって」

『覚えていない』

「なのに、なぜ犯人だと分かる」

『この町では、犯人から先に忘れられるからだ』



 男の話は奇妙だった。

 事件が起こり、人が消えると、0組は三十三人へ別の記憶を与える。

 犯人はいなかった。

 事故だった。

 最初からその人間は存在しなかった。

 同じ嘘を三十三人が覚え、それが家族から地域へ、地域から行政記録へと広がり、七日間で事件そのものが社会から消えていく。

「じゃあ十七年前、雨宮栞が消えた時も?」

『同じだ』

「本当の犯人は誰だった」

『分からない。俺自身、本当に犯人だったのか、それとも犯人役にされたのか、もう判断できない』

「三上智也を知ってるか?」

 男はしばらく黙ってから答えた。

『知ってる。友達だった』

 三上の表情が崩れた。

「俺の……友達?」

『たぶん』

「名前は?」

『思い出せない』

 三上は必死に記憶を探り始めた。

「俺は……昔、お前を何て呼んでた」

『やめろ』

「佐……」

『言うな!』

 その瞬間、家中の照明が一斉に消えた。



 窓の外には数十人の人間が立っていた。

 近所の住民、コンビニ店員、散歩で見かける男性、そして学校の生徒たちまでが、暗い道路から蓮の家を見つめている。

「何これ……」

「始まった」

 玄関の向こうで男が言った。

『記憶補正だ。町が俺を犯人として固定しようとしている』

 香織までも玄関へ向かい、「この人が悪い人だって分かる」と言い始めた。理由を尋ねても本人には説明できず、悠真や栞、三上、そして蓮自身の心にも、目の前の男こそがすべての元凶なのではないかという感覚が広がっていく。

『それを信じるな』

 男が強く言った。

『十七年前、俺もそうやって犯人にされた可能性がある。だから次に会った時、俺が犯人だと思えても、その感覚だけは信じるな』

「じゃあ本当に事件を起こしているのは誰なんだ」

『町は本当の犯人を忘れる代わりに、別の誰かを犯人役にする。実際に何かをした人間と、犯人役は別だ』

「昨日は?」

『神谷蓮』

「俺?」

『三人ともだ。だから誰が何をしたのか分からなくなった』

 蓮は昨日の屋上を思い出そうとした。

 三人の神谷蓮。

 雨宮栞。

 高城悠真。

 倒れていた男。

 そして、もう一人。

 聞き慣れた優しい声。

『蓮、大丈夫。全部忘れれば、また家族に戻れるから』

「……母さん?」



 香織は最初、何も覚えていなかった。

 しかし額の傷跡が濃く浮かび上がった瞬間、美月を見て名前を呼んだ。

「……美月?」

「お母さん!」

 忘れていた娘を抱きしめながら、香織は少しずつ昨日の記憶を取り戻していった。

「私、学校へ行った」

「昨日?」

「うん。あなたのお父さんに呼ばれて、屋上へ」

「誰がいた?」

「蓮が三人、雨宮さん、高城君が二人、それからあなたのお父さん。あと……倒れていた人」

「何が起きた?」

「言い争ってた。名前のことで。『蓮は俺の名前だ』『違う、お前は高城悠真だ』って……」

 さらに香織は、桐島から小さな操作端末を渡されていたことまで思い出した。

『蓮が本当のことを思い出したら、このボタンを押してください』

「押したの?」

「……うん」

 香織は涙を浮かべながら頷いた。

「光が見えて、校内放送が流れて、それからみんなが何かを忘れた」

 玄関の男が静かに言った。

『そのボタンは誰か一人を消すものじゃない。“犯人”を忘れるためのものだ』

「じゃあ母さんが押した瞬間、システムが犯人役を選んだ?」

『そうだ。そして昨日選ばれたのが神谷蓮だった』



 男はさらに、この町そのものが長年にわたって0組の記憶修正を受け続けた結果、何百人もの人間が少しずつ同じ嘘を共有し、町全体が一つの巨大な記憶装置のようになっているのだと説明した。

「じゃあ犯人は町そのもの?」

『違う。実際に事件を起こすのは人間だ。ただ町は、その人間を守るために毎回“犯人役”を作る』

「本当の犯人は?」

『まだ誰にも忘れられていない。普通に暮らしている』

「誰なんだ」

『分からない。ただ一つだけ分かる。昨日、屋上を出た本当の犯人は防犯カメラに映っていない』

「システムに登録されていない?」

『そうだ』

「三十四人目?」

 美月の顔が強張る。

『今は君が候補だ。でも十七年前にも、その前にも三十四人目はいた』

「三十四人目は何をする人なの?」

『犯人を覚えておく人間だ』

 十七年前の雨宮栞は、神谷蓮を覚えておく役であると同時に、本当の犯人を記憶しておく役でもあった。そして彼女が集合写真を撮影した理由も、犯人を写真の中に残すためだった。

『十七年前の雨宮栞は言っていた。写真を上下逆さまに見ろ』



 男が去ったあと、蓮たちは十七年前の集合写真をスマートフォンで百八十度回転させた。

 最初は何も変わらないように見えたが、栞が校舎の窓に映る反射へ気づいた。

「これ、文字じゃない?」

 拡大すると数字が現れた。

2-0-33-34

 さらに別の反射には文章が隠されていた。

『犯人は列の中にいない』

「列の中にいないなら、背景だ」

 写真の端に写った水たまりを拡大すると、撮影列の前、つまりカメラの近くに一人の人物が反射していた。

 女子生徒。

 額には一本の傷。

「……お母さん?」

 美月が呟いた。

 香織は自分の額へ触れた。

「私……?」

 三上が写真を凝視する。

「十七年前、俺と同じ学校にいたのか?」

「分からない……」

 香織は首を振ろうとしたが、その動きが途中で止まった。

「三上……君」

 三上の顔から血の気が引いた。

「香織?」

 二人の記憶が同時に戻り始める。

 二年三組。

 雨宮栞。

 神谷蓮。

 0組。

 そして十七年前、雨宮栞が消えた日。

「私も屋上にいた」

「何を見た?」

「雨宮さんが写真を撮って、そのあと……誰かに突き飛ばされた」

 それは遠くから見た断片的な記憶で、香織自身にも細部までは残っていなかった。それでも、そこにいた人物の顔だけは思い出せるようだった。

「誰だった」

「見た。私、その人の顔を見た」

「覚えてる?」

「うん」

 香織が口を開こうとした瞬間、玄関のチャイムが鳴った。



 午前四時四十七分。

 モニターに映っていたのは桐島校長だった。

『神谷君』

「何しに来た」

『香織さんが、思い出してはいけないことを思い出してしまったようなので』

「母さんは十七年前の犯人を知ってる」

『そうでしょうね』

「誰なんだ」

『本人から聞けばいい。ただし、香織さんが思い出した人物は十七年前には存在していません』

「嘘!」

 香織が叫ぶ。

『嘘ではありません。あなたは0組に見せられたのです』

「じゃあ母さんの記憶も偽物なのか」

『一部はそうでしょう。しかし、どこまでが本物でどこからが作られた記憶なのかを判別する方法は一つだけあります』

「何だよ」

『犯行が起きる前の写真を見ることです』

 それは集合写真ではなく、雨宮栞が消える直前に撮影した最後の写真だった。

 そして、そのカメラは十七年前、雨宮栞から神谷香織へ渡されている。

「母さん、どこにある」

「分からない……いや」

 香織の目が見開かれた。

「旧校舎」

「旧校舎は取り壊された」

 三上が言うと、香織は首を振った。

「違う。地下に残ってる」

「B2?」

「もっと下」

「B3?」

「違う」

 香織は記憶を探るように目を閉じた。

「旧校舎0階」

 モニターの向こうで、初めて桐島の表情が変わった。

『香織さん。それ以上思い出してはいけません』

「雨宮さんがカメラを私に渡して言ったの」

「何て?」

 香織は十七年前の声を、そのまま読み上げるように口にした。

『もし私が消えたら、この町の誰も信じないで』

 そして続ける。

『犯人は、みんなが一番犯人じゃないと思ってる人だから』

「桐島か?」

 蓮がモニターを睨む。

『違います』

「神谷蓮?」

 香織は首を横に振った。

「雨宮さんは、もう一つ言った」

「何て?」

 香織は恐怖を浮かべながら蓮を見た。

『神谷蓮だけは疑わないで』



 その言葉によって、逆に一人の名前が浮かび上がった。

 美月が小さな声で言う。

「私たち……一回も高城君を疑ってないよね」

 全員の視線が悠真へ集まった。

「……え?」

 悠真は戸惑ったように笑った。

「いや、待てよ」

 だが蓮は何も言えなかった。

 悠真は最初から隣にいた。写真を見た時も、雨宮栞が消えた時も、0組を見つけた時も。

 しかも蓮の端末には残っていたメッセージが、悠真の端末には存在しなかった。

 神谷蓮と高城悠真。

 二つの名前は何度も入れ替わっている。

「悠真」

「何だよ」

「昨日、屋上にいた?」

「……いたと思う」

「二人のお前が?」

 悠真は答えられなかった。

「俺……分かんない」

 その瞬間、悠真のスマートフォンが震えた。

 差出人不明。

 一枚の画像。

 昨日の屋上。

 三人の神谷蓮。

 雨宮栞。

 香織。

 倒れていた名前のない男。

 そして中央には、高城悠真が立っていた。

 その手には――B2・0の鍵。

 写真の裏には文字がある。

『犯人を忘れましたか?』

『それなら、もう一度思い出してください。』

『昨日、最初に0組へ入ったのは高城悠真です。』

 蓮が悠真を見る。

「違うよな」

「……」

「悠真、何か言えよ」

 悠真は震える手を自分のポケットへ入れ、ゆっくりと何かを取り出した。

 古い鍵だった。

 金属製のタグには、

B2・0

 と刻まれている。

「俺……これ、いつから持ってたんだろ」

「悠真」

「知らない。本当に覚えてない」

 玄関モニターから桐島の声が聞こえた。

『それが、この町の仕組みです。犯人だった者ほど、自分が犯人だったことを最初に忘れる』

 それでも蓮は、すぐに悠真を犯人だとは決めなかった。

 むしろ、あまりにも証拠が揃いすぎていることの方が恐ろしかった。

 もし**「高城悠真が犯人だ」**という記憶そのものが0組によって作られているのなら、ここで悠真を犯人だと決めつけた瞬間、自分たちは十七年前とまったく同じ間違いを繰り返すことになる。

「悠真」

「……何」

「一緒に行こう」

「どこへ」

「旧校舎0階」

 悠真は鍵を見つめた。

「俺を疑わないの?」

「疑う」

「……」

「でも、疑ったまま一緒に確かめる」

 悠真は少しだけ笑った。



 午前五時十二分。

 蓮、栞、悠真、三上、そしてもう一人の神谷蓮は学校へ向かった。

 旧体育館からB1、B2へ降り、0組を抜けてSUBJECT 00の白い部屋へ入ったが、そこに原型の少年はいなかった。

 代わりに机の上へ一枚の紙が残されている。

『旧校舎0階へ行きました。』

 その下には、さらに文章が続いていた。

『犯人を見つけないでください。』

『犯人が分かった瞬間、また誰かが消えます。』

 そして最後の一文。

『犯人ではなく、事件が起きなかった記憶を探してください。』

「事件が起きなかった記憶……」

 三上が紙を見つめる。

「記憶が分裂しているなら、事件が起きた過去と起きなかった過去、その両方が存在している可能性がある」

「それを写真で確かめる」

 蓮が言った。

 白い部屋の奥には、それまで壁だと思っていた場所に鍵穴があった。

 悠真がB2・0の鍵を差し込む。

「俺が開ける?」

「頼む」

「もし俺が本当に犯人だったら?」

 蓮は少し考えてから答えた。

「その時は、ちゃんと聞く」

「何を」

「なんでやったか」

「殴らないの?」

「それは話を聞いてから考える」

「怖っ」

 ほんの一瞬だけ、二人の間にいつもの空気が戻った。

 鍵が回り、壁の一部がゆっくり開く。

 その向こうには、さらに地下へ続く古い木造階段があった。



 地下なのに、そこには古い校舎特有の木と埃の匂いが残っていた。

 壁には昭和から平成まで、異なる年代の掲示物が混在している。まるで学校そのものが、複数の時代を一か所へ保存しているようだった。

 階段の先にプレートがある。

旧校舎0階

 廊下を進むと、古い教室の中央に大きな展示ケースがあり、その中には一台のデジタルカメラが置かれていた。

「これ……」

 三上が息を呑む。

「十七年前、雨宮栞が香織さんへ渡したカメラだ」

 ケースには鍵がかかっていなかった。

 蓮がカメラを取り出して電源を入れると、十七年前のものとは思えないほど自然に画面が点灯した。

 一枚目。

 集合写真。

 二枚目。

 屋上。

 三枚目。

 0組。

 四枚目。

 桐島。

 五枚目。

 神谷蓮。

 そして六枚目。

「これ……」

 全員が画面を覗き込んだ。

 十七年前、雨宮栞が消える数分前の屋上だった。

 三上。

 香織。

 雨宮栞。

 神谷蓮。

 桐島。

 名前を失った男子。

 そして、もう一人。

「……俺?」

 悠真が呟く。

 そこには現在の高城悠真によく似た少年が写っており、胸の名札を拡大すると、はっきりと文字が読めた。

高城悠真

「十七年前にも高城悠真がいた……」

「神谷蓮だけじゃない」

 栞が呟く。

「高城悠真という名前も繰り返されてる」

 さらに少年の隣には、額に傷を持つ女子生徒がいる。

 名札には、

神谷香織

 と書かれていた。

「母さんも……」

 蓮はようやく理解し始めていた。

 神谷蓮。

 高城悠真。

 神谷香織。

 雨宮栞。

 それらは単なる個人名ではなく、十七年前と現在で繰り返し使用されている何らかの役割なのかもしれない。

「俺たち、同じ事件を違う人間で繰り返してる?」

 栞が言う。

 三上は写真を見つめたまま答えた。

「ただ、俺だけは本当に十七年前からここにいる」

「だから先生だけは役じゃなくて、ずっと事件を見てきた観測者……?」

 その時、カメラの画面が勝手に動いた。

 六枚目の写真が拡大され、十七年前の雨宮栞が手にしている紙が映し出される。

 そこには、こう書かれていた。

『犯人は名前ではありません。』

『役割です。』

『毎回、誰か一人が犯人にされます。』

 悠真は自分の手の中にあるB2・0の鍵を見つめた。

「やっぱり……俺が犯人とは限らない」

 さらに続きがある。

『でも、本当に事件を起こしている人は毎回同じです。』

 教室から音が消えたように感じられた。

「同じ人間……?」

 蓮が最後の一文を読む。

『その人は、写真を撮っています。』



 蓮はこれまで送られてきた写真を思い出した。

 屋上で倒れている自分。

 消える前の栞。

 名前を失った男。

 0組。

 どの写真にも共通していることがある。

 誰かが撮影している。

「写真を送ってきてる人……」

 栞が呟く。

「十七年前から同じ人間が撮っているとしたら?」

 三上の言葉に、蓮は古いカメラを見つめた。

「犯人は最初から俺たちの中じゃない。ずっと外側から見てる」

 その瞬間だった。

 誰も触れていないカメラから、乾いたシャッター音が響いた。

 カシャ。

「今……」

 画面に七枚目の写真が追加される。

 撮影時刻は現在。

 場所は旧校舎0階。

 そこには蓮、栞、悠真、三上、もう一人の神谷蓮の五人が、全員写っていた。

 五人全員が写っている以上、この写真を撮ったのは五人のうちの誰でもない。

「奥……」

 栞が画面を指差した。

 教室の扉の向こうに、一人の男子生徒が立っている。

 制服姿。

 年齢は蓮たちと同じくらい。

 顔にはどこか見覚えがあるが、原型の少年とは少し違っている。

 胸の名札には、

神谷蓮

 と書かれていた。

 しかも少年の手には、今ここにあるものと同じ型のカメラが握られている。

 写真の下へ、文字が浮かび上がった。

『ようやく、ここまで来た。』

『次は、僕の番だ。』

『神谷蓮を一人に戻す。』

 誰も言葉を発することができなかった。

 やがて廊下の奥から、ゆっくりと足音が聞こえてくる。

 コツ、コツ、と一定の間隔で近づいてきたその足音は教室の前で止まり、写真の中にいた少年が本当に姿を現した。

「誰だ」

 蓮が問いかける。

 少年は、どこか懐かしそうに蓮を見た。

「忘れた?」

「知らない」

「そっか」

 少年は一歩だけ教室へ入ると、胸につけられた神谷蓮という名札へ触れた。

「じゃあ今回も、僕が犯人ってことにされるんだね」

「お前……何者なんだ」

 少年の笑みが消えた。

 そして蓮から一度も目を逸らさないまま、静かに告げる。

「昨日、屋上で君に殺された神谷蓮だよ」

 廊下に沈黙が落ちた。

 しかし少年は、そこで言葉を終わらせなかった。

「正確には――」

 その目には怒りよりも、長い間誰にも思い出してもらえなかった人間だけが持つ、深い寂しさが宿っていた。

「君たち全員に、忘れられた神谷蓮だ」

 蓮の手の中で、最初の写真が震えた。

 写真の裏側へ、新しい文字がゆっくりと浮かび上がっていく。

『犯人を忘れた町で、被害者だけが犯人を覚えている。』

 さらに、その下へ最後の一行が追加された。

『次は、誰を神谷蓮にしますか?』

 蓮は目の前の少年を見つめながら、ようやく気づき始めていた。

 自分たちはずっと「誰が犯人なのか」を探してきたが、この事件で本当に問われているのは犯人の名前ではないのかもしれない。神谷蓮も、高城悠真も、雨宮栞も、そして犯人という言葉さえ、誰か一人の人間を示すものではなく、何度も別の人間へ渡されてきた役割なのだとしたら、これまで信じてきた記憶も証拠も、すべて最初から問い直さなければならない。

 そして何より恐ろしいのは、目の前にいる少年が本当に昨日の被害者なのだとすれば、昨日の屋上で「神谷蓮を殺した犯人」は、まだ誰一人として思い出していないということだった。

――第七章「二人の神谷蓮」へ続く。
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