昨日、僕を殺したのは誰ですか

第七章 二人の神谷蓮

第七章 二人の神谷蓮

「昨日、屋上で君に殺された神谷蓮だよ」

 少年がそう告げた瞬間、蓮は言葉を失った。

 旧校舎0階と呼ばれる、学校の地下深くに存在するはずのない校舎。その一室に置かれた古いデジタルカメラの画面には、つい先ほど撮影されたばかりの写真が表示されており、そこには蓮たち五人と、その背後に立つ一人の少年が写っていた。

 そして、その少年は今、写真の中ではなく蓮たちの目の前に立っている。

 胸につけられた名札には、はっきりと**「神谷蓮」**と書かれていた。

「正確には、君たち全員に忘れられた神谷蓮だ」

 少年はそう言ってわずかに笑ったが、その表情には再会を喜ぶような温かさなどなく、むしろ自分が忘れられていることを最初から知っていた者の諦めに近いものが浮かんでいた。



「嘘だろ」

 最初に反応したのは悠真だった。

「お前が神谷蓮なら、こいつは何なんだよ。それに、こっちにもいるだろ」

 悠真が指した先には現在の蓮がいて、その隣には昨日0組で生まれたという、もう一人の神谷蓮が立っている。目の前の少年まで含めれば、同じ名前を持つ人間が三人存在していることになる。

 しかし少年は三人を順番に見たあと、静かに首を振った。

「三人じゃない。神谷蓮は二人しかいない」

「意味分かんないんだけど」

 栞が眉を寄せる。

「ここにはどう見ても三人いるでしょ」

「顔の数を言ってるんじゃないし、名前の数でもない。僕が言ってるのは――役割の数だよ」

 その言葉に、三上が小さく反応した。

「役割……」

「さすがですね。十七年前から残っているだけある」

 三上の表情が変わる。

「お前、俺を知ってるのか」

「知ってるよ。十七年前も三上先生は、そこにいたから」

「先生じゃない。当時の俺は生徒だった」

「ああ、そうだったね」

「だったら、お前も十七年前にいたのか?」

「違うよ」

 少年はあっさり否定した。

「僕が生まれたのは昨日だから」



「昨日生まれた人間が、どうして十七年前のことを知ってるんだよ」

 蓮が問い詰めると、少年は少しだけ考えるように目を伏せた。

「記憶があるんだ」

「誰の?」

「神谷蓮の」

 また、その名前だった。

 蓮はとうとう我慢できなくなった。

「だから神谷蓮って誰なんだよ。俺なのか、お前なのか、昨日生まれたこいつなのか、それとも原型の少年なのか。四十六歳の男なのか、十七年前の生徒なのか。いったいどれが本物なんだよ!」

 少年は蓮の怒鳴り声を黙って受け止め、それから静かに答えた。

「全部だよ。そして、全部違う」



 少年は教室の黒板へ歩み寄ると、落ちていたチョークを拾い、中央に一本の縦線を引いた。

 左側に**「神谷蓮」、右側にも同じく「神谷蓮」**と書く。

「同じじゃん」

 悠真が言うと、少年は振り返らずに答えた。

「そう。同じだから、みんなずっと間違えてきた」

 続けて左側の神谷蓮の下に**「記録される神谷蓮」、右側には「記憶される神谷蓮」**と書き加える。

「記録と記憶……?」

 栞が呟いた。

「この町には二人の神谷蓮がいる。一人は戸籍や学校の名簿、防犯カメラ、家族構成、住所、写真、過去の出来事といった記録の中に存在している神谷蓮。そしてもう一人は、人間の記憶の中に存在している神谷蓮だ」

「本来は同じ人間なんじゃないのか」

「もちろん。でも十七年前、二つは分かれてしまった」

 三上が息を呑んだ。

「雨宮栞が消えた日か」

「そう」

「その日に何があった?」

「事故が起きた」

「どんな事故だ」

 少年は初めて答えに詰まった。

「それを僕も思い出したいんだ」

「知らないのかよ」

「最後の記憶だけがないんだ。でも、一つだけ確かなことがある」

 少年は蓮を見た。

「昨日、記録上の神谷蓮は死んだ」



 蓮の脳裏に、最初の写真に書かれていた言葉が浮かんだ。

『君は昨日、ここで死んだ。』

 0組の黒板にも、死亡日九月一日、死亡確認済みと表示されていた。

「じゃあ俺は、記憶側の神谷蓮なのか?」

「たぶん」

「たぶんって何だよ」

「まだ確定していないからだよ。だから0組は君を確認し続けている」

「出席確認……」

「そう。名前を呼び、返事をさせることで存在を固定する」

 蓮は0組で何度も繰り返された呼びかけを思い出した。

「もし俺が『はい』って答えたら?」

「記録と記憶が再統合される」

「そうしたらどうなるの?」

 栞が尋ねる。

「一人になる」

「誰が?」

「神谷蓮が」

「だから、誰になるんだよ」

 悠真が苛立ったように言うと、少年は黒板に書いた二つの名前を見つめた。

「それは0組が決める。現在存在している候補の中から一人だけが神谷蓮として残り、それ以外は最初から存在しなかったことになる」



 昨日生まれた蓮が、そこで初めて口を開いた。

「だから怖かったんだ」

「何が?」

「0組で神谷蓮って呼ばれた時、返事をしたら僕が君になってしまうような気がした」

「その感覚は正しいよ」

 少年は静かに肯定した。

 栞は三人を見比べる。

「じゃあ、この三人は全員が神谷蓮の候補なの?」

「正確には二種類だ。肉体が何人存在しても、役割は記録と記憶の二つしかない」

 三上が尋ねた。

「どれがどっちだ」

 少年は現在の蓮を指した。

「彼は記憶側」

 続いて昨日生まれた蓮を見る。

「彼も記憶側。分岐した記憶から作られている」

「じゃあ、お前は?」

「僕は記録側」



「昨日死んだのは、お前なのか?」

「そういうことになる」

「でも生きてるだろ」

「君もね」

 少年の言葉に、蓮は返せなくなった。

 その時、机に置かれていた古いデジタルカメラが電子音を鳴らし、誰も触れていないのに画面が切り替わった。

 表示されたのは昨日の屋上で撮影された写真だった。これまで顔の輪郭が曖昧だった倒れている人物が、徐々に鮮明になっていく。

 栞が息を呑んだ。

「顔が……」

 蓮も画面を覗き込み、そして理解した。

 倒れていたのは、今目の前にいる少年だった。

「本当に、お前だったのか」

「そう。僕が昨日、消された神谷蓮だ」

「誰がやった?」

「君」

 蓮の表情が強張ったが、少年はすぐに続けた。

「ただし、それは犯人役としての話だ。本当に君がやったのかは分からない」

「お前自身も見てないのか?」

「僕には最後の記憶がない。覚えているのは、屋上で君に名前を返せと言っていたところまでだ」



 その言葉を聞いた瞬間、蓮の頭の奥で何かが疼いた。

 夜の屋上、冷たい風、フェンスの前に立っている少年。そして、目の前の少年と同じ声。

『返して』

『何を?』

『名前』

『意味分かんない』

『君は神谷蓮じゃない』

『じゃあ俺は誰なんだよ』

『それを思い出して』

「……聞いた」

 蓮は頭を押さえながら言った。

「昨日、お前から聞いた。神谷蓮を返せって」

「そう」

「それで俺は、自分の本当の名前を聞いたはずだ。お前は何て答えた?」

「答えてない」

「なんでだよ」

「言えなかったんだ」

「知らなかったから?」

「違う」

 少年は蓮をまっすぐ見た。

「本当の名前を言えば、その時点で今の君が消える可能性があったからだ」



「じゃあ知ってるんだな」

 蓮は少年へ詰め寄った。

「俺の本当の名前を」

「知ってる」

「言え」

「今は言えない」

「またそれかよ!」

 蓮は少年の胸元を掴んだ。

「俺はずっと、自分が誰なのか分からないままなんだぞ!」

「分かってる!」

 少年も初めて声を荒らげた。

「僕だって同じなんだ!」

 その言葉に蓮の手が止まる。

「僕は昨日生まれた。それなのに、幼稚園も小学校も中学校も覚えているし、母親も妹も悠真も知っている。君が美月と喧嘩した日のことも、悠真と初めて話した日のことも、母親に怒られた日のことも知っている。でも、そのどこにも僕自身はいなかった」

 少年は胸へ手を当てた。

「記憶はある。でも、それは僕の思い出じゃない。誰かの人生を最初から最後まで映画として見せられ、その内容だけを頭へ入れられたみたいなんだ。だから僕だって、自分が誰なのか分からない」

 栞が静かに言った。

「だったら、少なくとも今は敵じゃない」

「今はね」

「今は?」

「0組が統合を始めれば、僕たちは一人になろうとする。それは殴り合ったりするようなことじゃない。もっと静かに、片方がもう片方だったことになって、周囲の記憶から一人分が消える」



 三上はしばらく考え込み、それから尋ねた。

「十七年前にも、二人の神谷蓮がいたのか」

「いた」

「一人は?」

「三上先生が友達だと思っていた生徒」

「もう一人は?」

「記録の中にだけ存在していた神谷蓮」

 三上の顔から血の気が引いていく。

「卒業アルバム……」

「先生は三十二人だったと覚えている。でも写真には三十三人写っていた。あの三十三人目こそが、記録側の神谷蓮だった」

「じゃあ、俺が覚えていた友達は……」

「記憶側。ただし、本当の名前は神谷蓮じゃなかった」

「本当の名前は?」

「分からない。名前だけが消されて、その空いた場所に神谷蓮という名前が入った」

 蓮は黒板を見つめた。

「名前を奪ったのは0組なのか?」

「最初は人間がやった」

「誰が?」

「神谷記憶研究所。そして、神谷廉一郎だ」



 少年は教室の奥にある古い掲示板を外した。その裏から現れたのは、錆びた金属製の扉だった。

 表面には、

『神谷記憶研究所 旧校内実験室』

 という文字が残っている。

「学校の地下に研究所があったのかよ」

 悠真が呆然とする。

「昔、この学校と研究所は同じ敷地にあった」

「そんな話、聞いたことがない」

 三上が言う。

「町ごと忘れたんだよ」

 少年が扉を開けると、その向こうには埃に覆われた資料室が広がっていた。棚には大量のファイルと写真が残され、中央のキャビネットには**『PROJECT 33』**と書かれたラベルが貼られている。

 三上がファイルを開いた。

『記憶同期実験 PROJECT 33』

 目的欄には、複数人の記憶へ同一人物の情報を共有させる、と記されていた。

「何のためにこんなことを?」

「本来は人を助ける研究だった。記憶障害や身元不明者、災害や事故によって失われた人間関係を、複数人の記憶から再構築するための技術だったらしい」

 しかし、その次のページを見た瞬間、全員の表情が変わった。

『共通識別名――神谷蓮』

「共通識別名?」

 蓮は文字を見つめた。

「人の名前じゃなかったのか?」

「そう」

 少年が答える。

「神谷蓮という名前は、最初から一人の人間につけられたものじゃない。PROJECT 33で同期させる人格情報につけられた識別名だった」

「神谷は研究所からだとして、蓮は?」

「記憶を連結する者。そういう意味でつけられたらしい」



 蓮はファイルをめくった。

 そこに書かれていた内容は、これまでの常識を完全に壊すものだった。

 PROJECT 33では、存在しない一人の高校生について、名前、住所、性格、家族、友人関係、学校生活などを細かく設定し、その情報を三十三人の被験者へ共有させた。

 架空の生徒。

 その名前が、神谷蓮。

「つまり、0組最初の生徒は存在しなかった?」

「そう」

「でも今は存在してる」

「研究が失敗したからだ」

「どう失敗したんだよ」

 少年は次のページを開いた。

実験第47日――対象者全員が存在しない生徒『神谷蓮』を認識。

実験第49日――学校記録に神谷蓮が出現。

実験第51日――防犯映像に神谷蓮が出現。

実験第52日――戸籍情報との接続を確認。

実験第53日――対象者家族の記憶に侵入。

 そして最後に、赤い文字で大きく記されていた。

『実験中止』

「存在しない人間を三十三人が覚えた結果、記録の方がその記憶に合わせて書き換わった。さらに記録が整ったことで、現実そのものまで神谷蓮が存在する形へ変わり始めた」

 三上は言葉を失った。

「だから、この地下も、窓も、過去も……」

「全部、記憶に合わせて現実が修正された結果だ」



 蓮は自分の手を見た。

「だったら俺も、みんなが神谷蓮を覚えたから作られたのか?」

「今の君は違う」

「何が違う」

「君には元になった人間がいる。別の名前で、別の人生を生きていた人間がいて、その人間の上から神谷蓮という人格が上書きされた」

「いつ」

「九年前」

 蓮はすぐに思い出した。

 九年前、当時三十七歳だった神谷蓮という男性が失踪し、学校付近で発見されている。

「父さんが消えた時……?」

「おそらく、その時に神谷蓮という役割が君へ移された」

「じゃあ父さんは前の神谷蓮?」

「そういうことになる。ただし、本当に君の父親だったかどうかまでは分からない。家族関係そのものが書き換えられているから」

 母も、美月も、父も、そして自分自身さえ、本当は何者なのか分からない。

 その事実が、蓮の足元を静かに崩していく。

「それでも一つだけ確かなことがある」

 少年が言った。

「君は神谷蓮になる前、別の名前を持っていた」



「その名前を知ってるなら言え」

「僕からは言えない。でも、自分で記録を見ることはできる」

 少年は資料室の奥に置かれていた古い端末を起動した。

 黒い画面に、

『PROJECT 33 ARCHIVE』

 という文字が浮かび上がる。

 パスワードを求められると、少年は栞を見た。

「十七年前の記憶保持補助者、雨宮栞の誕生日」

 現在の栞の誕生日を入力したが、認証されない。

 三上は目を閉じ、遠い記憶を探った。

「十二月……二十四日だった気がする」

 入力すると、

ACCESS GRANTED

 と表示された。

 栞の表情が変わる。

「私の誕生日も十二月二十四日」

 偶然とは思えなかった。

 雨宮栞という名前もまた、神谷蓮と同じように役割として繰り返されている。



 年代別に並んだフォルダの中から九年前を開くと、TRANSFER RECORDという記録が見つかった。

 旧神谷蓮、男性、三十七歳。

 新神谷蓮、八歳。

「俺だ……」

 蓮が呟く。

 新神谷蓮の旧氏名はデータ破損となっていたが、家族欄には妹一名、友人欄には一名の名前が残っていた。

 その名前を見た瞬間、蓮と悠真は同時に息を止めた。

高城悠真

「俺……?」

 悠真が画面を見る。

 三上はすぐに幼稚園写真の異常を思い出した。

「待て。あの写真では、今の神谷がいた場所に『高城悠真』と書かれていた。それなのに、この記録では新神谷蓮の友人も高城悠真になっている」

 蓮の背中に冷たいものが走った。

「俺自身が元々、高城悠真だった可能性がある?」

「高い」

「じゃあ俺は誰なんだよ」

 悠真が言った。

 誰も答えられなかった。



「それが名前の連鎖だ」

 少年が説明する。

「一人を神谷蓮へ変えるだけでは周囲の記憶が破綻する。だから元々その人がいた場所を別の人間で埋め、家族や友人関係まで成立するように再配置する」

 蓮は悠真を見る。

「つまり俺が神谷蓮になった時、俺がいた高城悠真の場所に別の誰かが入った……」

「可能性が高い」

 悠真はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。

「じゃあ俺、偽物なのか」

「違う」

 栞が即座に否定した。

「名前が違ったとしても、今まで神谷君と一緒にいたのは高城君でしょ。その時間まで偽物にしたら、0組がやってることと同じになる」

 蓮も頷いた。

「そうだ。俺だって元々神谷蓮じゃなかったかもしれない。でも、お前と過ごした記憶は本当にある」

「……」

「だから今は悠真でいい」

「今はって何だよ」

「あとで変な本名が出てきたら笑う」

「ぶっ飛ばすぞ」

「それならいつもの悠真だ」

「うるせえ」

 ほんの数秒だけ、いつもの二人の空気が戻った。



 三上が現在の記録を開いた。

 画面には、

TRANSFER IN PROGRESS

 と表示されている。

 旧神谷蓮は死亡。

 新神谷蓮候補は三名。

 記録候補として目の前の少年、記憶候補Aとして現在の蓮、記憶候補Bとして昨日生まれた蓮が登録されていた。

 さらに統合条件が並んでいる。

1. 記録側の死亡確認――完了

2. 記憶側の分岐――完了

3. 三十四番の選定――未完了

4. 犯人役の確定――未完了

5. 死亡記録の作成――

「死亡記録?」

 三上が画面を操作すると、予定日として九月四日が表示された。

 つまり今日だ。

 そして死亡対象者の欄に表示された名前を見た瞬間、悠真の表情が凍りついた。

高城悠真



「俺……?」

 死亡理由も場所も時刻も未確定なのに、なぜか最後の項目だけが、

死亡確認――済

 となっている。

「まだ何も起きてないのに」

 栞が呟いた。

「記録が先に作られてるんだ」

 蓮は昨日の自分を思い出した。

 神谷蓮の死亡記録が先に存在し、その後、現実が記録へ近づいていった。

「昨日と同じだ」

 少年も青ざめていた。

「記録を先に作って、その記録に合わせて現実を修正するつもりなんだ」

「じゃあ俺、今日死ぬのか?」

「死なせない」

 蓮は削除を試みたが、画面には権限がありませんと表示された。

「管理者権限……桐島か」

 その瞬間、誰も触れていない端末に管理者ログイン画面が現れ、IDとパスワードが自動入力された。

ADMIN_00

認証成功



 画面に文章が表示された。

死亡記録は削除できません。

「桐島か?」

いいえ。

「誰だ」

記録管理者です。

「名前は?」

 数秒後。

神谷蓮。

「また神谷蓮かよ……」

 悠真が吐き捨てる。

「どの神谷蓮だ」

 蓮が尋ねると、答えはすぐに返ってきた。

最初の神谷蓮です。

 栞が息を呑む。

「PROJECT 33で最初に作られた、架空の人格……?」

はい。

「生きてるの?」

その質問には回答できません。

「どこにいる」

0組。

「でも0組には誰も――」

あなた方が見ている0組は教室です。

本来の0組は場所ではありません。

「じゃあ何なんだ」

三十三人が共有する記憶領域。



「全部、お前がやってるのか?」

 蓮が尋ねると、少し長い沈黙のあと、

いいえ。

 と表示された。

「じゃあ誰なんだよ」

私は止めようとしています。

「何を?」

二人目の神谷蓮を。

 蓮たちは顔を見合わせた。

「二人目?」

 目の前の少年が黒板を見る。

「違う……僕たちのことじゃない」

「じゃあ何だよ」

 画面に新しい文字が表示された。

神谷蓮は二度作られました。

第一世代――PROJECT 33

第二世代――PROJECT 34

「PROJECT 34……」

 栞の顔が強張る。

「三十四人目と関係してる?」

はい。

 三上が尋ねる。

「第二世代はどうなった」

失敗しました。

「どう失敗した」

 画面にノイズが走る。

自分を神谷蓮だと認識しませんでした。

「じゃあ誰だと思っていた?」

 ゆっくりと名前が表示された。

高城悠真



「……は?」

 悠真が固まった。

「俺が二人目の神谷蓮なのか?」

いいえ。

「じゃあ誰だよ!」

現在の高城悠真ではありません。

「だったら最初の高城悠真……」

 蓮が自分を指す。

「俺か?」

 数秒後。

一部正解。

「一部って何だよ」

 続く文章が、二人の関係を根底から壊した。

九年前、第一世代神谷蓮を神谷蓮として固定するため、第二世代の記憶が分割されました。

一方は神谷蓮へ。

一方は高城悠真へ。

 蓮と悠真は互いを見る。

 そして最後に、

元は一人です。

 と表示された。



「嘘だろ……」

 悠真が呟いた。

「俺と蓮が、同じ人間だったってことか?」

九年前までは。

 蓮は幼稚園写真を思い出した。

 自分の位置に書かれていた名前。

 高城悠真。

「俺が元々、高城悠真だった」

はい。

「じゃあ今の悠真は?」

あなたから分離された記憶と、別の肉体によって構成されています。

 悠真の表情が崩れる。

「元の肉体は誰だった」

 画面にノイズが走る。

その情報は削除されています。

「じゃあ俺の記憶は、蓮のコピーなのか?」

いいえ。分割です。

「同じだろ!」

違います。

コピーでは原本が残ります。

 そして、一拍置いて。

分割では双方が不完全になります。



 蓮には思い当たることがあった。

 幼い頃の記憶には、ところどころ不自然な空白がある。それは悠真も同じだった。

「俺たち二人とも、昔のことを全部は思い出せない」

「……そうかもしれない」

 悠真が呟く。

「二人の記憶を合わせたら元に戻るの?」

 栞の質問に、

はい。

 と表示された。

 三上が画面を見る。

「なら統合すれば――」

推奨しません。

「なぜ」

一つの肉体しか残せません。

 悠真が乾いた笑いを漏らした。

「またそれかよ。結局、誰か一人を消さないと終われないのか」

 蓮も画面を睨む。

「そんな方法ばっかりだな、このシステム」

だから私は統合を止めています。

「だったら悠真の死亡記録を消せ!」

できません。

「管理者なんだろ!」

死亡記録を作成したのは私ではありません。

「誰だ」

第二世代。

「だから第二世代って誰なんだよ!」

 画面が激しく乱れ、文字が一度すべて消えた。

 数秒後、再び文章が現れる。

あなた方が一番信頼している人間です。



「またそれか」

 蓮は歯を食いしばった。

「一番疑っていない人間」

 悠真が自分を指す。

「俺じゃないのか?」

高城悠真は犯人役です。

 次の文章。

犯人ではありません。

 悠真が目を見開く。

「俺……犯人じゃないのか」

はい。

「じゃあ本当の犯人は誰なんだ」

名前を表示できません。

「なんで」

表示した瞬間、記録が書き換わるためです。

「じゃあどうやって確かめる」

死亡記録を確認してください。

「悠真の?」

いいえ。

十七年前の死亡記録です。



 端末が自動的にフォルダを開いた。

DEATH RECORD / 17 YEARS AGO

 一件だけ残されたファイル。

 名前――神谷蓮。

 年齢――十七歳。

 死亡日――九月三日。

 死亡場所――学校屋上。

「やっぱり神谷蓮……」

 三上が呟く。

 しかし蓮は違和感に気づいた。

「待って。写真がある」

 証明写真のデータを開く。

 読み込みが終わり、顔が表示された瞬間、全員が言葉を失った。

「……俺?」

 悠真だった。

 十七年前に死亡したと記録されている神谷蓮の顔が、現在の高城悠真と同じだった。

 さらに家族欄を確認すると、母親の項目には、

神谷香織

 と書かれていた。

「母さん……?」

 蓮が呟く。

「十七年前、香織は俺と同じ高校生だった」

 三上が言う。

「母親になれるはずがない」

「記録が現在の家族構成に合わせて、過去まで書き換えてる?」

 栞の言葉に少年が首を振った。

「待って。更新日時を見て」

 右下。

最終更新――九月四日 05:58

「今、書き換えられた……」



 突然、端末に警告が表示された。

死亡記録同期開始

対象――高城悠真

「やめろ!」

 蓮がキーボードを叩くが反応しない。

 十七年前の死亡記録に書かれていた神谷蓮という名前が消え、代わりに高城悠真と入力される。

 死亡日も九月三日から九月四日へ変わり、死亡時刻には、

23:47

 と表示された。

「今夜……」

 栞が青ざめる。

「あと十八時間もない」

「その前に絶対止める」

 しかし画面はさらに書き換わっていく。

 犯人欄。

 空白だった場所に文字が入力される。

神谷蓮

「やめろ……」

 続いて、

犯人役――神谷蓮

 と表示された。

 そして、その下に新しい項目が現れる。

実行者――

「実行者」

 栞が息を呑む。

「本当の犯人……?」

 カーソルが点滅する。

 誰も呼吸さえできなかった。

 だが最初の一文字が入力される直前、画面全体にノイズが走り、端末は完全に暗転した。



 直後、背後からシャッター音が響いた。

 机に置かれた古いデジタルカメラが、誰も触れていないのに新しい写真を撮影していた。

 八枚目。

 撮影場所は学校屋上。

 撮影時刻は、今夜の23時47分。

 中央には悠真が立っており、その前には現在の蓮が倒れている。

 さらに悠真の手には、B2・0の鍵が握られていた。

 写真の裏には、

『明日、神谷蓮は死にます。』

 そして、

『高城悠真が殺します。』

 と記されている。

「ふざけんな!」

 悠真が写真を投げた。

「俺は絶対やらない!」

「分かってる」

「でも写真は未来を写してるんだろ?」

「違う」

 少年が拾い上げた。

「これは未来の写真じゃない。0組が、これから現実にしようとしている記録なんだ」



「だったら写真と違うことをすればいい」

 蓮は即座に言った。

「屋上へ行かなければいい」

「簡単じゃない」

「なんで」

「記録が先に存在しているから、現実の方が記録へ近づこうとする。悠真が学校へ来なくても、別の場所が屋上として認識されるかもしれない。鍵を捨てても戻ってくるかもしれない。逃げ続けても、気づいた時には23時47分になっている可能性がある」

 蓮は写真を見つめた。

 写っているのは、自分と悠真だけ。

「だったら逆に、全員で屋上へ行く」

「は?」

 悠真が顔を上げる。

「逃げない。記録が俺たちを屋上へ集めるなら、こっちから行く。ただし写真と同じ状況になる前に、全員でそこで何が起きるかを見る」

 三上が理解した。

「観測者を増やすのか」

「そう。0組が一つの記憶に統一できないくらい、全員で本当の出来事を見る」

「私が覚える」

 栞が言った。

「三十四人目が記憶保持者なら、何が起きても私が本当のことを覚えてる」

「頼む」



 少年はまだ険しい顔をしていた。

「もう一つ問題がある」

「第二世代か」

「もし悠真の死亡記録を作っているのが第二世代なら、今夜必ず屋上へ来る」

「なぜ?」

「統合には二人の神谷蓮が揃う必要があるから」

「第一世代と第二世代のどっちが俺なんだ」

「それも今夜分かる」

「どうやって」

 少年は暗い廊下へ目を向けた。

「第一世代は、人間に覚えられることで存在する。でも第二世代は逆なんだ」

「逆?」

「人間を忘れさせることで存在する」

 栞が表情を強張らせた。

「第一世代は記憶を集めて人になる。でも第二世代は、人から記憶を奪って人になる……」

「そう」

 三上が呟く。

「だから人が消えるのか」

「おそらく、消えた人間の記憶が第二世代の材料になっている」

「第二世代が完成したら?」

「一人の完全な人間になる」

「誰として?」

 少年は答えをためらった。

「神谷蓮ではない、別の名前で」

「その名前は?」

「分からない。ただ――」

 少年は階段の上を見た。

「僕たちはもう、その人に会っているのかもしれない」



 突然、旧校舎0階に校内放送が流れた。

『――おはようございます。九月四日、木曜日。本日の出席確認を行います』

 時計はまだ午前六時三分。

 地上では登校時間にすらなっていないはずなのに、旧校舎では廊下の照明が次々と点灯し、誰もいない教室から無数の足音が聞こえ始めた。

『二年0組、三十三名及び三十四番。出席を取ります』

 黒板に、十七年前と現在の名前が混ざりながら次々と表示されていく。

 そして、

雨宮栞

 栞が反射的に返事をしそうになり、蓮が止める。

「答えるな」

 栞は頷いた。

 黒板には欠席と表示された。

 続いて、

高城悠真

 悠真も黙る。

 欠席。

 そして。

神谷蓮

 三人の神谷蓮が同時に息を止めた。



『神谷蓮。返事をしてください』

 誰も答えない。

『神谷蓮。返事をしてください』

 少年の体が震え始めた。

「答えたくなる……」

「我慢しろ」

 昨日生まれた蓮も頭を押さえる。

「頭の中で、ずっと『はい』って言えって……」

 現在の蓮も同じだった。

 喉が勝手に動きそうになる。

 その時、放送の声が変わった。

『神谷蓮』

 男の声。

 父親。

 続いて母。

『蓮、返事して』

 美月。

『お兄ちゃん』

 悠真。

『蓮』

 栞。

『神谷君』

 大切な人間の声が次々と蓮を呼び、神谷蓮という名前を固定しようとしてくる。

「俺は……」

 蓮は耳を塞いだ。

 自分が神谷蓮なのか、それとも別の誰かなのかさえ分からない。

 その時、悠真が蓮の肩を強く掴んだ。

「蓮!」

「……」

「名前なんかどうでもいい!」

「悠真……」

「今、俺が呼んでるお前は0組の神谷蓮じゃない。俺の友達だ!」



 放送が一瞬途切れた。

 蓮の頭の中で、九年前の記憶が弾ける。

 公園に二人の子供がいる。

 一人は自分。

 もう一人は悠真。

 しかし、その頃互いを呼んでいた名前だけが聞こえない。

 黒板に赤い文字が走った。

同期エラー

神谷蓮の自己認識に不一致

旧氏名を検出

 一文字ずつ名前が表示される。



 続いて、

高城

 そして、

高城悠――

 そこで文字が消えた。

「なんでだよ!」

 代わりに新しい文章が表示される。

旧氏名は二名に分割されています。

復元には両名の記憶統合が必要です。

統合しますか?

 YES。

 NO。

「NO」

 蓮は即答した。

「俺もだ」

 悠真も続ける。

 黒板には、

拒否を確認。

 そして次の文章。

それでは死亡記録を実行します。



「は?」

 時計が突然高速で進み始めた。

 午前六時五分から六時十分、七時、正午、十八時、二十二時半、二十三時と、まるで一日そのものが削除されていくように数字が飛び続け、蓮たちが止める間もなく二十三時四十六分へ到達した。

 そして。

23:47

 その数字が表示された瞬間、旧校舎の景色が消えた。

 次に蓮が感じたのは、頬を撫でる冷たい夜風だった。

 目を開ける。

 学校の屋上。

 スマートフォンの日付は九月四日。

 時刻は本当に二十三時四十七分になっていた。

「十八時間……本当に消えたのか」

 三上が呟く。

 蓮たちは、予告写真と同じ時刻に立っていた。



 だが写真とは違う。

 蓮、悠真、栞、三上、記録側の少年、そして昨日生まれた蓮。

 六人全員がいる。

「写真と違う」

 蓮が言った。

「変えられたんだ」

 悠真も頷く。

 しかし、その直後だった。

 屋上の照明が一度消え、再び点灯する。

 栞がいない。

「雨宮?」

 蓮が叫ぶ。

 三上が不思議そうに振り返った。

「誰だ?」

「先生、何言ってんだよ! 雨宮だよ!」

「誰の話をしてるんだ」

「始まった」

 少年が呟いた。

「第二世代だ」

 次の照明が消える。

 再び点灯すると、今度は三上がいなくなった。

「先生!」

 蓮が叫ぶ。

 しかし悠真は困惑している。

「先生って誰だよ」

 人間そのものが消えているのではない。

 その人間についての記憶が、周囲から奪われている。

「今は君が三十四番になってる」

 少年が蓮へ言った。

「雨宮栞が消されたことで、君が一時的な記憶保持者になっているんだ」



 さらに照明が消え、昨日生まれたもう一人の蓮まで消えた。

 残ったのは現在の蓮、悠真、そして記録側の少年。

「第二世代はどこにいる」

 蓮が尋ねる。

「もういる」

「誰だ」

 少年は悠真を見る。

「彼じゃない」

 次に蓮を見る。

「君でもない」

「じゃあ誰なんだよ」

 少年は屋上の扉へ視線を向けた。

「そこ」

 扉がゆっくり開く。

 一人の男子生徒が入ってきた。

 蓮には見覚えがない。

 しかし隣にいた悠真の顔が、一瞬で青ざめた。

「……嘘だろ」

「知ってるのか?」

「知ってる」

「誰だ」

 悠真は震えていた。

「思い出した……」

 少年が静かに告げる。

「第二世代」

 そして悠真は、扉から現れた少年の名前を口にした。

「高城……悠真」



 蓮は隣を見る。

 そこにも高城悠真がいる。

 目の前にも、高城悠真がいる。

「これで揃った」

 記録側の少年が言う。

「第一世代と第二世代。そして分割された二人」

 新しく現れた悠真は、蓮を見て微笑んだ。

「久しぶり」

「俺はお前を知らない」

「そうだよね」

「誰なんだよ」

「君が神谷蓮になる前の親友だよ」

 蓮は言葉を失った。

 隣の悠真が尋ねる。

「じゃあ俺は?」

 もう一人の悠真は、少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。

「君は、僕から名前をもらった人」



 蓮は予告写真を取り出した。

 そこには高城悠真が立ち、その前に神谷蓮が倒れている。

 これまで写真の悠真と現在の悠真は同じ顔に見えていた。

 しかし二人が並んだことで、小さな違いに気づく。

「傷……」

 写真の悠真には左目の下に小さな傷がある。

 現在の悠真にはない。

 そして、屋上扉から現れた悠真にはある。

「写真の犯人役は、お前だ」

 蓮が言う。

「そう」

「でも?」

「僕も犯人じゃない」

「だったら本当の犯人は誰なんだよ」

 もう一人の悠真は校舎を見た。

「昨日の写真、誰が撮ったと思う?」

「分からない」

「今日の写真も、誰もカメラを持ってなかった」

「そうだ」

「なら写真を撮ってる人は、今も僕たちを見てる」



 全員が校舎へ目を向けた。

 ほとんどの窓は暗い。

 ただ一か所。

 職員室だけに明かりがついている。

 窓際に人影が立っていた。

 顔までは見えない。

 しかし、その人物は明らかにカメラを構えている。

 光。

 シャッター。

 直後、蓮のスマートフォンが震えた。

 届いた写真には、屋上に立つ蓮と二人の悠真が写っている。

 裏面の文章。

『二人の神谷蓮。』

『二人の高城悠真。』

『では問題です。』

 そして最後に。

『昨日、死んだのはどちらですか?』



 蓮は写真を見つめた。

 昨日死んだのは神谷蓮。

 そう思っていた。

 しかし神谷蓮という名前は、そもそも一人の人間の名前ではなかった。

 PROJECT 33で作られた共通識別名。

 高城悠真も二人存在している。

 名前も記憶も記録も、人から人へ移されていく。

 ならば。

 死亡記録に書かれていた**「神谷蓮死亡」**とは、本当に一人の人間が死んだことを意味しているのだろうか。

「違う……」

 蓮が呟いた。

「何が?」

 悠真が尋ねる。

「死亡記録って、人間の死亡記録じゃないんだ」

「じゃあ何なんだよ」

「名前だ」

 蓮は写真を握った。

「誰かから、神谷蓮という名前を消した記録なんだ」

 もう一人の悠真から笑みが消えた。

「正解」

「じゃあ昨日、死んだのは人間じゃない」

「そう」

「神谷蓮という役割が死んだ」

「そういうことだ」

「だったら俺も、倒れていた少年も生きてる」

「そう」

 蓮はそこで一度安心しかけた。

「じゃあ昨日、本当に死んだ人間はいなかったんだな?」

 もう一人の悠真は答えなかった。

 長い沈黙のあと、静かに言った。

「昨日はね」



「昨日は?」

「でも十七年前は違う。一人、本当に死んだ」

 風が止まったように感じた。

「誰だ」

「それが全部の始まりなんだ」

「名前は?」

「記録から消された。でも死亡記録だけは残ってる」

「どこに」

 もう一人の悠真は校長室を指した。

「校長室」

「桐島が持ってるのか?」

「違う。校長室そのものが死亡記録の保管庫になっている。そこに十七年前、本当に死んだ人間の元の記録が残されてる」

「それを見れば全部分かる?」

「少なくとも、二人の神谷蓮がなぜ作られたのか、そして誰を隠すためにこの町が犯人を忘れるようになったのかは分かるはずだ」



 職員室の人影はすでに消えていた。

 代わりに、その上階にある校長室の明かりがつく。

 窓際には桐島が立っていた。

 手には黒いファイル。

 表紙には遠くからでも分かるほど大きく、

『死亡記録』

 と書かれている。

 桐島の口が動いた。

 声など届くはずがない距離なのに、なぜか蓮にはその言葉が分かった。

 ――知りたいなら、取りに来なさい。

 蓮は階段へ向かって走り出した。

「蓮!」

 悠真が追う。

「行くのか?」

「ああ」

「罠だぞ」

「分かってる」

「だったら」

「でも今度こそ、人じゃなく記録を信じる」

 その言葉を聞き、もう一人の悠真が首を振った。

「逆だよ」

 蓮は振り返る。

「何が?」

「この町では、記録が一番嘘をつく」

「じゃあ何を信じればいいんだよ」

 彼は静かに答えた。

「死亡記録を見るんじゃない」

 そして。

「誰が書いたのかを見るんだ」



 蓮は足を止めた。

 最初の写真も、防犯映像も、0組の名簿も、戸籍も死亡記録も、すべて誰かによって記録されたものだった。

 誰かが書き、誰かが撮影し、誰かが保存している。

 そして、その人物だけがいつも記録の外側にいる。

 蓮は再び校長室を見上げた。

 桐島はもういなかった。

 代わりに窓ガラスへ赤い文字が書かれている。

『死亡者 一名』

『死亡日時 十七年前 九月三日 23時47分』

『死亡場所 学校屋上』

 そして最後。

『記録作成者――神谷香織』

「……母さん?」



 その瞬間、蓮のスマートフォンが鳴った。

 表示された名前は**「母」**。

「母さん?」

『蓮』

「どうした」

 香織の声は震えていた。

『思い出した』

「何を?」

『十七年前のこと』

 蓮の呼吸が止まる。

『屋上で死んだ人』

「誰なんだ」

 電話の向こうで、長い沈黙が続いた。

 やがて香織は泣きながら、それでもはっきりと言った。

『十七年前に死んだのは、私なの』

「……何?」

 蓮は理解できなかった。

「でも母さん、今生きてるだろ」

『だから、ずっと分からなかった』

「何が?」

 香織は震える声で続けた。

『今ここにいる私は、誰なの?』

 そこで電話が切れた。



 同時に校長室の明かりも消えた。

 そして蓮のスマートフォンへ、新しい写真が一枚届く。

 十七年前の学校屋上。

 そこには一人の女子生徒が倒れている。

 これまで写真から消されていた顔は、今度こそはっきりと残されていた。

 若い頃の神谷香織。

 写真の裏には二行だけ。

『最初の死亡記録を確認してください。』

 そして。

『あなたの母親は、十七年前に死亡しています。』

 蓮はスマートフォンを握ったまま、暗い校舎を見上げた。

 母が十七年前に死んでいるのなら、自分を十七年間育ててきた母親はいったい誰なのか。そして、その母から生まれたと信じてきた自分と美月は、本当に今まで思っていた家族なのだろうか。

 神谷蓮という名前が人間ではなく役割だったように、神谷香織という名前もまた、誰かへ与えられた役割なのだとしたら。

 自分たちは家族だったのではなく、家族だったという記憶を与えられた人間たちなのかもしれない。

 それでも蓮の中には、母に叱られた記憶も、美月と喧嘩した記憶も、悠真と笑った記憶も残っている。

 たとえ名前が偽物だったとしても、その時間まで偽物だったとは思いたくなかった。

 答えは校長室にある。

 桐島が持っていた黒いファイル。

 十七年前から書き換えられ続けてきた死亡記録。

 そして、その最初の一ページに記されているはずの真実。

 蓮は暗闇の中に浮かぶ校長室の窓を見上げながら、初めて強く思った。

 知りたい。

 神谷蓮が誰なのかではない。

 神谷香織が誰なのかでもない。

 名前をすべて取り払ったあと、自分たちが本当は誰だったのかを知りたい。

 その答えを確かめるため、蓮は校舎へ向かって歩き始めた。

 そして彼はまだ知らなかった。

 黒い死亡記録に書かれているのは、十七年前に死んだ一人の名前だけではない。

 そこには、これまでこの町で**「死んだことにされた人間たち」**の名前が、すべて残されている。

 もちろん。

 神谷蓮の名前も。

 高城悠真の名前も。

 雨宮栞の名前も。

 そして――

 神谷美月の名前まで。



――第八章「死亡記録」へ続く。
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