ねぇ、愚かな旦那様? 本当の私を知らないようですね。

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 ガッシャーン!!

 清々しい朝の空気が一転する。
 夫であるエドガー・グラハムが、床にティーカップを投げつけた。カップが粉々に砕け、紅茶が床に広がっていく。

「クソッ。どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって! 皆口を揃えて、後継者はヴィクトルの方がいいと言いやがるっ」
 エドガー様は吐き捨てるように言い放つ。

「エドガー様……」

「お前も、そう思っているんだろ!? アナスタシア!」

 ダークブラウンの髪から覗く眉間に皺を寄せ、鋭い碧眼でこちらを射抜く。私はその視線から逃れるように顔を伏せた。

「いいえ、私は思っておりませんわ……」
「ふん、どうだかな」

 エドガー様は鼻で笑うと席を立ち、ダイニングルームから出ていった。

 慌てて後片付けをするメイド達を見つめながら、私は深く息を吐く。
 このようなことは日常茶飯時だった。

 今朝も、父であるグラハム侯爵になにか不備を指摘され、弟のヴィクトル様と比べられたのだろう。
 ダイニングルームにやってきたエドガー様は、見るからに不機嫌そうだった。

 彼は殊更、ヴィクトル様と比べられることを嫌っている。
 昔から何かと比較されてきた二人。出来の悪い兄と、優秀な二つ下の弟。

 何をやっても要領が悪く、浅慮で短気なエドガー様。かたや、王立騎士団で様々な功績を挙げているヴィクトル様とは、天と地ほどの差がある。

(……可哀想なエドガー様……)

 私は冷めた紅茶に口を付けた。


◇ ◇ ◇
 
 本日はエドガー様と共に、夜会に参加していた。 
 優雅な音楽が流れる会場で、煌めくシャンデリアの元、着飾った貴族たちが談笑している。

「これはこれはエドガー殿」
 一人の初老の紳士に声を掛けられた。
 古くからグラハム侯爵家と親交の深い、ゼークト侯爵だった。

「あぁ、ゼークト閣下! お久しぶりでございます!」

 エドガー様は大袈裟に愛想笑いを浮かべ、会釈をした。私は彼の一歩後ろで軽くスカートの端を持ち、微笑む。

「そういえば、君の弟君、ヴィクトル殿の活躍をよく耳にするよ。かなりの武功を挙げてるらしいではないか。しかも二十三の若さで大尉とは大したものだな。エドガー殿もさぞ鼻が高いのではないですかな?」

 ゼークト閣下の言葉に、エドガー様は口の端をピクピクとさせる。握った拳が震えていた。

「いやいや、愚弟をお褒めくださりありがとうございます。しかし、そんな大したものではありませんよ。あいつは昔から剣を振るうことしか脳がない、野蛮な奴なのですから、はははっ」
 エドガー様の乾いた笑いが響き渡る。

 閣下が立ち去ると、エドガー様は「ちっ」と悔しそうに舌打ちをした。歯が食い込むかと思うくらいに、唇を噛みしめている。

「クソッ、クソッ……」
 彼はそう呟きながら歩き出す。

「エドガー様、どちらへ?」
 私が慌ててその背中に声をかけると、強い口調で返された。
「シガールームに行くっ」
 私をその場に残して、会場から出ていった。

(本当、短気な人ですわね……)
 呆れて息を吐きながら、彼が出ていった扉を見つめていると、声を掛けられる。


「アナスタシア様、ごきげんよう」

 扇子で口元を隠し優雅に微笑むのは、ルナール伯爵子息の妻である、ソフィー様だった。
 私の数少ない友人の一人で、社交界の噂話にとても詳しい。

「ソフィー様、ごきげんよう」
「あら? お一人かしら?」
「えぇ、夫はシガールームへ」

 私がぎこちなく笑ったのを察したのか、彼女は苦笑した。

「そう……。彼は少々……気難しいお方ですからね、アナスタシア様も苦労しますわねぇ」
 彼女は同情するように、こちらを見つめる。

「いえ……、そんなことはありませんわ……」
 私は曖昧に微笑み返す。

「ここだけの話、次期侯爵はヴィクトル様の方が適任かと思うのですわ。……まぁ、本人に聞かれたら、お怒りになると思いますが、おほほっ」
「……ほほっ」
 私は何も言えず、微笑むことしかできなかった。

 社交界では、ヴィクトル様の方が次期侯爵に適任だと囁かれていた。……エドガー様に直接言う者がいるわけではないが、彼の耳にも当然届いているだろう。

「私としましても、聡明なアナスタシア様はエドガー様より、ヴィクトル様の方がお似合いだと思いますわ」

「……いいえ、私はエドガー様の妻なのですわ」
 私はきっぱりと否定する。

「アナスタシア様は、本当に献身的でお優しいのですわね」
 ソフィー様は哀れむように目を細めた。 

 早くこの話題を切り上げたくて、私は周囲に視線を送る。テーブルに並べられたグラスが目に入った。

「あ、ソフィー様、ドリンクはいかがかしら?」

 私は話を逸らすように、グラスに手を伸ばした。その時、中年の小太りな男性とぶつかってしまう。

 慌てて謝るが、その男性はこちらを横目で見ると、何も言わず行ってしまった。やけに、きらびやかな装飾の上着が目に入った。

(……誰かしら? 見たことないですわ……?)

「バルツ男爵ですわ」
 私がその背中を見つめていると、ソフィー様がそっと教えてくれた。

「バルツ男爵……?」
「実は、最近になって羽振りがいいと、噂になっているんですのよ」

 ソフィー様は周りに視線を送ると、声を潜める。私は耳を彼女に近づけた。

「……バルツ男爵の周辺で、きな臭い動きが見られるらしいですわよ。彼には気を付けた方がいいですわ」
 私は彼女の助言に頷いた。
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