ねぇ、愚かな旦那様? 本当の私を知らないようですね。

2

 昼下がり、侯爵邸の庭園を散歩していた私は、13年前のことを思い出していた。

 
 ある貴族のガーデンパーティーで、私は数人の令嬢達と庭園を散歩していた。

 突如、辺りが騒然とし始める。大人達の悲鳴も聞こえた。

「危ない!!」

 誰かの叫び声に振り返ると、私の身体よりも大きな黒い獣がこちらに突進してきた。

(――!? 野獣!?)

 私は咄嗟のことに身体が動かず、その場に立ちすくんでしまう。

 その時、私の目の前に、小さな影が飛び込んできた。

(……え!?)

 私と同じ年頃の男の子が両腕を広げ、私を庇うように目の前に立っていたのだ。

 その獣は彼に襲いかかり、男の子は地面に倒れ込む。

 倒れ込んだ男の子の身体の上には、大きな黒い犬が乗っていた。犬は尻尾をブンブンと振りながら、男の子の顔をベロベロと舐め回している。

「……え? 犬? ……大丈夫?」

 私が様子を窺っていると、中年の男性が慌てて駆け寄ってくる。

「すまない、大丈夫かい? うちのマリンは子供が好きなのでねぇ」

 男性が犬を取り押さえると、マリンと呼ばれたその犬は嬉しそうに、「はっ、はっ」と息を吐きながら舌を出す。
 くりくりした人懐っこい黒い瞳をしていて、私が首を撫でるとマリンは嬉しそうに目を細めた。

「ふふっ、可愛い。……私は大丈夫ですわ。ですが、この男の子が……」

 私たちが覗き込むと、男の子は顔を真っ青にして倒れたまま動かなかった。

「こりゃ、気絶しているな」
「えぇ……、そうですわね……」

(犬が苦手なのに、助けてくれたのかしら……? とても優しい子なんだわ……)

 身長も私と大差ないし、ひょろりとした細身なのに、私を庇ってくれた男の子。
 じんわりと胸が温かくなる。


 その男の子がのちに私の婚約者となったときは、とても嬉しかった。
 だけど、再会した彼は、“優しい”とは程遠かったのだ。

 顔を合わせれば、いつも不機嫌そうに怒ってばかり。彼にとって私との縁談は、不本意だったのかもしれない。

 それでも、私が彼を見限れないのは、あの“男の子”がよぎるからだろう。
 あの出来事はたしかに、私にとっては大切な思い出だったから。

 
 テラスからお屋敷に入った廊下で、私は珍しい人物と鉢合わせた。
 騎士服姿のその人は、エドガー様よりも背がスラリと高い。私は顔を上げた。

「あら? ヴィクトル様? いらっしゃったのですね。お久しぶりでございます」
 私は微笑み、軽く頭を下げる。

「あぁ、義姉上、お元気そうで何よりです。本日は、両親に遠征帰還の挨拶に参りまして」

「そうだったのですね。遠征、お疲れ様でした。大活躍のようですね。ヴィクトル様のお名前を、聞かない日はありませんわよ、おほほ」

 私が褒めると、ヴィクトル様は照れたように頭を掻いた。

「いいえ、私なんてまだまだ。自分のできる務めを果たしたまでですよ」
「まぁ、ご謙遜を。……そういえば、エドガー様にはもうお会いになりましたの?」
 私が尋ねると、ヴィクトル様は目を伏せ苦笑する。

「……いえ、兄には避けられておりますので」

「そう……ですか」
  
(はぁ、まるで子供みたいですわ。本当に仕方のない人……。いいえ、子供の頃のほうが素直だったのかしら……?)

 私が小さく息を吐いた、その時――。

 ドカドカと足音が近づいてきた。そして、グイッと腕を引っ張られる。

「え、エドガー様!?」
「あっ、兄上!?」
 突然現れたエドガー様に驚き、私たちは声を上げた。

「いつまで話しているんだ! アナスタシア、行くぞ! ヴィクトルも用事が終わったなら、さっさと帰れ!」

 エドガー様は怒鳴りながら、私を引っ張り歩き出す。
 残されたヴィクトル様はやれやれと呆れたように笑い、こちらに向かって一礼した。
 

 私はしばらく手首を掴まれたまま廊下を歩き、突き当たりを曲がったところで、壁に強く押し付けられた。

「――っ」
 背中に痛みが走る。

​ エドガー様は逃げ場を塞ぐように、顔のすぐ横の壁にドンッと乱暴に手をついた。怒りのこもった鋭い目で、こちらを見下ろす。

「……あいつと、随分楽しそうに話していたな。……お前は俺の妻だろ!!」
 
「……エドガー様?」

「……やっぱり、お前もあいつのほうが……っ」

 エドガー様は言葉を言いかけ、ぎゅっと唇を噛みしめる。震える彼の手に力が込められ、爪が肌に食い込んだ。

「……痛っ」

 私が小さく悲鳴を上げると、エドガー様は弾かれたように手を離す。
 
 苦しげに「ちっ」と舌打ちをすると、この場から立ち去っていった。

 彼が去った後も、しばらくの間壁にもたれかかり、乱れた呼吸を整えた。
 掴まれていた手首は赤く跡が付いている。

(エドガー様、どうして……?)
 怒りの中に垣間見えた、切なげな表情が脳裏から離れなかった。


 
 コンコン……。
 夜、寝支度を整えベッドに入ったところで、遠慮がちにドアがノックされた。
 メイドが何か忘れ物でもしたのかと思い、返事をする。

「はい? 入っていいですわよ」

 廊下から咳払いが聞こえた。
「あ……、俺だが」

(え、エドガー様!?)
 私はベッドから飛び起きる。

 冷え切った夫婦の私たちは、ここ数年は寝室も別々で、夜にエドガー様が私の部屋に訪れることもなかった。

 ショールを羽織り、慌てて駆け寄ってドアを開ける。扉の前でエドガー様はバツの悪そうな顔で、視線を横に逸らして立っていた。

「エドガー様、こんな遅くにどうされたんですか?」

「…………これをやる。さっきは悪かった」

 そうボソッと呟いて私に何かを押し付けると、さっさと行ってしまった。

 私は呆気にとられつつ手元を見ると、それは缶に入った傷薬の軟膏だった。

(これって、さっきの手首のことを心配して……?)

 誰もいなくなった静かな廊下を見つめながら、笑みがこぼれる。

(使用人に頼めばいいのに、わざわざ自分で持ってきたのね。誰かに知られたら恥ずかしいと思ったのかしら……?)

「ふふ。……本当、不器用な人ですわね……」

 胸にほのかな温かさを感じながら、傷薬の缶を両手で包み込んだ。
 
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