光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第11話 必要とされる人
「藤崎先生」
ナースステーションで記録を書いていると、若い看護師に声をかけられた。
理久はカルテから顔を上げる。
「はい」
「先生って、帰ったら何してるんですか?」
一瞬、意味が分からなかった。
帰ったら何をしているのか。
それは、診療に関係がある質問なのだろうか。
今朝、名前も知らない女性と朝を迎えました、などと言えるはずもない。
理久は少しだけ考えた。
「極めて普通ですよ」
「普通?」
「強いて言うなら、論文を読んでいます」
そう答えて、穏やかに微笑む。
嘘ではない。
論文は昨日も一昨日も読んでいるし、おそらく今日も読むだろう。
若い看護師たちは、分かりやすく目を輝かせた。
「え、帰ってからも論文ですか?」
「すごい……」
「やっぱり藤崎先生って努力家なんですね」
ーー努力家。
そういうつもりではなかった。
読まなければ分からないから読むし、分からなければ困るから調べる。
ただ、それだけのことだ。
けれど、それをそのまま言えば、たぶん30点になる。
理久は少しだけ笑った。
「大したことではないですよ」
すると、看護師たちはさらに小さく声を上げた。
「言い方がもう王子」
「分かる」
「静かに努力してる感じがする」
ーー静かに努力。
今朝のことを考えれば、かなり都合のいい解釈だった。
理久は訂正しなかった。
看護師たちは、少し浮き立った様子で仕事へ戻っていった。
「藤崎先生」
今度は背後から師長の声がした。
振り返ると、呆れた顔をしている。
「言い方を学べとは言いましたけど、相手が望む答えを選べとは言ってません」
「相手が喜んでいるなら、100点かと」
「私には通用しませんからね」
「師長に勝てるとは思っていませんよ」
師長は、さらに呆れた表情で理久を見た。
「王子に拍車がかかってますよ」
「その方が、彼女たちは嬉しいかもしれませんよ」
「重症だわ」
師長は額に手を当てて、軽く首を振った。
理久は電子カルテを閉じる。
「指示は出しました」
「話を終わらせようとしてますね」
「終わらせない方がいいですか」
「そういうところは変わりませんね」
理久は軽く頭を下げた。
「気苦労が絶えませんね、師長。お疲れ様です」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺ですか」
「自覚があるなら、少しは安心です」
師長はそう言って、ナースステーションの奥へ戻っていった。
理久は、その背中を少しだけ見送った。
師長には、あまり勝てる気がしなかった。
* * *
必要とされることには、種類がある。
病棟から呼ばれ、後輩に聞かれ、手術室で今ここにいてほしいという目を向けられる。
そういう必要のされ方は、理久にも分かりやすかった。
求められているものが見えれば、それに応えればいい。
最近では、看護師たちが期待する「王子」の振る舞いも、少しずつ分かるようになってきた。
もっとも、それが本当の自分なのかと聞かれたら、答えは違う。
仕事なら、必要なものは分かる。
一方で、誰かとどこまで近づけばいいのかという話は、相変わらず曖昧だった。
私生活では、踏み込まない距離を知っている年上の女性の方が楽だった。
自分より年下の女性と恋をすることなど、考えたこともない。
けれど、今は仕事が面白い。
それで十分だった。
* * *
夜、自分の部屋に戻ると、理久は上着を脱いでコーヒーを淹れた。
机に座り、パソコンを開く。
画面には、読みかけの論文が表示された。
相良先生に勧められてから、何度も読み返しているものだった。
ーー綾瀬。
肝門部胆管癌の術前評価に関する論文だ。
血管浸潤や胆管分岐をどう捉え、切除範囲をどこまで検討するか。
理久は画面をスクロールし、同じ段落をもう一度読んだ。
著者の顔も声も知らない。
どういう人間なのかも分からない。
ただ、論文の中にある思考だけは見えた。
画像の見方が細かい。
判断がしつこい。
曖昧なものを、曖昧なまま終わらせない。
理久は、もう一度その段落を読み返した。
何を見て、何を考え、どう判断したのか。
論文を読めば、その思考の跡を追うことができる。
そして、自分に足りないものも見えてくる。
仕事は、そういうところが分かりやすかった。
必要なものが見えれば、それに応えればいい。
必要な場所へ呼ばれれば、そこへ行けばいい。
それなら、理久にもできる。
誰かを必要とすることは、まだ分からない。
けれど、必要とされる人間になることなら、分かる。
今は、それでよかった。
ナースステーションで記録を書いていると、若い看護師に声をかけられた。
理久はカルテから顔を上げる。
「はい」
「先生って、帰ったら何してるんですか?」
一瞬、意味が分からなかった。
帰ったら何をしているのか。
それは、診療に関係がある質問なのだろうか。
今朝、名前も知らない女性と朝を迎えました、などと言えるはずもない。
理久は少しだけ考えた。
「極めて普通ですよ」
「普通?」
「強いて言うなら、論文を読んでいます」
そう答えて、穏やかに微笑む。
嘘ではない。
論文は昨日も一昨日も読んでいるし、おそらく今日も読むだろう。
若い看護師たちは、分かりやすく目を輝かせた。
「え、帰ってからも論文ですか?」
「すごい……」
「やっぱり藤崎先生って努力家なんですね」
ーー努力家。
そういうつもりではなかった。
読まなければ分からないから読むし、分からなければ困るから調べる。
ただ、それだけのことだ。
けれど、それをそのまま言えば、たぶん30点になる。
理久は少しだけ笑った。
「大したことではないですよ」
すると、看護師たちはさらに小さく声を上げた。
「言い方がもう王子」
「分かる」
「静かに努力してる感じがする」
ーー静かに努力。
今朝のことを考えれば、かなり都合のいい解釈だった。
理久は訂正しなかった。
看護師たちは、少し浮き立った様子で仕事へ戻っていった。
「藤崎先生」
今度は背後から師長の声がした。
振り返ると、呆れた顔をしている。
「言い方を学べとは言いましたけど、相手が望む答えを選べとは言ってません」
「相手が喜んでいるなら、100点かと」
「私には通用しませんからね」
「師長に勝てるとは思っていませんよ」
師長は、さらに呆れた表情で理久を見た。
「王子に拍車がかかってますよ」
「その方が、彼女たちは嬉しいかもしれませんよ」
「重症だわ」
師長は額に手を当てて、軽く首を振った。
理久は電子カルテを閉じる。
「指示は出しました」
「話を終わらせようとしてますね」
「終わらせない方がいいですか」
「そういうところは変わりませんね」
理久は軽く頭を下げた。
「気苦労が絶えませんね、師長。お疲れ様です」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺ですか」
「自覚があるなら、少しは安心です」
師長はそう言って、ナースステーションの奥へ戻っていった。
理久は、その背中を少しだけ見送った。
師長には、あまり勝てる気がしなかった。
* * *
必要とされることには、種類がある。
病棟から呼ばれ、後輩に聞かれ、手術室で今ここにいてほしいという目を向けられる。
そういう必要のされ方は、理久にも分かりやすかった。
求められているものが見えれば、それに応えればいい。
最近では、看護師たちが期待する「王子」の振る舞いも、少しずつ分かるようになってきた。
もっとも、それが本当の自分なのかと聞かれたら、答えは違う。
仕事なら、必要なものは分かる。
一方で、誰かとどこまで近づけばいいのかという話は、相変わらず曖昧だった。
私生活では、踏み込まない距離を知っている年上の女性の方が楽だった。
自分より年下の女性と恋をすることなど、考えたこともない。
けれど、今は仕事が面白い。
それで十分だった。
* * *
夜、自分の部屋に戻ると、理久は上着を脱いでコーヒーを淹れた。
机に座り、パソコンを開く。
画面には、読みかけの論文が表示された。
相良先生に勧められてから、何度も読み返しているものだった。
ーー綾瀬。
肝門部胆管癌の術前評価に関する論文だ。
血管浸潤や胆管分岐をどう捉え、切除範囲をどこまで検討するか。
理久は画面をスクロールし、同じ段落をもう一度読んだ。
著者の顔も声も知らない。
どういう人間なのかも分からない。
ただ、論文の中にある思考だけは見えた。
画像の見方が細かい。
判断がしつこい。
曖昧なものを、曖昧なまま終わらせない。
理久は、もう一度その段落を読み返した。
何を見て、何を考え、どう判断したのか。
論文を読めば、その思考の跡を追うことができる。
そして、自分に足りないものも見えてくる。
仕事は、そういうところが分かりやすかった。
必要なものが見えれば、それに応えればいい。
必要な場所へ呼ばれれば、そこへ行けばいい。
それなら、理久にもできる。
誰かを必要とすることは、まだ分からない。
けれど、必要とされる人間になることなら、分かる。
今は、それでよかった。