光のはじまり ― 王子が困るまで ―
ホテルの廊下は静かだった。
エレベーターの中で、彼女は理久の横に立っている。
肩が触れそうな距離だったが、まだ触れていない。
「先生」
「うん」
「名前、聞いてなかった」
「藤崎」
「下の名前は?」
理久は少しだけ彼女を見た。
「理久」
「理久先生」
「先生はいらない」
「じゃあ、理久さん」
理久は返事をしなかった。
けれど、彼女がこちらを見て微笑んだのは分かった。
エレベーターが止まる。
二人で廊下を歩き、部屋へ入った。
ドアが閉まると、雨の音は聞こえなくなった。
彼女が振り返る前に、理久は一歩近づいた。
近くで見ると、思っていたよりも彼女の目元は柔らかかった。
酒の席で交わした、気の利いた会話。
時々、こちらの答えを面白がるように笑った顔。
その時間を、理久は気に入っていた。
彼女に触れたいとも思った。
だから、自分から近づいた。
けれど、触れる直前で止まる。
「本当にいい?」
彼女は理久を見上げた。
「その確認、ずるいですね」
「ずるい?」
「優しくないって言ったのに、そういうところだけ優しい」
理久は少しだけ目を伏せた。
「後で、嫌だったって思ってほしくないだけ」
彼女は小さく笑った。
「それを優しさって言うんです」
理久は、今度は否定しなかった。
彼女が自分から、理久のシャツに手を添えた。
理久はその手を見てから、もう一度彼女の顔を見る。
視線が合った。
彼女は小さく頷いた。
理久は指先で髪に触れ、ゆっくり口づけた。
シャツを掴む手に、少し力がこもる。
理久も、その背中へ腕を回した。
欲がないわけではない。
彼女を魅力的だと思うし、触れていれば心地よかった。
仕事のことを考える必要も、誰かの期待に応える必要もない。
ただ、目の前の相手と過ごす。
今夜は、それでよかった。
好きだとは言わなかった。
また会おうとも言わなかった。
急ぐこともしなかった。
彼女が目を閉じれば待ち、触れてくれば応える。
続かない夜だと、互いに分かっていた。
* * *
翌朝。
カーテンの隙間から、白い光が差していた。
理久は目を覚まし、隣へ視線を向けた。
彼女はいなかった。
サイドテーブルに、ホテルのメモ用紙が一枚置かれていた。
――嘘をつかない人ですね。
それだけだった。
連絡先も、名前もなかった。
理久はしばらく、その文字を見ていた。
昨夜は楽しかった。
彼女も、そうだったのならいい。
後悔はなかった。
もう一度会いたいかと聞かれれば、たぶん違う。
けれど、昨夜の時間が無意味だったとも思わない。
夜を一緒に過ごしたいと思った。
彼女も、それに応じてくれた。
それで、十分だった。
理久はメモをサイドテーブルに戻した。
シャワーを浴び、服を着る。
部屋を出る前に忘れ物がないか確認すると、スマホをポケットに入れた。
誰からも連絡は来ていなかった。
当然だ。
昨夜の彼女とは、連絡先を交換していない。
理久は、そのまま部屋を出た。
エレベーターの鏡に映る顔は、いつもどおりだった。
髪を軽く整える。
誰かと過ごした翌朝も、一人で目覚める朝も、自分の一日は同じように始まる。
仕事へ行く。
必要なら、また遅くまで働く。
帰る部屋もある。
何も困らない。
理久は鏡の中の自分を見て、少しだけ笑った。
「……可愛くないな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
エレベーターの扉が開いた。
一階のロビーには朝の光が満ちていて、外はもう晴れていた。
エレベーターの中で、彼女は理久の横に立っている。
肩が触れそうな距離だったが、まだ触れていない。
「先生」
「うん」
「名前、聞いてなかった」
「藤崎」
「下の名前は?」
理久は少しだけ彼女を見た。
「理久」
「理久先生」
「先生はいらない」
「じゃあ、理久さん」
理久は返事をしなかった。
けれど、彼女がこちらを見て微笑んだのは分かった。
エレベーターが止まる。
二人で廊下を歩き、部屋へ入った。
ドアが閉まると、雨の音は聞こえなくなった。
彼女が振り返る前に、理久は一歩近づいた。
近くで見ると、思っていたよりも彼女の目元は柔らかかった。
酒の席で交わした、気の利いた会話。
時々、こちらの答えを面白がるように笑った顔。
その時間を、理久は気に入っていた。
彼女に触れたいとも思った。
だから、自分から近づいた。
けれど、触れる直前で止まる。
「本当にいい?」
彼女は理久を見上げた。
「その確認、ずるいですね」
「ずるい?」
「優しくないって言ったのに、そういうところだけ優しい」
理久は少しだけ目を伏せた。
「後で、嫌だったって思ってほしくないだけ」
彼女は小さく笑った。
「それを優しさって言うんです」
理久は、今度は否定しなかった。
彼女が自分から、理久のシャツに手を添えた。
理久はその手を見てから、もう一度彼女の顔を見る。
視線が合った。
彼女は小さく頷いた。
理久は指先で髪に触れ、ゆっくり口づけた。
シャツを掴む手に、少し力がこもる。
理久も、その背中へ腕を回した。
欲がないわけではない。
彼女を魅力的だと思うし、触れていれば心地よかった。
仕事のことを考える必要も、誰かの期待に応える必要もない。
ただ、目の前の相手と過ごす。
今夜は、それでよかった。
好きだとは言わなかった。
また会おうとも言わなかった。
急ぐこともしなかった。
彼女が目を閉じれば待ち、触れてくれば応える。
続かない夜だと、互いに分かっていた。
* * *
翌朝。
カーテンの隙間から、白い光が差していた。
理久は目を覚まし、隣へ視線を向けた。
彼女はいなかった。
サイドテーブルに、ホテルのメモ用紙が一枚置かれていた。
――嘘をつかない人ですね。
それだけだった。
連絡先も、名前もなかった。
理久はしばらく、その文字を見ていた。
昨夜は楽しかった。
彼女も、そうだったのならいい。
後悔はなかった。
もう一度会いたいかと聞かれれば、たぶん違う。
けれど、昨夜の時間が無意味だったとも思わない。
夜を一緒に過ごしたいと思った。
彼女も、それに応じてくれた。
それで、十分だった。
理久はメモをサイドテーブルに戻した。
シャワーを浴び、服を着る。
部屋を出る前に忘れ物がないか確認すると、スマホをポケットに入れた。
誰からも連絡は来ていなかった。
当然だ。
昨夜の彼女とは、連絡先を交換していない。
理久は、そのまま部屋を出た。
エレベーターの鏡に映る顔は、いつもどおりだった。
髪を軽く整える。
誰かと過ごした翌朝も、一人で目覚める朝も、自分の一日は同じように始まる。
仕事へ行く。
必要なら、また遅くまで働く。
帰る部屋もある。
何も困らない。
理久は鏡の中の自分を見て、少しだけ笑った。
「……可愛くないな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
エレベーターの扉が開いた。
一階のロビーには朝の光が満ちていて、外はもう晴れていた。