光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第12話 桐谷の結婚

前日の夜、桐谷から短い連絡が来た。

『明日、飲むぞ』

用件は書かれていない。

理久はスマホを眺めた。

相変わらず、ずいぶん勝手な誘い方をする。

『急だね』

すぐに返信が来た。

『急じゃないとお前来ないだろ』


……それは否定できない。


『用件は』

『来れば分かる』

理久は少しだけ笑った。

肝心なことほど、雑に伝えてくる。

昔から、そういう男だった。

* * *

翌日の夜。

理久が店に着くと、桐谷はすでに飲んでいた。

カウンター席と、奥にいくつかのテーブル席がある小さな店だった。

騒がしすぎず、静かすぎない。

久しぶりに会って話すには、ちょうどいい。

「遅い」

席に着くなり、桐谷が言った。

「時間通りだけど」

「俺より遅い」

「基準がおかしい」

理久は笑いながら上着を椅子に掛け、向かいに座った。

「外病院、どうだよ」

「慣れてきたかな。やりがいもあるよ」

桐谷が少し意外そうに目を上げた。

「まともな返しだな」

「昔からまともだよ」

「どこが」

「仕事はしてる」

「そういう意味じゃない」

桐谷は笑って、ビールを飲んだ。


しばらくは互いの近況を話した。

大学病院のこと。

外病院のこと。

医局の噂や、共通の知り合いの話。


離れて働くようになっても、桐谷との会話は以前と変わらなかった。

軽口を叩きながらも、仕事の話になれば話が早い。

余計な詮索をするくせに、必要なことはきちんと見ている。

理久は、そういうところを昔から優秀だと思っていた。


ひと通り話したところで、理久はグラスを置いた。

「それで?」

桐谷が顔を上げる。

「何か話したいことがあるんじゃないの?」

一瞬の沈黙。

桐谷はビールをひと口飲んだ。

「俺、結婚するわ」

理久は箸を止めた。

「結婚?」

桐谷が、分かりやすく顔をしかめる。

「第一声それかよ」

理久は瞬きをした。

「おめでとうの方がよかった?」

「普通はな」

「おめでとう」

「遅いんだよ」

「順番を間違えた」

「間違え方がひどい」

桐谷は呆れたように笑った。

「まあ、お前らしいけど」

理久は箸を置いた。

「相手は?」

「前に話しただろ。教授秘書の子」

「ああ」

医局で何度か見かけたことがあった。

教授の予定を確認したり、書類を抱えて廊下を歩いていたり。

柔らかい顔立ちの、落ち着いた女性だった。

桐谷が彼女を気に入っていることは、以前から知っていた。

「覚えてたんだな」

「顔くらいは」

「可愛いだろ」

「桐谷が好きそうだとは思った」

「言い方」

桐谷は苦笑した。

「立場上、あまりオープンにはしてなかったんだけどな」

「教授秘書なら、そうだろうね」

「でもまあ、ちゃんと決めようと思って」

「決める」

理久は、その言葉を繰り返した。

桐谷が照れくさそうに笑う。

「そう。結婚するって決めた」

「で、なんで結婚?」

桐谷はビールのグラスを見た。

「なんでって聞かれると、難しいな」

理久は少し考えた。


結婚する理由。


一緒に暮らすことには、いろいろと利点があるのだろう。

「一緒に住むため?」

「まあ、それもあるけど」

「たとえば、帰ったら部屋が綺麗とか」

桐谷が一瞬、黙った。

それから、理久を見て苦笑する。

「お前の部屋、常に綺麗だったな」

「うん」

「そういえば、ハウスキーパー来るんだっけ」

「来るね」

「じゃあ、それは違う」

桐谷は自分で言って、自分で否定した。


理久はさらに考えた。

「食事が用意されてるとか」

「それも違うだろ」

「どうして」

「お前、その辺の女性より上手く作るだろ」

「メス捌き?」

「いや、包丁だろ」

「似たようなものじゃない?」

「絶対違う」

桐谷が呆れたように笑った。


部屋が綺麗であることも、食事が用意されていることも、結婚しなければ得られないものではない。

そもそも理久は、一人で暮らしていて不便を感じたことがほとんどなかった。

掃除も、食事も、必要なら自分でどうにかできる。

生活の仕組みを変えるためだけに、結婚する必要はない。


では、ほかに何があるのだろう。


理久はもう少し考えた。

「……癒される、とか?」

桐谷が少しだけ目を細めた。

「お、少し近づいたか」

理久はグラスに視線を落とした。

仕事を忘れて、誰かと過ごす時間。

それが心地よいことなら、知っている。

「……後腐れない人には、癒されてるかもしれない」

桐谷が露骨に嫌な顔をした。

「最低だな」

「うん」

「そこは否定しろよ」

「最低ではあると思う」

「自覚ある最低って、さらに面倒だな」

桐谷はしばらく黙った。

それから、呆れたように息を吐く。

「お前、今、結婚する理由を生活機能で探してただろ」

理久は黙った。


……当たっている。


「癒しも入れたよ」

「その癒しの使い方が最低なんだよ」

「違うの?」

「違う」

桐谷は短く答えた。

それから、グラスを置いた。

「いてほしいんだよ」

「いてほしい?」

「そう」

理久は桐谷を見た。

「必要だから?」

「そうだけど、お前の言う必要とは違う」

「どう違うの」

桐谷はグラスに指を添えた。

さっきまでの軽い調子が、少しだけ変わった。

「生活は回る。飯も食えるし、仕事も行けるし、寝られる」

「じゃあ、困らないんじゃない」

「回るだけになるんだよ」

理久は黙った。

桐谷は、すぐには次の言葉を続けなかった。

「生活は回る。でも、ただ回るだけになる。その中で、いてほしいと思った。逆にいないと、俺が困る」


ーー困る。


聞き覚えのある言葉だった。

「家に帰る理由が、部屋じゃなくて人になる感じ」

桐谷は少し照れくさそうに笑った。

理久は、手元のグラスを見た。


ーー帰る理由。


部屋ではなく、人。


――あなたが、自分から帰りたいと思う場所を見つければいいなって思ってる。


不意に、年上の彼女の声がよみがえった。

別れ際、彼女は確かにそう言っていた。

理久には帰る部屋があった。

それで十分だと思っていた。

今も、生活に困っているわけではない。

けれど、桐谷が言っているのは、そういうことではないらしい。

「帰る理由……ね」

理久はグラスを持ち上げた。

桐谷には、自分の知らない理由がある。

それだけは、分かった。

「藤崎」

桐谷が理久を見た。

「分かってないだろ」

「そうだね」

理久は素直に答えた。

「分かってないね」

桐谷は苦笑した。

「だろうな」


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