光のはじまり ― 王子が困るまで ―
「お前はどうなの?」
「何が」
「いないと困る相手」
「いない」
「即答だな」
「いないものは、いないからね」
桐谷は理久の顔をしばらく見ていた。
「付き合ってる人は?」
「いないよ」
「さっき言ってた、後腐れのない相手は?」
「付き合ってはいないよ。そういう約束もしてない」
「……なるほどね」
桐谷はビールをひと口飲んだ。
「じゃあ、誰か紹介しようか?」
「困ってない」
「そういう意味で聞いてねえよ」
桐谷がため息をつく。
「相手も、本当に割り切ってるのか?」
「最初に言うよ。続ける気はないって」
「それで傷つかない相手ばかりだと思うなよ」
理久は返事をしなかった。
続けるつもりがないことは、最初に伝えている。
期待させるような約束もしない。
それでも、相手が何を感じているかまでは分からない。
桐谷の言っていることも、間違ってはいないのだろう。
ただ、思ってもいないことを言う方が誠実だとは、やはり思えなかった。
「誰かを求めようと思わないわけ?」
「……相手の方から来るのに、どう求めろと?」
桐谷が一瞬、黙った。
それから、呆れたように笑う。
「モテる男はつらいな」
理久は顔をしかめた。
「その言い方、好きじゃない」
「だろうな」
「茶化してるよね」
「半分な」
「残りの半分は?」
桐谷の表情が、少しだけ真面目なものに戻った。
「心配してる」
理久は黙った。
桐谷は、しばらくその顔を見ていた。
「強いて言えば?」
何か、答えを待っているようだった。
強いて言えば。
誰かを求めること。
自分から、もっと知りたいと思うこと。
……ああ。
一つだけ、思い当たるものがあった。
理久は顔を上げた。
「……強いて言えば」
「うん」
「……論文」
桐谷が、はっきりと期待外れな顔をした。
「おいおい。論文が恋人かよ」
「恋人とは言ってない」
「似たようなもんだろ」
理久は少し笑った。
相良先生に勧められた、綾瀬教授の論文。
何度読んでも、考えさせられる。
別の論文を見つければ、そちらも読みたくなる。
まだ知らない研究があるなら、知りたい。
「また先を読みたい。先を知りたい。なんなら、その論文を書いた人に会ってみたい」
桐谷が、呆れた顔をした。
「お前、絶対女できないな」
「紹介するんじゃなかったの?」
「やめた。紹介する女がかわいそうだ」
理久は少しだけ笑った。
桐谷はため息をつき、ふと真面目な顔に戻った。
「でもさ」
「何」
「論文には思うんだろ。先を知りたいって」
「うん」
「じゃあ、人にそう思わないのは何でだよ」
理久は答えられなかった。
昨夜が楽しかったとしても、今夜また同じ相手に会いたいとは限らない。
一緒にいる時間が心地よくても、その先を知りたいと思うわけではない。
一方で、論文なら違う。
読み終われば、次を探す。
分からないことがあれば、もっと調べる。
書いた人間が何を考えているのか、知りたくなる。
人に対しても、そんなふうに思うものなのだろうか。
今の理久には、分からなかった。
桐谷はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「まだなんだな」
理久は少しだけ目を伏せた。
「まあ」
以前なら、意味が分からないと反論していたかもしれない。
今は、分からないことがあると認めるくらいならできる。
桐谷はグラスを持ち上げた。
「お前が、分からないって言えるだけ、前よりマシかもな」
「褒めてる?」
「かなり低い位置からな」
「失礼だね」
「事実だよ」
理久は少し笑った。
それから、自分のグラスを持ち上げる。
「おめでとう」
今度は、自分から言った。
桐谷が一瞬、驚いたような顔をした。
それから、少し照れくさそうに笑った。
「おう」