光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第13話 王子の使い方

3月。

病棟には、少しずつ年度末の空気が漂い始めていた。

退職する看護師。

異動する医師。

研修を終え、別の病院へ移る若手。

申し送りの合間には送別会の話が出るようになり、ナースステーションもどこか落ち着かない。

理久が大学病院へ戻ることも、いつの間にか病棟中に知られていた。


4月からは、助教として大学病院に戻る。

外病院での勤務も、残りわずかだった。

「藤崎先生、大学病院に戻っちゃうなんて寂しいです」

ナースステーションでカルテを確認していると、若い看護師が声をかけてきた。

隣にいた看護師も、こちらを見ている。

理久は画面から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。

「僕もですよ。この病院は皆さん親切で温かくて、働きやすかったですからね」

若い看護師たちの表情が明るくなった。

「本当ですか?」

「もちろん。僕も寂しいです」

嘘ではなかった。

初めは戸惑うことも多かったが、今では病棟のスタッフとも仕事がしやすくなった。

顔を合わせなくなることに、多少の寂しさはある。

もっとも、それをどこまで言葉にするかは別の話だった。

「送別会、参加してくれますか?」

「もちろん。楽しみにしています」

「絶対来てくださいね」

「写真も撮ってください」

「大学病院に戻っても、ここのこと忘れないでくださいね」

「忘れませんよ」

理久が微笑むと、看護師たちは嬉しそうに顔を見合わせた。

それぞれ仕事へ戻っていく背中を見送り、理久もカルテの入力を再開する。

「先生」

背後から声がした。

振り返ると、師長が立っていた。

やれやれ、と言いたげな顔だ。

「あ、師長」

「大学病院に戻ってからも、そのキャラを続けるおつもりですか?」

理久は少し笑った。

どうやら、今の受け答えも聞かれていたらしい。

「冷たい王子から、ホスト王子に振り切れてません?」

「ホスト……面白いことを言いますね」

思わず笑ってしまった。


冷たい王子。

ホスト王子。


どちらにしても、妙な呼び名だ。

以前は正しいことを言っているだけで怖がられた。

今は同じ内容でも、微笑みながら伝えれば喜ばれる。

ただ、それだけの変化なのだが。

「冷たい王子は近寄りがたいですけど、ホスト王子は近づきたくなる危うさまでありますからね」

師長は、看護師たちが戻っていった方へ視線を向けた。

「若い子たちが王子ロスになりそうで、逆に困りますよ」

「それは失礼」

理久は口元を緩めた。

「でも、仕事は円滑に進んでいますよね」

「そこは認めます。以前の先生より、ずっと報告しやすくなりました」

師長は、理久をまっすぐ見た。

「みんな、働きやすいと喜んでいます」

「それなら、悪いことではないですよね」

師長が少し複雑な顔をした。

仕事がしやすくなったのは事実だ。

その一方で、理久が相手に合わせて表情と言葉を選べるようになったことも、師長はよく知っている。

笑顔の内側まで変わったわけではない。

それを、一番近くで見てきた人だった。

「その顔で全部かわしていくつもりなら、まあ、かなり便利でしょうけど」

理久は何も言わなかった。

師長が続ける。

「でも、便利なものは、使い方を間違えると危ないですよ」

理久は、すぐには答えなかった。

仕事上の会話なら、以前よりずっとうまく運べる。

相手の話を聞き、必要な情報を引き出し、誤解が生じないように伝える。

それは、外病院で身につけた技術だった。

けれど、今の師長が言っているのは、診療のことだけではないのだろう。

「本当に分かっています?」

師長が、ため息まじりに聞いた。

「先生は器用だから、余計に心配なんですよ」


ーー器用。


そうなのかもしれない。

以前は、相手の期待に合わせることなど面倒だと思っていた。

今は、少し言い方を変えるだけで、相手の反応が変わると知っている。

そして、相手が喜ぶ答えを選ぶことにも、すっかり慣れていた。

「でも、働きやすくなったのは事実ですけどね」

師長は少しだけ声を和らげた。

理久は目を伏せた。


この人は、認めるところはきちんと認めてくれる。

初めてこの病院に来た頃から、ずっとそうだった。


師長はまだ何か言いたそうにしている。

おそらく、もう一つ釘を刺したいのだろう。

理久は顔を上げた。

そして、師長の目を見て、静かに微笑んだ。

「それは、師長の教育の賜物ですよ」

師長の表情が、わずかに止まった。

理久は、穏やかな声で続けた。

「感謝しています」

嘘ではなかった。

報告の受け方も、言葉の選び方も、この人に教わった。

今では、仕事をするうえで欠かせないものになっている。

そして、ここで感謝を伝えれば、師長がそれ以上言いにくくなることも分かっていた。

師長は一瞬、言葉を失った。

「……先生」

何か言いかけたものの、結局、小さく息を吐いた。

理久はカルテを閉じる。

「では、何かあったら呼んでください」

軽く会釈をして、ナースステーションを離れた。

* * *

廊下に出ると、午後の光が白く差し込んでいた。


少し前まで、師長には一生勝てないと思っていた。

何を言っても、何を返しても、最後には必ず見透かされる。


それが、今日は違った。

師長は、最後に何も言い返さなかった。

言い負かしたわけではない。

嘘をついたわけでもない。

感謝を伝えただけだ。

それでも、あの師長が黙った。


……なるほど。


こういう使い方もできるのか。

理久は、少しだけ口元を緩めた。


4月から、大学病院へ戻る。

今度はレジデントではなく、助教という立場で。

若い医師からは見られ、上級医からは実力を測られる。同世代と比べられ、パラメディカルから噂されることもあるだろう。

以前から、そういう場所だった。


けれど、今は少し違う。

外病院で覚えたものは、手技や判断だけではない。

相手が望む言葉を選び、穏やかに微笑む。

必要なときには、その笑顔で距離を取ることさえできる。


理久は廊下の先へ歩き出した。

思っていたより、ずっと便利なものを手に入れたらしい。
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