光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第14話 戻ってきた王子

第三部 助教として戻る



4月。

医師4年目の春。

及川蒼真は、外科レジデントとして大学病院へ戻ってきた。

初期研修を終え、関連病院で1年を過ごしたあと、改めて外科医としてこの場所に戻ってきたのだ。


大学病院の外科レジデントには、同じ年次の医師が何人かいた。

中川と相澤は、及川と同じ大学だった。

特に中川とは学生時代から気が合い、今も気兼ねなく話せる。

同じ外科へ進むことになったのは、心強かった。

佐伯は大学が違う。

初期研修医時代、同じタイミングで外科を回ったことがあり、それ以来、顔を合わせれば話す仲だった。

今日からは、同じ外科レジデントだ。


ローテーションは数か月ごとに組まれている。

及川と佐伯は、まず上部消化管班。

その後、下部消化管を経て、最後に肝胆膵へ移る予定だった。

中川と相澤は別の順番で、肝胆膵から始まる。

同じ外科レジデントでも、最初から全員が同じ班で働くわけではない。

「及川、上部だっけ」

更衣室のロッカー前で白衣を羽織りながら、中川が聞いた。

「うん。佐伯も上部」

「俺と相澤は肝胆膵。噂の王子もいる」

中川がにやっと笑った。

「王子って呼ばれてるの、まだ続いてるんだ」

佐伯が少し意外そうに言った。

及川は顔を上げた。


ーー王子。


藤崎先生のことだ。

その名前には、覚えがある。

初期研修医時代、外科を回ったときに短い期間だけ関わった。


当時の藤崎先生は、少し印象的だった。

言葉が直接的で、容赦がない。

必要以上に関わってこないし、愛想笑いもしない。

冷たいというより、無駄がない。

人に興味がないように見えて、案外よく見ている。

怖い、と一言で片づけるのは少し違った。


優秀な人。

綺麗な人。

そして、近寄りがたい人。


「及川、藤崎先生と関わったことあるんだろ?」

中川が聞いた。

「研修医の時に少しだけ」

「怖かった?」

「怖いっていうか……言葉がそのまま来る感じ」

「それ怖いじゃん」

佐伯が笑う。

「いや、怖いというより、刺さる」

「結局怖いじゃん」

相澤が静かに言った。

及川は少し考えた。

「でも、研修医の俺の名前は覚えてた」

「何それ、逆に怖い」

中川が真顔で言った。

「王子に記憶されるって、何か審査通過した感じしない?」

「しないだろ」

「するって。及川、お前何かやらかしたんじゃないの」

「やらかしてない」

「目つけられてたんじゃない?」

「やめろ」

及川は苦笑した。


本当に、何かをやらかした記憶はない。

特別に目立ったつもりもなかった。

外科を回った、大勢の初期研修医の一人。

ただそれだけだ。

あのとき名前を覚えてもらえたのは意外だったが、それなりに時間も経っている。

まだ覚えてもらえているとは思わなかった。

* * *

白衣に袖を通し、4人は医局へ向かった。

まだ早い時間だったから、人はまばらだった。

その中で、及川は窓際に懐かしい顔を見つけた。


ーー藤崎先生だ。


朝の光を受けながら、手元の資料を確認している。

白衣の肩に光が落ち、横顔の輪郭が明るく浮かんでいた。

……なるほど。

王子と呼ばれる理由は、分からなくもない。


中川が先に声をかけた。

「外科レジデントの中川です。よろしくお願いします」

藤崎先生は資料から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。

「藤崎です。よろしくお願いします」


……あれ?


及川は、ほんの少し違和感を覚えた。

丁寧で、感じがいい。

それ自体は、別におかしくない。

ただ、以前の藤崎先生は、初対面の相手にこんなふうに微笑む人だっただろうか。

相澤も佐伯も、続けて自己紹介をした。

「相澤です。よろしくお願いします」

「佐伯です。よろしくお願いします」

藤崎先生は、二人にも穏やかに応じた。

「藤崎です。何かあれば聞いてください」

どこまでも丁寧だった。


白衣の立ち姿。

落ち着いた声。

柔らかい表情。

隙がない。


周囲が王子と呼ぶ理由は、よく分かる。

けれど、及川の記憶にある藤崎先生とは、どこか違っていた。


最後に、及川が前へ出た。

「今日からお世話になる及川です。以前、研修で――」

「覚えてるよ。及川先生でしょ」

穏やかな声が、及川の言葉を遮った。

思わず顔を上げる。

「覚えてるんですか」

「覚えてるよ」

藤崎先生は少しだけ笑った。

「外科を選んだんだね」

及川は一瞬、返事が遅れた。


……覚えてた。

本当に?


しかも、外科へ進んだことまで気に留めてくれているらしい。

「はい。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

それだけだった。

藤崎先生は再び資料へ視線を戻した。

会話は、もう終わっている。

なのに、背中に中川たちの視線が刺さっている気がした。


……絶対にあとで言われる。


及川は、そう確信した。

* * *

案の定だった。


昼のわずかな休憩時間。

売店の袋を片手に戻ってきた中川が、開口一番に言った。

「及川、お前、やっぱり何かやらかしただろ」

「やらかしてない」

「だって覚えられてたじゃん」

「研修で会ってるからだろ」

「俺も外科回った」

相澤が言った。

「俺も外科回った」

中川も乗ってくる。

佐伯が紙パックのコーヒーを持ちながら笑った。

「俺なんて及川と同じタイミングで外科回ってたけど、普通に初対面対応だったよ」

「ほら」

中川が及川を指さした。

「絶対、何かしたんだよ」

「してないって」

「王子に目をつけられるって何したんだ」

「だからしてない」

「及川先生でしょ、だって」

中川が妙に綺麗な声を作って言った。

相澤が少し笑う。

「似てない」

「似てるだろ」

「藤崎先生は、そんなに軽くない」

「じゃあ及川やって」

「やらない」

及川はため息をついた。


……面倒くさいな、こいつら。


とはいえ、中川が面白がるのも分からなくはない。

あの短いやり取りは、自分でも予想外だった。

「でも、藤崎先生、昔と印象違くない?」

及川が言うと、3人がこちらを見た。

「そう?」

中川が首を傾げる。

「昔も今も王子だよな」

相澤も頷いた。

「優秀で、感じがよくて、近寄りがたい」

佐伯が言った。

「今の印象、そのままだけど」

「そうなんだけど」

及川は言葉を探した。


以前の藤崎先生は、もっと尖っていた気がする。

正しいことを、正しいまま口にする。

相手がどう受け取るかを考えるより先に、答えが出ている。


そんな印象だった。

今は違う。


言葉の角が、きれいに削られている。

穏やかで、感じがいい。

相手が受け取りやすい形で、言葉を渡してくれる。


けれど、不思議なことに、近づきやすくなったとは思えなかった。

むしろ、どこまで近づいていいのか、以前より分からない。

「……丸くなった、のかな」

及川が言うと、中川が真顔で返した。

「王子って丸くなるの?」

「知らない」

「丸い王子って何か嫌だな」

「そういう意味じゃない」

佐伯が笑った。

「まあ、及川だけ覚えられてたのは事実だしな」

「やめろ」

「よかったじゃん」

相澤が言った。

「印象に残る研修医だったってことで」

「それ、いい意味?」

「分からない」

「分からないなら言うなよ」

中川が楽しそうに笑った。

「及川、頑張れよ。王子に見られてるぞ」

「だからやめろって」

及川は苦笑しながら、売店で買った飲み物に手を伸ばした。


冗談だと分かっている。

特別な意味などないのだろう。

それでも。

藤崎先生は、本当に覚えていた。

そのことが意外で。

少しだけ、嬉しかった。


そして、少しだけ怖かった。

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