光のはじまり ― 王子が困るまで ―
数日後。
及川は、上部消化管の手術に入った。
幽門側胃切除。
初期研修医のときにも見たことはある。
けれど、外科レジデントとして手術室に立つと、見えるものが違った。
ただ見学するのではない。
自分が理解していることも、理解できていないことも、はっきり突きつけられる。
術野を追う。
鉗子の向き。
血管の処理。
助手の位置。
執刀医の手の動き。
一つ拾ったと思えば、次の操作が進んでいる。
見ているつもりでも、すべてを追えるわけではなかった。
器械出しの看護師が、無駄のない動きで器械を渡していた。
次に必要なものへ、迷いなく手が伸びる。
その目元を見たとき、及川は少しだけ引っかかった。
……どこかで見たことがある。
けれど、マスクで顔の半分が隠れている。
思い出そうとしたところで、術野へ意識を戻した。
今は、それどころではない。
手術が終わり、患者が退室したあと。
手術室が片づけの空気に変わり、及川はようやく息をついた。
そのときだった。
「及川先生だよね」
声をかけられ、振り返る。
さっきの器械出しの看護師だった。
マスクを外した顔を見て、及川は目を見開いた。
「三浦?」
「正解。お久しぶり」
三浦玲奈は軽く笑った。
「マスクしてると分からないでしょ」
「全然分からなかった。どこかで見たことあるなとは思ってたけど」
「それ、だいたい全員に言われる」
三浦は話しながらも、手際よく片づけを進めていた。
動きに迷いがない。
必要なものへ手を伸ばし、使い終えた器械を確認する。
すっかりオペ室看護師の顔だった。
「そういえば、綾瀬は元気?」
何気なく聞いた。
その瞬間、三浦の目がすっと細くなった。
「……ん? 美月のこと、好きなの?」
声は軽い。
だが、視線だけが妙に鋭かった。
及川は慌てて首を振る。
「違う違う。そういうのじゃない」
三浦は数秒、及川の顔を見た。
……いや、だから違うって。
その視線は、ほとんど尋問だった。
やがて、三浦はすっと表情を戻した。
「ならいいけど」
切り替えが早い。
さっきまでの鋭さが消え、もう仕事の顔に戻っている。
……相変わらずだな。
及川は苦笑した。
「美月なら変わらないよ」
「そっか」
「そのうち外科コンサルで会うんじゃない? 自分の目で確かめてみたら?」
「相変わらずサバサバしてるなぁ……」
三浦は楽しそうに笑った。
それから、ふと思い出したように言った。
「ねえ、外科ってことは、王子と同じだよね?」
「王子?」
「ああ、藤崎先生ね」
及川が答えると、三浦の顔がぱっと明るくなった。
「そうそう。オペ室、王子が戻ってきたって話題で持ちきりだよ」
「そんなに?」
「そんなに。しかも執刀する姿なんて眼福って」
「眼福って……」
「本当に言われてるから」
三浦は悪びれずに言った。
「私も入りたいな。及川先生、どうにかしてよ」
「いや、それは師長に言えよ」
「えー、無理無理」
「俺に言っても無理だろ」
「外科レジデントなんだから、何とかならない?」
「ならない」
三浦は肩をすくめて笑った。
「じゃあ、運に期待する」
「そうして」
及川は時計を見た。
まだ、やることが残っている。
「あ、検体確認して出してこなきゃ」
「外科レジデント、大変だね」
「これくらい大したことないよ」
三浦は笑った。
及川は軽く手を上げる。
「じゃあ、また。これからもよろしく」
「こちらこそ」
三浦はすぐに片づけへ戻った。
及川は手術室を出る前に、もう一度だけ振り返った。
彼女は、もうこちらを見ていなかった。
完全に仕事へ意識を戻している。
その切り替えの早さが、妙に懐かしかった。
* * *
その日の夕方。
及川が医局へ戻ると、中川が椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。
「胃切どうだった?」
「んー、久々に緊張した」
「執刀したわけじゃないのにな」
相澤がカルテから顔を上げた。
「上部、忙しそうだな」
「忙しい」
佐伯が少し笑った。
「及川が静かだと、本当に忙しそうに見える」
「うるさいな」
及川は椅子に座り、軽く息を吐いた。
まだ、手術中に見た光景が頭に残っている。
あの場面で、なぜあの鉗子を使ったのか。
助手の位置が変わったのは、どの操作の前だったか。
あとで確認しておきたいことが、いくつもあった。
中川が、及川の顔を見て目を細める。
「何かあった?」
「オペ室で三浦に会った」
「三浦?」
「オペ室の看護師。昔から知ってる」
「世間狭いな」
佐伯が言った。
「で、何か言われた?」
及川は、先ほどの三浦の顔を思い出した。
美月のことを聞いたときの鋭い目。
それから、王子の話になった途端の明るい表情。
……こっちの話なら、してもいいか。
「王子が戻ってきたって、オペ室で話題らしい」
中川が楽しそうに反応した。
「王子、凄いな」
「オペ室でも?」
相澤が少し笑う。
「病棟でも、医局でも、オペ室でも王子」
「すごいな。称号みたいになってる」
佐伯が真面目な顔で言った。
「外科医っていうより、院内共通認識だな」
「本人、嫌がりそう」
及川が言うと、中川が首を傾げた。
「でも、あの感じなら慣れてるだろ」
「慣れてるのかな」
「慣れてなきゃ、あんな王子対応できないって」
中川はそう言って、コーヒーを飲んだ。
話は、そこで終わった。
ーー王子。
戻ってきた王子。
病棟でも、医局でも、オペ室でも。
どうやら、藤崎先生はどこへ行ってもそう呼ばれているらしい。
確かに、今の藤崎先生は王子らしく見える。
穏やかで、丁寧で、隙がない。
誰に対しても失礼がなく、一定の距離を保っている。
それなのに、及川には少しだけ引っかかるものがあった。
昔の藤崎先生は、もっと言葉が鋭かった。
正しいことを、そのまま置いていく人だった。
今の藤崎先生は、誰に対しても穏やかで、感じがいい。
それが変化なのか。
それとも、自分の記憶が勝手に尖らせていただけなのか。
及川には、まだ分からなかった。