光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第18話 知らないふり

数日後。

遅めの昼食を取るため、理久は相澤と中川と院内食堂にいた。

「先生、今度ある神戸の学会には行くんですか?」

定食を食べながら、相澤が尋ねた。

「いや、僕はお留守番だよ」

理久は味噌汁の椀を置いた。

「相澤は行くの?」

「はい、行きます。てっきり先生も行くのかと思ってました」

「下っ端だからね。そんな自由にあちこち行けないよ」

理久は少し笑った。

「僕の分まで学んできて」

「はい」

相澤は素直に頷いた。


このレジデントは、論文にも学会にも前向きだった。

一方、中川は学会の話よりも目の前の定食に集中している。


よく食べる。

本当によく食べる。


「中川は?」

理久が聞くと、中川は顔を上げた。

「何がですか?」

「学会」

「あー……発表じゃないなら、ちょっと」

「分かりやすいね」

「正直者なので」

相澤が横から言った。

「中川、抄録読んでないだろ」

「読んでるよ」

「どこを」

「タイトル」

「それは読んだうちに入らない」

理久は小さく笑った。


食事を終え、箸を置く。

いつものように軽く手を合わせた。

ごちそうさまでした。

幼い頃からの習慣だった。

手を下ろすと、向かい側の二人がなぜかこちらを見ている。

「……なに?」

「いえ」

中川が妙に神妙な顔をした。

「なんか、尊いものを見たような」

「何を」

「今のです。食後に手を合わせるやつ」

相澤も静かに頷いた。

「自然でした」

「それは普通じゃないの?」

中川が真顔で言った。

「普通なんですけど、藤崎先生がやると、なんかこう……」

「中川」

相澤が静かに止めた。

「……すみません。語彙が足りませんでした」

「足りないままでよかったよ」

理久が返すと、中川は少し笑った。

「でも、俺もやってみようかな」

そう言って、中川は最後の一口を食べ、両手を合わせた。

「ごちそうさまでした」


……嫌な予感がする。


この後、きっと誰かに言うのだろう。

王子は食後まで王子だった、とか。

まあ、別にいいけれど。


「午後は造影検査ですよね。行きましょうか」

相澤が中川を軽く肘で突いた。

「行くぞ」

「はいはい」

三人は席を立ち、食器返却口へ向かった。

* * *

トレーを返し、出口へ向かおうとした時だった。

視線の端に、見覚えのある横顔が入った。


ーーあ。


駅ビルの女性だ。

書店で急病人に対応した時、最初に動いた人。

その女性が、看護師たちと同じテーブルに座っていた。

制服を着て、髪を仕事用に整えている。


……同じ病院の看護師だったのか。


どうりで対応が早かったわけだ。

理久は出口へ向かいながら、もう一度だけ彼女を見た。

ちょうど、彼女もこちらを見ていた。

目が合う。


ーー先日はどうも。


その程度の意味で、軽く微笑んだ。

ところが。

彼女は即座に目を逸らした。


……え?

今、目が合ったよね?


理久は思わず、もう一度彼女を見た。

こちらを見る気配はない。

まるで最初から何も見ていなかったかのように、食事を続けている。


見事だった。

あそこまできれいに視線を切られるとは思わなかった。

理久は小さく笑い、そのまま食堂を出た。

「先生、どうかしました?」

相澤が横で聞く。

「何が?」

「今、少し笑ってませんでした?」

中川も顔を出す。

「何かありました?」

「別に」

理久は前を向いたまま答えた。

「知っている顔を見かけただけ」

「知っている顔?」

中川が食いつく。

理久はそれ以上答えなかった。


廊下に出ると、食堂のざわめきが少し遠くなった。

同じ病院の外科医だったと分かって、気まずくなったのだろうか。

それなら、まあ理解できる。

けれど。


……そこまで無視しなくてもよくない?


理久は、もう一度笑ってしまった。


駅ビルでは、遠慮なく指示を出してきた。

今度は、全力で知らないふり。


なかなか徹底している。


ーー少し感じ悪いな。


そう思うのに、妙におかしかった。

「午後の検査、そろそろですね」

相澤が言った。

「うん」

理久はいつもの顔に戻った。

「行こう」

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