光のはじまり ― 王子が困るまで ―
店員がAEDを持って戻ってくる。

「AEDです!」

女性が受け取ろうとした時、理久は自然に男性の横へ膝をついた。

「ここ、代わります。バイタル取れます?」

女性の手が、一瞬だけ止まった。

こちらの言い方で、医療者だと気づいたらしい。

けれど、驚いている時間はなかった。

すぐに切り替える。

理久は男性の状態を確認しながら聞いた。

「既往、分かります?」

「発症はいつ頃ですか」

「救急隊、あと何分くらいですか」

女性はすぐに答えた。

「意識はあります。胸痛の訴えあり。呼吸あり、橈骨動脈触知できます。発症は、目撃者によると数分前です。既往は未確認です」

「すぐ使えるよう、そばに置いておきましょう」

「はい」

それだけで通じた。


名乗らない。

職業も聞かない。

どこの病院かも、何科かも知らない。

それでも、必要なことは噛み合った。


女性は倒れている男性のそばで声をかけ続けていた。

「救急車、もうすぐ来ます。ゆっくり呼吸してください」

理久は目撃者へ向き直った。

「立っていたところから?」

「突然?」

「胸を押さえる前に、何か言っていましたか?」

「倒れる前、ふらつきは?」

短く確認し、必要な情報を拾う。


その間も、女性は患者の反応を見ていた。

互いの仕事を邪魔しない。

必要なところに、必要な手がある。


……やりやすいな。


数分後、救急隊が到着した。

理久はすっと立ち上がった。

そして、救急隊へ簡潔に申し送った。

「発見時、呼びかけに反応あり。ただし反応は鈍い状態でした。呼吸あり、橈骨動脈触知可。胸痛の訴えあり。発症はおそらく数分前。既往は未確認。目撃者によると、立位から崩れるように倒れたとのことです」

救急隊が男性を搬送していく。


人垣がほどけ、駅ビルには少しずつ休日のざわめきが戻ってきた。

書店のスタッフが頭を下げる。

「ありがとうございました。お二人とも、本当に……」

女性は短く答えた。

「いえ」

それだけだった。

床に置いていた買い物袋を拾い、スカートの裾についた埃を払っている。

理久は近づいた。

「助かりました。最初に動いてくれていたので」

本当にそう思った。

彼女が先に動いていなければ、現場はもっと混乱していただろう。

女性が顔を上げる。

「いえ、そちらこそ」

軽く頭を下げた。

そして、踵を返した。


……え。


理久は、少しだけその場に残った。


……終わり?


さっきまで同じ患者に対応していた相手だ。

もう少し何か話すかと思った。

いや、別に話す必要はない。

名乗る必要もないし、名前を聞く理由もない。

それは分かっている。

分かっているのだけれど。


……あっさりしてるな。


女性は振り返らず、人混みの中へ歩いていった。

理久も声はかけなかった。

かける理由がなかった。

ただ、少しだけ背中を見送る。


最初に動いていた人。

こちらが医師だと知らず、通行人として扱った人。

必要な場面では迷わず指示を出し、終われば何も残さず去っていった人。

名前も、職業も、知らない。


……まあ、そういう人もいるか。


理久は小さく笑い、歩き出した。


知らない女性。


それだけのはずだった。
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