光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第19話 見えてしまった名前
神戸での学会が始まると、医局はいつもより少し静かになった。
教授と上級医の一部が出張し、相澤も予定どおり神戸へ行っている。
理久は病院に残り、病棟対応や検査の確認、カンファレンス資料の準備に追われていた。
興味のある発表はいくつかあったが、行く人間がいれば、残る人間も必要になる。
それも仕事だった。
地下の資料室で必要なファイルを確認し、数枚の資料を手に職員用エレベーターへ向かう。
病棟へ戻る途中だった。
エレベーターに乗り込み、目的の階のボタンを押す。
数階上がったところで、扉が開いた。
そこに、彼女がいた。
駅ビルの女性。
食堂で、見事に知らないふりをした看護師だった。
一瞬、目が合った。
理久は何も言わなかった。
彼女も何も言わず、すぐに視線を外して乗り込んでくる。
エレベーターの端に立ち、階数表示を見る。
……また?
理久は、その横顔をちらりと見た。
こちらは見ない。
会釈もない。
相変わらず、徹底している。
扉が閉まり、狭い箱の中に二人だけになった。
声をかける必要はない。
相手が避けているなら、そのままにしておけばいい。
それなのに。
理久は、ふと口を開いた。
「……無視?」
彼女の肩が、ほんの少しだけ動いた。
それでも、こちらを見ない。
「無視ではないです」
「じゃあ、見えてないふり?」
「勤務中なので」
「便利だね、それ」
彼女は無言で階数表示を見続ける。
理久は少しだけ笑った。
「食堂でも、目を逸らしたよね」
「見てないです」
「否定早いな」
「見てないです」
思わず笑いが漏れた。
「二回言うと、だいたい見てるよね」
彼女は、すました顔のまま答えた。
「では、三回言っておきます。見てないです」
理久は一瞬、黙った。
……そう来たか。
「……強いな」
思わず、声に出ていた。
こちらを見ようともしないくせに、反撃は早い。
しかも、まったく動じていない。
理久は笑いをこらえながら、階数表示に目を向けた。
次の階まで、数秒の沈黙が続く。
彼女はもう話が終わったと思ったのだろう。
階数表示を見つめたまま、動かない。
理久は、その横顔を見た。
……本当に、こっちは見ないんだ。
食堂でもそうだった。
目が合った瞬間に逸らされ、今も徹底して知らないふり。
ここまでくると、少し確かめたくなった。
理久は一歩近づいた。
その気配に気づいたのか、彼女が反射的に振り向く。
理久は指先を、彼女の頬のすぐ横で止めた。
触れてはいない。
けれど、近い。
彼女の目が、すっと冷えた。
……あ。
怒った。
「……何してるんですか」
低い声だった。
当然だ。
理久は、自分でも少しおかしくなった。
わざわざ振り向かせておいて、何をしているんだろう。
けれど、今さら取り繕うのも妙だった。
理久は何でもない顔で答えた。
「見えてないって言うから」
「だからって、何ですか」
「本当に見えてないのか確認しようかと」
「触る気でした?」
「触ったら怒るでしょ」
「分かっているなら、やめてください」
「だから止めた」
……だから止めた、じゃないだろ。
自分で言っておいて、理久は笑いそうになるのをこらえた。
そういう問題ではない。
それは分かっている。
彼女は一歩、きっちり距離を取った。
怒っている。
かなり。
それでも、黙ってやり過ごすつもりはないらしい。
その反応が、妙におかしかった。
教授と上級医の一部が出張し、相澤も予定どおり神戸へ行っている。
理久は病院に残り、病棟対応や検査の確認、カンファレンス資料の準備に追われていた。
興味のある発表はいくつかあったが、行く人間がいれば、残る人間も必要になる。
それも仕事だった。
地下の資料室で必要なファイルを確認し、数枚の資料を手に職員用エレベーターへ向かう。
病棟へ戻る途中だった。
エレベーターに乗り込み、目的の階のボタンを押す。
数階上がったところで、扉が開いた。
そこに、彼女がいた。
駅ビルの女性。
食堂で、見事に知らないふりをした看護師だった。
一瞬、目が合った。
理久は何も言わなかった。
彼女も何も言わず、すぐに視線を外して乗り込んでくる。
エレベーターの端に立ち、階数表示を見る。
……また?
理久は、その横顔をちらりと見た。
こちらは見ない。
会釈もない。
相変わらず、徹底している。
扉が閉まり、狭い箱の中に二人だけになった。
声をかける必要はない。
相手が避けているなら、そのままにしておけばいい。
それなのに。
理久は、ふと口を開いた。
「……無視?」
彼女の肩が、ほんの少しだけ動いた。
それでも、こちらを見ない。
「無視ではないです」
「じゃあ、見えてないふり?」
「勤務中なので」
「便利だね、それ」
彼女は無言で階数表示を見続ける。
理久は少しだけ笑った。
「食堂でも、目を逸らしたよね」
「見てないです」
「否定早いな」
「見てないです」
思わず笑いが漏れた。
「二回言うと、だいたい見てるよね」
彼女は、すました顔のまま答えた。
「では、三回言っておきます。見てないです」
理久は一瞬、黙った。
……そう来たか。
「……強いな」
思わず、声に出ていた。
こちらを見ようともしないくせに、反撃は早い。
しかも、まったく動じていない。
理久は笑いをこらえながら、階数表示に目を向けた。
次の階まで、数秒の沈黙が続く。
彼女はもう話が終わったと思ったのだろう。
階数表示を見つめたまま、動かない。
理久は、その横顔を見た。
……本当に、こっちは見ないんだ。
食堂でもそうだった。
目が合った瞬間に逸らされ、今も徹底して知らないふり。
ここまでくると、少し確かめたくなった。
理久は一歩近づいた。
その気配に気づいたのか、彼女が反射的に振り向く。
理久は指先を、彼女の頬のすぐ横で止めた。
触れてはいない。
けれど、近い。
彼女の目が、すっと冷えた。
……あ。
怒った。
「……何してるんですか」
低い声だった。
当然だ。
理久は、自分でも少しおかしくなった。
わざわざ振り向かせておいて、何をしているんだろう。
けれど、今さら取り繕うのも妙だった。
理久は何でもない顔で答えた。
「見えてないって言うから」
「だからって、何ですか」
「本当に見えてないのか確認しようかと」
「触る気でした?」
「触ったら怒るでしょ」
「分かっているなら、やめてください」
「だから止めた」
……だから止めた、じゃないだろ。
自分で言っておいて、理久は笑いそうになるのをこらえた。
そういう問題ではない。
それは分かっている。
彼女は一歩、きっちり距離を取った。
怒っている。
かなり。
それでも、黙ってやり過ごすつもりはないらしい。
その反応が、妙におかしかった。