光のはじまり ― 王子が困るまで ―
そこで初めて、理久は彼女の胸元にネームプレートがあることに気づいた。
ーー綾瀬美月。
その下には、10A病棟と記されていた。
名前を確認するつもりで見たわけではなかったが、自然と文字が目に入った。
ーー綾瀬。
どこかで見たことのある名字だった。
肝胆膵の論文か、学会の抄録だっただろうか。
理久がそう思ったところで、彼女が口を開いた。
「藤崎先生ですよね」
「はい」
「外科の」
「はい」
「……駅ビルの」
「はい」
一つひとつ確認されるたびに、理久は素直に頷いた。
今さら隠す理由もない。
彼女は少しだけ目を細める。
「なぜ、その時名乗らなかったんですか」
「名乗る必要がなかったので」
「そうですけど」
理久は軽く首を傾げた。
「綾瀬さんも名乗らなかった」
彼女の動きが止まった。
反射的に胸元を見る。
ネームプレート。
その視線につられるように、理久の目もほんの一瞬だけそこをかすめた。
「今、見ましたよね」
鋭い声が飛んできた。
理久は視線を階数表示へ戻した。
九階のボタンが光っている。
「見えてしまっただけ」
彼女は何とも言えない顔になった。
先ほどまで、見ていないと言い張っていたのは彼女の方だ。
見えてしまった。
便利な言葉だった。
エレベーターが九階に着く。
扉が開いた。
理久は降りる前に、少しだけ彼女を見た。
そして、控えめに笑った。
「じゃあ、また。見えてしまったら」
そう言って、エレベーターを降りた。
扉が閉まる。
彼女の表情が最後にどう変わったのかは、見えなかった。
理久は資料を持ち直し、廊下を歩き始めた。
……さすがに、やりすぎたかもしれない。
先ほどの低い声を思い出す。
――何してるんですか。
次に会ったら、また怒られるだろうか。
いや、その前に、また全力で無視されるかもしれない。
理久は小さく息を吐いた。
ーー綾瀬美月。
駅ビルの女性に、ようやく名前がついた。
病棟へ行かなければならない。
学会組が戻るまで、仕事はいつもより少し多い。
理久はいつもの表情に戻り、足を進めた。
それでも、口元にはほんの少しだけ笑みが残っていた。
ーー綾瀬美月。
その下には、10A病棟と記されていた。
名前を確認するつもりで見たわけではなかったが、自然と文字が目に入った。
ーー綾瀬。
どこかで見たことのある名字だった。
肝胆膵の論文か、学会の抄録だっただろうか。
理久がそう思ったところで、彼女が口を開いた。
「藤崎先生ですよね」
「はい」
「外科の」
「はい」
「……駅ビルの」
「はい」
一つひとつ確認されるたびに、理久は素直に頷いた。
今さら隠す理由もない。
彼女は少しだけ目を細める。
「なぜ、その時名乗らなかったんですか」
「名乗る必要がなかったので」
「そうですけど」
理久は軽く首を傾げた。
「綾瀬さんも名乗らなかった」
彼女の動きが止まった。
反射的に胸元を見る。
ネームプレート。
その視線につられるように、理久の目もほんの一瞬だけそこをかすめた。
「今、見ましたよね」
鋭い声が飛んできた。
理久は視線を階数表示へ戻した。
九階のボタンが光っている。
「見えてしまっただけ」
彼女は何とも言えない顔になった。
先ほどまで、見ていないと言い張っていたのは彼女の方だ。
見えてしまった。
便利な言葉だった。
エレベーターが九階に着く。
扉が開いた。
理久は降りる前に、少しだけ彼女を見た。
そして、控えめに笑った。
「じゃあ、また。見えてしまったら」
そう言って、エレベーターを降りた。
扉が閉まる。
彼女の表情が最後にどう変わったのかは、見えなかった。
理久は資料を持ち直し、廊下を歩き始めた。
……さすがに、やりすぎたかもしれない。
先ほどの低い声を思い出す。
――何してるんですか。
次に会ったら、また怒られるだろうか。
いや、その前に、また全力で無視されるかもしれない。
理久は小さく息を吐いた。
ーー綾瀬美月。
駅ビルの女性に、ようやく名前がついた。
病棟へ行かなければならない。
学会組が戻るまで、仕事はいつもより少し多い。
理久はいつもの表情に戻り、足を進めた。
それでも、口元にはほんの少しだけ笑みが残っていた。